神楽 「シュレディンガーの猫」
夢 ――The Heroine’s Side――
二、
「――……ス。……リス。――アリス」
誰かが誰かを呼んでいる。と、そこまでしか思考が働かずに眠り続ける少女。
声の主は、少女に向けて話しているようだが、少女は無視を決め込むことにして眠り続ける。
「アリス。アリス。アリス。アリス」
うるさいわ。しかし少女は起きない。
そもそも、アリスって誰よ。などと思いながら、しかし起きたくないので、精一杯聞き流す少女。
アリスって人も、これだけ呼ばれているんだから答えてあげればいいのに! ついには、その責任はアリスという、少女とは見ず知らずの相手が背負うことになった。
と、そこで、声が自分に向かって発せられていると、少女は気づいた。
仕方がない、とりあえず起きようか。少女はそう決めたのだが、それを知らない声の主はアリスの名を呼び続ける。
「アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス。アリス」
延々とアリスと発し続ける声の主に、少女は怒りを覚えた。
起きるってば!! そう思っている間も、アリス・コール――尤も、まったく感情らしいものは感じないが――は鳴り続ける。
「もう!! うるさいわ!!」
少女はがばっと跳ね起きて、声の主を怒鳴りつける。
少女が声の主を見つけた。
猫だった。
黒くて、細長い感じの、人語を解する猫だった。……尤も、このアリス・コールを人語というのかは、怪しいところだが。奥行きが感じられず、どこか陰のような猫である。
少女はその奇怪な猫に、特に驚くこともなく詰め寄る。眉間にしわを寄せて。
「何なのよ、貴方! 人のことアリスアリスって、私はアリスじゃないわ!」
少女は奇怪な猫に向かってまくし立てる。
「おはよう、アリス」
猫は何事もなかったかのように、少女を覗き込む。
明らかに異常な光景ではあったが、少女は寝ぼけているのか、はたまたこの世界が「夢」であることを認識しているのか、奇怪な猫に詰め寄る。
「アリスじゃないってば! 大体、貴方こそ何なのよ」
「僕は、シュレディンガーの猫だよ、アリス」
少女はまたアリスと呼ばれたことに、顔を真っ赤にしている。
しかし、猫は少女の怒りもどこ吹く風、こう言った。
「いいじゃないか、アリス。この世界では君はアリスなんだから、名前の一つや二つ変わったって、大差ないよ」
これにはさすがの少女も絶句する。まあ、猫の言っていることは正論で、此処は彼女の「夢」なのだから、名前なんてどうでもいいのは確かだ。
しかし、少女にはどうしても納得いかないところがある。どうして、自分の夢に言い負かされるのだろうか、少女は頭を抱える。
「まあ、いいわ。アリスということにしておいてあげる。で、どうして私を呼んでいたの? 何か用事?」
そんな問いかけに猫は目を丸くして首をかしげる。
「どうしてといっても、此処は君の夢なんだから、君が起きないことには始まらないよ、アリス」
「……確かにそのとおりね。私の夢のクセに私より冷静なのが気に食わないけど、仕方ないわ。――そうね、それじゃあ、これからどうするの?」
さすがに自分の夢だけあって、少女の順応も早かった。さっきまでの不機嫌はどこに消えたのか、楽しそうだわ、などとはしゃいでいる。
「ウサギを追いかけよう、アリス」
「……はい? ウサギ? どうして?」
いきなりわけの分からないことを言われた少女はかわいらしく小首をかしげる。猫は無表情に、――そもそも表情は感じられないが――答える。
「だって、アリスだから」
「アリスって、ああ、『不思議の国のアリス』ね。そういえば、ウサギを追いかけていたわ。――よし、それじゃあ、白ウサギを追いかけましょう」
我ながら意味不明な夢だと思いつつも意気込む少女。
「彼は捕まえちゃいけないんだよ」
今度は少女が首をかしげる番だ。せっかく状況が飲み込めてきたのに、追いかけるウサギは捕まえてはいけないらしい。
「……えっと。どういうこと?」
「知っているはずだよ。だって、此処は君の夢なんだから」
そんなことを言われたって、分からないものは分からない。少女の機嫌がまた斜めになりかけたところで、それは通過した。
白いウサギが駆けていく。
黒のタキシードに赤い蝶ネクタイをしたウサギが、駆けていく。
どことなく丸みを帯びつつも人型をした、よくぬいぐるみにありがちなフォルムだ。真紅の瞳に、大きな足。靴は履いていないようだ。
「ほら、ウサギだよ。捕まえよう」
「駄目なんじゃないの?」
「捕まえるんだよ。ほら、逃げていくよ」
猫の言葉ではっとする。言っている意味はよくわからないし、どうしてそうしなければならないのか、さっぱり分からないが仕方ない。
少女はその奇怪なウサギを捕まえることにした。
「ほら、行くわよ」
少女は駆け出す。長くしなやかな黒髪が扇のように広がり、少女の美しい顔立ちと合わせてみると、なかなかに凛々しく、可憐に見える。
それに猫もついていく。少女の斜め後ろぴったりにくっついているのだが、どういうわけか、足は動いていない。こう、影のようにぴたりとくっついて、滑っているようだ。
少女は猫の奇怪な動きを目にしてはいたが、自分の「夢」だからとあえて割り切ることにした。
少女は決して遅くはなかったが、ウサギの走行速度の方がはるかに速かった。
少女よりも歩幅ははるかに小さいはずなのに、ウサギは見る見るうちに遠く離れて見えなくなってしまう。少女は息を切らせて走るが、まったく追いつかない。遂にはウサギの姿は見えなくなってしまい、少女はそこでその場に座り込んだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ……。何なの、あのウサギ。早すぎるわよ」
「逃げちゃったよ、アリス」
息を荒げている少女とは反対に、猫は息も切れておらず、先ほどまでと変わった様子はない。動物はこのくらい平気なのだろうか。いや、そもそも走ってなかったよな。少女は涼しげにたたずんでいる猫を恨めしげに見つめる。
どうやって移動していたのか。そんなことを聞いてもまたわけの分からないことを言われるに決まっている。分からないなら、最初から聞かないほうが気楽である。
とは言っても、このままではウサギを逃がした責任を追求され続けかねない。仕方がないから、少女は話題を変えることにした。
「ねえ、私がアリスで、あれがウサギなら、貴方はチェシャ猫よね?」
どう見てもこの世界は、ルイス・キャロルの小説「不思議の国のアリス」だ。猫にウサギにアリスだから、間違いないと少女は確信する。となれば、この猫はチェシャ猫なのだ。小説の中でアリスをサポートしながら白ウサギを追いかける、不思議な猫のはずだ。
しかし、少女の期待は裏切られる。
「違うよ。僕はシュレディンガーの猫だよ」
「いいのよ、誰の猫かなんて。貴方の名前よ。きっとシュレディンガーさんが飼っているチェシャ猫なのだわ」
そもそも「チェシャ猫」は一匹しかいないわけだから、この推論はまったく間違っているわけだが。
「違うよ。シュレディンガーは僕の親だよ。で、名前はシュレディンガーの猫。それ以外にないよ」
少女は腕を組み、眉間にしわを寄せて首をかしげる。いかにも考えてやるけど分かりません、といった様子だ。
「シュレディンガーさんに産み出されたの?」
「そうだよ」
「一応聞くけど、シュレディンガーさんって、人間よね?」
「そうだよ」
「――嘘ね。人間は猫を産まないわ」
「本当だよ」
「嘘よ」
いくら夢の中とはいえ、これだけは認められない。
人間は猫を産まない。当然のことだ。夢の中だからといって、そんなことがあってたまるか。少女は徹底抗戦の構えだ。
対して猫は、一応自分の存在を否定されかけているので、これは聞き流そうとしない。
「そうだ。じゃあ、アリス。僕の産み方を教えてあげるよ」
「嘘よ。……は?」
「だから、アリスにも僕を産ませてあげるよ」
呆けていた少女の顔が、突如真っ赤になる。
さて、思春期真っ只中の少女の脳内妄想暴走中。
産ませる? この、猫を? つまり、孕ませる? 猫を? いやいや、孕むってことはつまり、ああいうことをするわけで……。嫌よ、絶対!! 猫なんかと!! セクハラもいいとこだわ!! でもでも、これは私の夢だから、それは私が心の奥底で望んでいること? 嘘嘘嘘!! 猫を孕みたいなんて思ったことないわ!! そ、そもそも、ア、アレをしたってすぐに産まれるわけじゃないし……。ひどい夢だわ。――早く醒めて。でもでもでも、これは私の夢だから――
「アリス?」
「ひゃあ!!」
少女は真っ赤になって飛び上がる。
少女はこの不埒者の猫を叩き潰してやろうと思ったが、それを実行する前に猫が誤解を解いた。
尤も、猫は誤解されていることを知らなかったが。
「産んでみるかい? 簡単だよ?」
「お断りよ!!」
「でも、簡単だよ? 蓋の付いた箱の中に猫とラジウムと粒子検出器と青酸ガスの発生装置を入れるだけだから」
「いやよ!! どうして、猫なんかと……はい?」
「だから。蓋の付いた箱の中に、猫とラジウムと粒子検出器と青酸ガス発生装置を入れれば出来上がりだよ。シュレディンガーはそうやって僕を産み出したんだ」
「…………」
少女は自分が勘違いしていたことに気づき、さらに顔を朱に染める。それはもうトマトのように真っ赤になっていて、それを悟られまいとうつむいているが、無駄なことだろう。
もしも人間がいたら、一目で見抜くだろうし、猫はそれに関してまったく関心がなかったからだ。
「へ、へえ……。物騒なミックスね……」
というか、間違いなく猫が死ぬんじゃないかしら? というか、シュレディンガーさん、動物愛護協会に叩かれますよ? 人差し指で額を押さえる少女に猫は問いかける。
「ねえ、アリス。猫はどうなると思う?」
答えるまでもないと、少女は即答する。
「死ぬでしょう?」
しかし、猫はさらに問う。
「どうして?」
少女はこれまた当然とばかりに答える。
「ラジウムって、放射性物質でしょ? それで、検出器と青酸ガス発生装置の組み合わせなんだから、ラジウムの原子崩壊と同時に青酸ガスが発生して、猫は死ぬでしょ?」
「よく知っているね」
「まあ、……?」
そこで少女はふと気づく。
どうしてそこまで知っているのか。放射能検出器と青酸ガス発生装置がつなげてあるとは聞いていない。そもそも、ラジウムが放射性物質ということすらどうして知っているのか分からない。
しかし、知っているのだから、どこかで聞いたことがあるのだろう。おそらく、そういうことを吹き込んでくる輩が近くにいたのだ。
と、そこで少女の思考を邪魔するように猫が問うた。
「ねえ、本当に猫は死ぬのかな、アリス?」
「え?」
「ラジウムが原子崩壊を起こすかどうかは、分からないよね」
「……」
「量子論的には、原子の状態というのは、観測された瞬間に決定されるんだよ。つまり、」
「ラジウムを観測するまで、崩壊していたかどうかは分からない?」
「ちょっと違うよ。分からないんじゃなくて、決まらない。つまり、ラジウムを観測するまで、原子崩壊を起こしているかどうかは、決まっていないんだ」
「つまり、どういうこと?」
「箱を開けるまで、ラジウムが原子崩壊を起こしたかどうかは決まっていない。空けた瞬間、二つのどちらかが起こったことになる。それも、確率論で決定されるんだ」
「……」
少女は思考を止めた。はっきり言って、意味が分からない。この猫は何が言いたいの? 答えは猫がすぐに答えた。
「つまりね。箱を開けるまで、猫の生死は決定されていないんだよ。開けるまで、ラジウムが原子崩壊している世界――つまり、猫が死んでいる世界――と、ラジウムが原子崩壊していない世界――つまり、猫が生きている世界――の二つの世界が存在しているんだよ。そして開けた瞬間に、世界はそのどちらかの世界に収束するんだ。それも、確率論でね。つまり、確率的に、半分は死んでいるけど、半分は生きている猫が、箱の中に入っているんだね」
少女の記憶の奥底に、確かにそんな記憶はあった。
ラジウムの状態が決定していないなら、放射能が検出されたかどうかも決定されていない。つまり、青酸ガスが発生されていたかどうかも決定されておらず、つまりは猫が死んでいたかどうかも決定されていない。
だから、猫は死んでいるし、生きているんだよ、とかあの物理オタクがいっていたような……。しかし、少女はそこで当然の疑問に気づく。
「――でも、おかしくない? 生死が半分ずつ同居している猫なんて、普通に考えてありえないじゃない」
「おかしいね。そのおかしさを証明するために産まれたのが僕だよ」
「――思い出した」
今まで靄のかかっていた記憶が鮮明に思い出される。
「そうだよ。原子の状態は観測された瞬間に決定されるとした量子論に対して異論を唱えたのさ。原子の状態なんて、その瞬間に決まっても、ミクロの世界の些細な問題で、マクロ――つまり、それよりも大きい世界――に影響は及ぼさないとしていた彼らに、シュレディンガーが出した、問いかけだよ。だって、この猫には量子レベルの変化が、生死を分けるくらいの大問題なんだから。そうでなくとも、箱を開けるまで二つの世界が箱の中に存在していることになってしまう。そして、開けた瞬間に世界がどちらかに収束する。本来ありえないことだよね。この箱は、ミクロの変化がマクロに影響を及ぼす箱なんだよ、思い出した? アリス」
「ええ。昔読んだことがあるわ」
「よかった」
しかし、少女は更なる疑問を見つけてしまう。
「ねえ、貴方がシュレディンガーの猫というのは分かったけど、どうして貴方が『不思議の国』の案内人なの?」
「だって、此処は『物理の国』だから」
「……はい?」
「だから、此処は『物理の国』なんだよ。『不思議の国』でも、『鏡の国』でもない、君の国なんだよ」
頭が痛いわ。どうして、アイツ好みの世界を私が夢で見なければいけないのよ。冗談じゃないわ。私、物理苦手なの。
少女は頭を抱えて座り込む。
そんな少女に猫は優しく声をかける。
「さあ、ウサギを追いかけよう。ほら、あそこにウサギの穴があるよ」
うなだれながら少女は問う。
「ウサギの穴って、もしかしてワームホール?」
「よく知っているね」
少女は崩れ落ちた。やはり、この世界はどこまでも物理ネタで構成されているのだわ……。
「さあ、アリス。ウサギを追いかけよう。僕は、君の猫。生死不明の、どこにでもいて、いない猫だよ」
少女は不思議な猫について、ウサギの穴をくぐっていった。




