命刻 「世界的抑止力」
現 ――The Hero’s Side――
五、
あれから少年は、常に少女の傍らで、祈り続けている。
強く、念じ続ける。
この病室の結界を塗り替える為に、一条神楽を取り戻す為に。
しかし、所詮は駆け出し……寧ろ、魔術に関して全くの無知といってもいい少年が、魔術師の結界を塗り替えることは出来ずにいた。
少年はいつとも知れないタイムリミットに焦りながらも、その焦りすらも吹き飛ばすほど集中し、強い意志で信じ続けた。
その時。
――病室の空気が変わった。
病室内の超排他的な空気の中に、強い意志の流れが混じる。
強い意志は徐々に増していき、黒く、強い風となっていく。
黒く、強く。
黒く、強く。
黒く、強く。
意思の流れはひたすらな力の流れ。その他の空気を巻き込み、巻き上げ、旋回していく。
黒く、強く旋回する。
嵐のように激しく、視覚的に強く訴える力の奔流。黒く強い旋廻。
荒々しく旋回するが、不思議にもまったくの無音。病室には換気扇の音が聞こえるだけ。
荒々しく旋回するが、不思議にもまったくの無影響。病室のいかなるものをも動かさない。カーテンすらなびかない。
黒の旋廻はいよいよ派手になり、吹き荒れる意思も非常に強力になっていく。
黒く。
強く。
旋廻。
黒く。
強く。
旋廻。
黒く。
強く。
旋廻。
黒く。
強く。
旋廻。
黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。 黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。黒く。強く。旋廻。旋廻。旋廻。旋廻。旋廻。旋廻――――。
――そして、弾ける。
世界が、現れた。
全ては一瞬の出来事。荒々しい黒の旋廻も今は消え去り、病室は視覚的にも静寂を取り戻している。
そして、「それ」は口を開いた。
「それ」の容姿は、一言で言えば少女だ。歳は十歳を過ぎたくらいか。西洋風の少女で、雪のように白い肌に、真紅の瞳。幼い顔に似合わず、酷く落ち着いており、発せられる眼光は酷く冷たい。口元を軽く吊り上げている。純白の質素なドレスを着、白のベレー帽の下には金色の長髪が腰まで伸びている。「それ」は、幼い外形に似合わず、腕を後ろに組んで少年を見上げる。外見は少女でも、「それ」そのものはまったく別のものだ。何か、強大な何かの寄せ集めのような、形容しがたい存在。故に、「それ」と呼ぶにふさわしい、ある種の畏怖を感じさせる神性。
「き、君は?」
「私? 私は……名前なんてないわ。そうね、抑止力と呼ばれているものの一つよ」
「それ」は可憐な外見と、鈴のような声色に似合わず、口調は酷く落ち着いている。
「抑止力?」
「そう。世界が、世界である為にある存在。世界が今の形を保つ為に、それを脅かす存在を抹消する為の存在。それが、世界的抑止力。私はその一部」
「世界が世界である為に……?」
「はぁ……」
未だに状況がつかめていない少年に、「それ」はため息を漏らす。
「いい? 世界の形が変わったら困るでしょう? あるとき急に世界が平らでしたーとか、地球を中心に宇宙が回ってますーとかいう事態になったら大変でしょう?」
「それは……うん。困る」
「だから、そういう風に世界が変わろうとするときに、それを阻止するのが、世界的抑止力。世界だって、そうそう形を変えられたら迷惑なんだから」
そう言うと「それ」は、眠る少女の方へと歩いていく。
「何をするつもりだい?」
少年は、「それ」を危険に思い、神楽をかばうようにして間に割って入る。
「それ」は困った様に眉をひそめる。
「何って……話を聞いていなかったの? お花を摘みにきたのよ」
凛とした、聞き心地の良い声。
「……花を摘みにきた?」
「そう。蒼い薔薇を、摘みに来たの」
「蒼い薔薇?」
「――クス。そこの女の子のことよ」
「それ」は、眠る少女に視線を移す。
「摘むって……」
「殺すってことよ」
「なっ」
「はいはい、邪魔よ」
少年が身構えると同時に、「それ」の右腕が、彼を病室の端まで弾き飛ばした。
「が……っ」
肺から空気が一気に抜け、動けなくなっている少年をよそに、「それ」は眠る少女の隣に立ち、先程少年を部屋の端まで弾き飛ばした威力を持つ右腕を振り上げ――。
「やめろっ!!」
眠る少女めがけて振り下ろした。
だが、「それ」の右腕は眠る少女を叩き潰すことなく、虚空で止まっていた。
「え……」
「ふぅ……まぁ、やっぱり対策は講じているわよね……」
「それ」は、腕が止まったことがさも当然のように、全く戸惑うこともなく右腕を下ろして少年に振り返る。
「抑止力を無効化する魔術が張られているわ。抑止力本体が本気になって動けば造作もなく壊せるでしょうけど、本体が動くには時間がかかるのよね……。全く、面倒だわ。ねぇ、貴方」
やっと立ち上がった少年に、「それ」は声をかける。
「何だ……?」
少年の瞳には敵意がある。
それを感じていても、「それ」は臆することはない。力の差は歴然なのだ。
「貴方なら出来るわ」
「何を?」
「この娘を殺すこと」
「するわけがないだろう」
「まぁ、そう言うとは思ったけど」
そう言って「それ」は肩をすくめる。
「でも、ここでこの娘を殺してあげた方が、この娘にとっても、貴方にとっても、勿論私たち世界にとっても有益なのよ?」
「神楽を殺して、僕が喜ぶとでも?」
「そうは思わないけど、このままだと、この娘、魔術師に良いように利用されて、永遠に目覚めることなく、大変な罪を犯してしまうわ」
「大変な罪?」
「言ったでしょう? 世界が変わるって」
「世界が変わる……どう変わるんだ?」
「――秘密よ。だって、喋っちゃったら、次は貴方がそれをするかもしれないじゃない?」
「そんな話、信じられないね」
「でも、このままではこの娘が目覚めないこと、魔術師に利用されること、そして世界が変わってしまうことは間違いないわ」
「神楽は、僕が起こす」
「無理ね。貴方、ろくに魔術も使えないじゃない」
「それは……でも、絶対に起こす」
「凄い自身ね。ある意味、その意志の強さで何とかなるかもしれないけれど。でも、やっぱり『蒼薔薇』を仕留めたほうが確実なのよ」
「『蒼薔薇』? 神楽のことか?」
「そうよ」
「どういう意味だ?」
「そのままよ。彼女の根底。彼女の起源。あらゆるを可能としてしまう限界突破。――彼女は、危険なの」
「危険? 誰がそう決めた?」
「世界よ。そうでなければ、私は此処にいないわ」
「でも、君の目的は世界の安定を保つことだろう? だったら、彼女を殺すよりも、魔術師を殺すべきだろう?」
「いいえ。この魔術師は確かに優れているけれど、彼の研究は成功しない。彼女以外ではね。――彼女、『蒼薔薇』である彼女のみが、魔術師の研究を成功させる唯一の存在。なにしろ、『万能』なのだから」
「――『万能』?」
「御話はここまでね。どうする? 後悔する前に、『蒼薔薇』を殺しておかない?」
「絶対に殺さないし、殺させない」
「ふぅ……まぁ、予想通りか……」
そう言って、「それ」はそれほど残念そうにも見えない様子でため息をつく。
「まぁ、いいわ。こちらからが駄目でも、向こうから攻めればいい話だし。いくらなんでも、向こうからの攻撃には対策を練れていないでしょうしね」
「何を言っているんだ?」
「――クスクス。貴方には関係のない話よ」
「それ」はスカートの裾を両手で軽く持ち上げて、上品に会釈する。
「それじゃあ、才能溢れる魔術師さん、ごきげんよう。願わくば、貴方の願いが勝ちますように」
にこりと微笑み、「それ」の全身はちかちかした粒子に霧散し、そのまま「世界」に溶けていった。