第二章
大分昔の話になるが、義久の母親は新潟県で生まれた。その三年後に同じ場所で妹、つまり義久の叔母が生まれた。二人の幼い姉妹が麦わら帽を被り、田園を背景にして両親と並んで撮った写真が今も残っている。両親の手前で姉妹は行儀よく直立しているが、顔は笑いをこらえている様に強ばっていて、とてもはしゃがずにはいられないという表情である。あたかも幸福ではち切れそうな風船の様な家族の姿がそこにはあった。だがそんな家族の平穏は長くは続かなかった。祖父は次女が生まれてから間もなく、新たな事業に乗り出した。石綿を加工して提供する会社を起こしたのだった。初めのうちこそ石綿の需要はそれなりにあって、会社も安定した業績を維持していたのだが、やがて石綿の需要が下り坂になると、会社の業績はそれに連れてがたがたと悪化の一途を辿った。祖父は元々職人であり、経営には無知であった為、資金繰りは祖母の一手に委ねられていた。祖母は何とか会社を建て直そうと連日必死だったが、ただでさえ業績が厳しい上に祖父の乱脈経営によって交際費が膨らみ、資金の逼迫から原料を仕入れる事も出来なくなり、遂には多額の負債を抱えて倒産した。
それ以降、祖父は連日家にきては怒号をあげる借金の取り立てに苦しみ、やむなく自己破産し、その後は職もなくただ酒浸りの生活を送っていた。それが酔うと必ず妻子を怒鳴りつけ、暴力を振るうまでに至った。そんな環境に耐えかねて、祖母は二人の姉妹を連れて家を出た。彼女達が移り住んだのは、貧しい人々の住む地域の、寂れたあばら屋だった。
それ以降、祖母は女手一つで姉妹を育てた。祖母は膠原病の持病を持っていて、度々発作を起こしては入退院を繰り返した。そんな病体に鞭打って働く祖母を、姉妹は心許なくも、頼もしくも思っていた。因みにその間、祖父は行方をくらまし、音信不通であった。一通の便りすらよこさなかった。
決して余裕のある暮らしはできなかったが、それでも祖母の血のにじむ様な努力の甲斐あって、姉妹は高校を卒業し、就職するまでになった。姉妹はそれぞれ新潟市近郊の職場で働き、老いた祖母を労った。やっとの事で極貧の暮らしから解放され、祖母と姉妹は長らく忘れていた平穏を味わった。
またそれからほどなく、長女、つまり義久の母が結婚する事になった。相手は母が一般職として勤めていた銀行の社員だった。それが義久の父親である。彼は祖父には無い鷹揚さと現実主義とを持ち合わせていた。
二人が結婚して三年程経つと、母は義久を懐妊した。彼女は正に幸福の絶頂にあった。長かった極寒の冬が明け、ようやく春の柔らかな光と風が訪れるように思われた。
そしてその年の一月、記録的な大雪の降る日の午後、突然に母の陣痛が始まった。父は大慌てでタクシーを呼んで、苦しむ母と一緒に産婦人科へ向かった。ところが大雪の影響で道路が混雑し、車がなかなか進まない。これには日頃鷹揚な父もさすがに苛立っていた。その長い道のりを、母はただ苦痛に耐え忍び、何とか病院に到着するまで持ちこたえた。
結局その日の夕方、母は無事に義久を産んだ。三千六百グラム程度の、健康な男の子であった。出産を終えて病室のベッドに横たわる母に、父は絶えず労いの言葉を与えていた。
暫くすると、祖母と叔母が報せを聞いて病院まで駆けつけた。
「無事に終わったよ」
とだけ母が告げると、彼女達は安堵し、涙ぐみ、そして祝福の言葉を交わしあった。そして彼女達家族はあの暗澹たる生活から今日の今日まで生きていられた事に感謝し、お互いを讃えあった。祖母は父に深々と頭を下げて、礼を言った。父も祖母を労い、もう大丈夫ですよ、という様な事を言った。
その瞬間である。病室に日本酒の一升瓶を持った老人がひょっこりと現れた。
「おう、ご苦労さん」
余りにも老け込んでいたため、初めは誰も彼の正体が分からなかったが、それは祖父だった。誰からそんな報せを聞いたのか、今になってもはっきりしない。だがその場にいる全員の顔から血の気が引き、その場は急に静かになり、窓の外の吹雪の音だけがノイズの様に不穏な空気をかき乱していた。
「今更何をしにきたんだ!帰れ!」
父の罵声が病室に響き渡った。祖父は既に昔の様な覇気も無くしており、大人しく言われるがままにすごすごと病室から出て行った。母は泣いた。
この話は後に母が義久に聞かせたものである。義久は自分の出生にまつわるこんな話を聞いて驚き、まるで小説の様な話だ、と思ったりした。自分がすぐに思索に耽ってしまう様な陰気な人間なのは、産まれてすぐにこのような凶事に遭遇したからではあるまいか?等と考えたりもした。また母に言わせれば、この出来事は幸せの絶頂から不幸の底にまで一気にたたき落とされた、人生で最も忌まわしい出来事だそうである。
それから実に十七年の時が過ぎた。義久は既に高校生になっていた。義久の一家は度重なる転勤の末(二三年おきの転勤は銀行員の宿命である)、父親の実家のある仙台に一軒家を構えていた。一家は既に祖父の存在を忘れ、恙無く暮らしていた。家族の心配は専ら叔母の嫁ぎ先である長野で暮らす祖母の事だった。祖母が膠原病の持病を抱えていた事は前述の通りであるが、その頃になると高齢の為にその病状がいよいよのっぴきならない状態になり、病床に伏していた。既に流動食しか摂る事が出来なくなり、喉に穴をあけてそこから胃瘻が行われていたのである。
そんな時に、新潟のある病院から電話がかかってきた。
「松田司さんのご親族の方でいらっしゃいますか?こちら新潟市立○○病院の××と申しますが…」
その電話に出たのは母だった。母はそれまで思い出そうともしなかった祖父の記憶を瞬時に呼び戻し、
(ああ、遂に死んだかな)
と思った。ところが病院側からの話では、祖父はその病院に肺炎で入院しているとの事だった。突然に倒れて病院に緊急搬送されたが、祖父には身寄りがなく、医療費を支払う能力も無く(祖父は如何なる保険、年金にも加入していなかった)、病院側がほとほと困り果てていた所に一家の連絡先を口にしたと言う。祖父が何故その連絡先を知っていたのかは未だ不明である。
ともかくその連絡を受け、一家は父、母、義久、義郎の家族総出で新潟に赴いた。一家が病院に着いて祖父に面会してみると、小さく縮こまった皺だらけの老人がベッドの上で胡座をかいて待っていた。父も母も最初は祖父だと気が付かなかったらしい。
「おう、久しぶりやんな」
と言って、祖父は快活に右手を上げた。全く悪びれていなかった。間違いなく祖父だった。
家族は病院と医療費を支払う約束を交わした後病院を後にし、祖父が住んでいたという自宅に向かった。そこは人っこ一人寄り付かない薄暗い路地に面した廃墟の様な家屋だった。どこで拾ってきたのか分からないがらくたや酒瓶が堆く積まれてほこりを被っており、カビだらけの布団がしわくちゃになって隅に敷かれていた。そこかしこからすきま風がビュービューと音を立てて吹き、汲取式の便所からは近づけない程の凄まじい悪臭がした。
家族は祖父が退院した時の為に、新しいアパートを借り、そこに荷物を移す事にした。祖父をそこに移住させる事にしたのである。荷物と言っても、その家にあった殆どが使い物にならないものばかりで、必要最小限の荷物以外は全て廃棄した。ゴミ収集業者を呼んでそれらを片付けると、新たな家具を調達して、それを新居に運び込んだ。
しかしそうこうしているうちに、祖父が複数の消費者金融業者から金を借りていた事が分かった。父は不承不承それらを清算する為に車で業者を回って、現金で借金を完済した。
「生涯で初めて消費者金融というところに行ったよ」
父は家族にそう言っていた。祖父はもう二度と借金をしないと、家族に誓っていた。
そうして家族が仙台に帰ってからほどなく、祖父は退院して新居に移り住んだ。家族はもうそれ以上祖父の世話を焼かないつもりでいた。母にしても、実の父親の生命の存続に関する限り一応の手助けをする事は致し方が無いとしても、それ以上の義務は到底無い様に思われたし、それ以前に祖父と深い関わり合いを持ちたくなかったのである。
ところが祖父が新居に移って一ヶ月もしないうちに、祖父は肺炎をこじらせて再び入院した。そこで今度は父母が二人で新潟に赴き、祖父から事情を聞いてみた。すると先日の入院にも関わらず祖父は不摂生を改めず、毎晩飲み歩いていたそうなのである。のみならずあれほど借金をしないと誓っていたにも関わらす、飲み代を全てツケにしていた。
父母はさすがに呆れて物も言えなかったが、とは言えどこからも収入の無い祖父の事だから、こうなる事は薄々覚悟していた。そこで意を決して仙台の家に祖父を住まわせる事にした。病気の療養にしても生活にしても、その方が余程容易いと考えたのである。こうして長年消息を絶ってきた、義久にしてみればついこの間まで顔も知らなかった祖父が、家族の一員として共に暮らす事となったのである。
当然の事ながら、祖父は一家の中で肩身の狭い立場であった。父母は殊更に祖父に対して辛く当たった。就中母などは四六時中祖父の飯の食い方だの、運動不足だのといった一挙手一投足をあげつらっては罵倒した。一日中どやしつけられる祖父を援護する者は一人としていなかった。皆祖父の自業自得であると思うと同時に、わざわざ口うるさい母を静止してまで祖父を守る動機を持たなかったのである。祖父は小さくなって昼夜問わず降り注ぐ罵声に耐えなければならなかった。この小さな老人にはもはや母に抗う力は残されていなかった。また、祖父が仙台の家にきてすぐに、祖母が亡くなった。母などは
「全く、苦労した方が早死にして、苦労かけた方がのうのうと生き延びてる何てねえ。世の中間違ってるよ」
などと祖父の前で憚る事無く口にした。祖父はそれが聞こえたのか聞こえていなかったのか、ただ俯いて黙っていた。
尤も肉親には嘲られ、仕事も無く、日々借金取りに追われていた祖父にとって、それは充分に幸せな日々だった。いや、幸せというのに語弊があるなら、安息の日々だった、という事になるかも知れない。祖父は何の収入源も人脈も持たなかったが、それでも元々職人だっただけあって、手先が器用であった。祖父は率先して家事を引き受けた。皿洗いは毎食後の祖父の仕事だったし、猫のトイレ掃除もしていた。夏は窓辺に朝顔をはやして庇を作り、冬にはスコップで雪かきをしていた。
そうして、庭先や家の前の道路の掃除などをしていると、徐々に近隣の住民から顔を覚えられる様になった。祖父は家の中では大層小さくなっていたが、一歩外に出ればそれなりの人気者であった。特に小さな子供達からは随分と慕われていたらしい。年金ももらえない身分のくせに、子供に小遣いなどをやっていた。孫の幼い頃を知らない分、祖父も子供達を孫と思って接している所があったのかも知れない。またそれ以上に、祖父は元より親分風を吹かせたがる性格だった。周囲に気前の良い所を見せて、体裁を繕いたがるのだ。そういう実より名を取る性格が自らの事業の失敗に結びついた訳であるが、この場合に限っては取り立てて何の弊害も無かった。
そんな風にして気楽な毎日を送る祖父の生活は何年も続いた。だが義久が東京で働き出した頃、祖父は次第に病魔に蝕まれていった。発端は不眠症であった。ムズムズ足症候群といって、足を虫が這い回る様な感覚に襲われ、夜寝付けないらしかった。そこで祖父は夜な夜な家族が寝静まった後、こっそり一人風呂場に行って冷水を足にかけていたらしい。元々アルツハイマーの気もあって、頭も朦朧としている祖父である。毎日そんな事をやっていたら、ある夜風呂場で足を滑らせて転んだ。それで大腿骨を骨折した。結局それで入院して、手術を受ける事になった。
手術が成功すれば、すぐに家に帰られるものと思っていた。祖父だけでなく、家族もである。だが骨折で入院しているうちに、肺癌が見つかった。手術は成功して、骨折は治った。だが肺癌の為に、祖父はその後も入院していなければならなかった。
また骨がくっついたからと言って、ムズムズ足症候群が解決した訳ではない。祖父は入院中、眠れぬ夜を過ごした。それを医者に訴えると、睡眠薬を貰った。それを飲むと眠れるようになる。が、眠ると今度は全身の筋肉が弛緩して、誤嚥を起こしてしまう。祖父は寝ている間の誤嚥もとで肺炎になってしまった。誤嚥性肺炎と言うらしい。
それからはもう、祖父には病魔同士の一進一退のせめぎ合いに圧迫される日々が続いた。睡眠薬を飲めば誤嚥し、飲むのを辞めれば眠れなくなる。母はそんな祖父の世話を真面目にやり通した。死の瀬戸際に際して初めて娘の愛情を得られた祖父の命運を皮肉だと、義久は思っていた。しかしその愛情の甲斐なく、八月の猛暑の日、家族や親戚に看取られて、祖父は遂に亡くなった。享年八十歳だった。




