神楽 「ラプラスの魔」
夢 ――The Heroine’s Side――
十、
「おはよう、アリス。目が覚めたかい?」
「……此処は?」
「君の夢」
「――また、此処なのね」
「君の夢だからね」
少女は暗い森の中にいた。
暗いながらも邪悪な雰囲気は一切なく、むしろ陽気な雰囲気の森だ。不思議な森で、居心地が良い。
とても居心地の良いその森の空気に、少女は目を瞑り深呼吸する。
すると、猫が三日月に口を切り開いた。
にんまりと笑っているように見えるが、少女を覗き込むその黄色の瞳と合わせて、どこか凶悪な笑顔に見えなくもない。とにかく、不思議な猫だ。
「今日も、ずいぶんと派手に壊したね」
「壊す?」
少女は嫌なことを思い出し、しかししらばくれてみる。
だが、猫は何もかもを見透かすような黄色い瞳で少女を射抜く。
「君の現実を」
「……現実?」
「学校を殺したよね? 君の持っている世界の大半が壊れたね」
「なによ、私の持っている世界って?」
「それは」
すると、影のような猫が、ザザザといいながら、ぶれる。
まるでトラッキングのあっていない映像のように、平面の猫が、ぶれる。
「――検閲だね」
「なにそれ?」
それっきり猫は黙ってしまった。
じきに猫のぶれも納まり、いつもの奇怪なにんまり顔を見せる。
「さあ、アリス。ウサギを追いかけよう」
猫に促され、それ以上言及せずに少女は道を進むことにした。
奇怪な森、陽気な雰囲気の森を進むと、目前に白い物体が見えた。
目を凝らすと、黒いタキシードを着て、白い耳が飛び出している。
「あ、ウサギだわ」
「ウサギだね」
淡白な猫の反応も気にせず、少女は全速力でウサギに飛びかかった。
白いウサギは一度少女を振り返ると、首をかしげる。
そして、驚くべき速度で疾走し始めた。
「速い……!!」
「速いね」
ぴょんぴょん。どうしてそんなに速度が出るのか? どんなに走っても距離は一向に縮まらない。
「はあ……はあ……!! なんであんなに速いのよ!!」
「ウサギだからね」
「意味が分からないわ!」
走る。
走る。
走る。
どれだけ走ったことだろうか。少女の息が切れ、体力も限界に差し掛かったころ、ふと声をかけられた。
「そんなに走ってどうするのだね、お嬢さん?」
「ウサギを追いかけてるのよ」
「走ることに意味があるのかね?」
「走らないと追いつけないじゃないの!」
「――ふん。なんて無駄な。たかだか移動だろう? 点の座標移動をするだけで良いだろうに」
「意味が分からないわ」
――現実は数学じゃないのよ。
「いいかね。自分を微分して積分すれば、どこにでも行けるのだ」
――微分して積分する? 元に戻るだけじゃない? ……ああ、なるほど。積分するときに積分定数として任意の実数をつけられるから、それを調整すれば、好きな座標に行けるわね。
――まあ、紙の上でできても、実際にはできるはずもない。
しかし、無駄に疲れた。走りながら思考するのはなかなかに疲労が激しい。
「はあ……はあ……。疲れるから黙っててくれるかしら?」
「まったく、せわしないお嬢さんだ。見たまえ、私なんかぜんぜん疲れていないぞ」
「うるさいわね……」
そう言いながら、少女は初めて声の主を見る。
「……貴方、誰? ――というか、何?」
「失敬だね」
疾走する少女の隣には、スーツ姿のタマゴがいた。
常に少女の隣に、宙に足を組んで浮遊し、すぅーとついてくる。
眼鏡をかけて、スーツを着込み、異様に裂けた口の、タマゴ。
タマゴがスーツを着ているのだから、当然、スーツも丸い。
手足は細い。
不機嫌そうにタマゴが言う。
「まったく以って失敬だね、お嬢さん。人の名を聞く前に自分から名乗りたまえよ」
「――話しかけてきたのはそっちですけどね」
しかし、少女にはこのタマゴに見覚えがあった。
童謡「不思議の国のアリス」の続編「鏡の国のアリス」にそっくりなキャラクターが登場する。
本来、童謡「マザーグース」に登場するその厄介なキャラクターは、少女の隣を浮遊するそれにそっくりだった。
「仕方がないな、私の名は」
「貴方、『ハンプティ・ダンプティ』ね」
「鏡の国のアリス」において、アリスと「意味論」について論じるまったく以って迷惑かつ理解しがたいキャラクターである。
「たしか、こんな詩よね?
――ハンプティ・ダンプティ、堀の上。
ハンプティ・ダンプティ、落っこちた。
王様の馬みんなと、王様の家来みんなでも、
ハンプティをもとには、戻せない。
違ったかしら?」
超有名かつ、不可解なキャラクターである。
すると、隣のタマゴは真っ赤になって言った。
「無礼者ッ!! 勝手に人の名前を決め付けて、あまつさえ囃し詩まで造るとは!! 何たる屈辱だ。何たる屈辱だ。何たる屈辱だ!! 私はこれ以上の侮辱を受けたことがない。嗚呼。この無礼者め」
「あ、す、すみません」
突然激昂し始めたタマゴに少女はあわてる。
「じゃ、じゃあ、本当の御名前は? あ、私は一条かぐ……じゃなくて、アリスです」
「はあ、はあ……ふん。私はラプラスの魔という。今の無礼は、まあ、とりあえずは水に流そう。私も紳士だからな」
――自分で言うことだろうか?
「あ、ありがとうございます」
「……アリス。ウサギが逃げちゃったよ」
「あ! あぁ〜〜」
猫のツッコミに少女は崩れ落ちる。
すると、タマゴ――ラプラスの魔――が声をかけてきた。
「なんだ、お嬢さん、ウサギを追いかけているのかね。無理だ。あきらめたまえ。あれは捕まえるとかそういう概念の外にあるものだ。一言で言えば、捕まえちゃいかん」
「はあ、はあ……どうしてですか? ハートの女王がそう決めたからですか?」
まだ息が荒い少女に、タマゴは、ふんと不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ハートの女王? ハートの女王だと? 私があんな女の言うことを聞いているとでも言いたいのかね? 止してくれ。私はあの女が大嫌いなんだ。それはそれは嫌いだ。まったく完全に嫌いだ。どれほど嫌いかというと、君くらい嫌いだ」
「どうも、すみません」
「嫌われたね」
「でも、どうして嫌いなんですか?」
「嫌いなものは嫌いだ。理由なんてありはしないね。強いて言うなら、好きな理由がない。いいか? こうこうこういう理由で嫌いだ、なんていうのは本当の嫌いじゃないね。本当に嫌いだというのは、理由なんかないのだ」
「……私は、理由もなく嫌われたのね」
「いいや、君は嫌いだ。強いて言うなら、嫌いが理由だ」
「もういいです」
……意味は分かりませんが、貴方はそういう意味の分からないことを言う人ですから。と少女は付け足したかった。
「それにしても、お嬢さん。君はもっと私を畏怖したまえ」
「――はい? どうして、ですか?」
「私が怖くないのかね? ラプラスの魔だぞ?」
「なんですか? それ」
「私の名前だ!!」
――そんなことは知ってます!! ……勿論、声には出さない。
「アリス。君は知っているはずだよ」
「そんなこと言われたって……」
少女が困惑していると、タマゴが勝手に話し出した。
「まったく、私を知らないとは何事だ。まったく完全に遺憾なことだ。仕方がない、私の概略を説明しよう」
――概略を説明しようって、自己紹介をそう表現するのははじめて聞いたわ。
「いいかね? 私は、あらゆる粒子の、それも分子・原子レヴェルの動きをまったく完全に瞬間的に観測できるのだ。つまり、私が話すことによって生じる空気の振動、音波の伝わり方、その他もろもろの全てを瞬間的に観測できる。それも、それも、だ。私はそれを、それが発生する前に完全に観測できる。要するに、あらゆる事象を、原子レヴェルで、いや、その荷電子レヴェルで観測し、それらが次にどう動くのかを、それらが動く前に、まったく完全に確定できるのだ。分かるかね?」
……分かりません。そう答えても良いのだろうか?
きっと良くなさそうなので、少女は適当に相槌を打つ。
「なるほど。それはすごいですね」
タマゴは自慢げに鼻を鳴らす。
「ふふん。いいか? 私はね、海のどこかで石を投げ込んだときに出来上がる波が、遥か離れた海岸に、どのような影響を及ぼすのかすら、まったく完全に観測できるのだ」
「すごいですね」
「だろう?」
そこで、タマゴは尚自慢げに鼻を鳴らす。
「ふん。いいか? 私を恐れるのは、それだけじゃない。私の能力がどういうことか分かるか?」
「どうって……何でもかんでも、原子レヴェルの動きから、『まったく完全に』予測できるのでしょう?」
「そうだ。まったく完全に、だ」
「でも、それがどうしたんですか? あ、未来予知ができるってことですか?」
タマゴはあからさまに肩をすくめる。
少女の傍らの猫を見やり、ため息混じりに言う。
「はあ、シュレディンガーの猫よ。君も大変だな。こんな阿呆がパートナーでは。さぞかし大変だろうに。私なんか、こんな少しの時間話しただけで異常なほど疲れたぞ? それこそ、まったく完全に疲れたよ」
そして、猫は反論しない。
――恨むわよ……。
すると、少女の暗いオーラに気づいたのか、猫が少女に助け舟を出した。
「いいかい、アリス? よく考えてごらん。君は思考するよね?」
「してるわ。現在進行形で」
「ふん。それで思考しているというなら、脳が腐っているのだな」
――このタマゴ、叩き落して黄身をぐちゃぐちゃにかき混ぜてあげようかしら。
「じゃあ、その思考はどこでしているか知ってる?」
「この阿呆が知る訳なかろう」
「知ってますー。脳よ、脳」
「ほう。これは驚いたな」
――このタマゴ、茹でて殻をむいてあげようかしら。
「そうだね。じゃあ、その脳は何でできているか知っているかい?」
「細胞?」
「ふん。阿呆らしい答えだ」
――だから、このタマゴ、目玉焼きにしてあげようかしら。
「細胞は、何でできているのかな? つまり、究極的な構成物はなんだか知ってるかい?」
「……原子って言わせたいのよね?」
「そうだよ。よく分かったね」
――この猫も、猫マンマにしてあげようかしら。(注、猫マンマは猫を乗せたご飯ではない)
「まったく以って驚きだ。この阿呆がそこまで思考できるとはな」
――このタマゴも、タマゴご飯にしてあげようかしら。
「それが、どうかしたの?」
「つまりね、原子の運動を完全に予測できるなら、思考も予測できるということになるよね?」
「――なるほどね。私たちの思考も、究極的には原子の運動だものね」
「そういうことだ。私が怖くなったか?」
「逆に言うと、どうなるかな?」
「逆?」
「そう、逆」
――原子の運動から思考を読めるということの逆だから……。
「――あ。つまり、私たちの思考というのは、原子の運動に左右されているということ?」
「ほう。阿呆にしては良い答えだ」
――このタマゴめ!!
「ふん。だがな、それの意味するところには気づいていないようだな、お嬢さん」
「――意味するところ?」
タマゴは、ふふんと愉快そうに鼻を鳴らして少女を見やる。
「いいか? 貴様らの思考は、貴様らの脳がしている。そして、その脳は原子の集合体だ。つまり、貴様らの思考というのは、能を構成する原子の状態によるのだ。分かるな? そして、その原子の状態を予測できる者がいたらどうなるか。そして産み出されたのが、私『ラプラスの魔』だ」
「……そんなの考えてどうするのよ?」
「ふん。まったく阿呆だな、君は。いいか? 私は原子の状態をまったく完全に知ることができる。そして、その後の状態もまったく完全に知ることができる。つまり。あらゆる原子の状態と、その未来の状態が私には分かるのだ」
――このタマゴ、何が言いたいのかしら? ……でも、この話、どこかで……。
「『ラプラスの魔』はね、とても怖い悪魔なんだ」
「怖い? どこが?」
「何でも分かるんだよ」
「それが怖いの?」
「怖いさ。だって、彼は僕らの思考を先読みできるんだよ」
「それはすごいと思うけど……」
「逆に考えるんだよ」
「逆?」
「そう。脳の原子の状態を知れば思考が先読みできるということは、つまり、僕たちが思考する前から、脳では何を思考するのかが原子レヴェルで決まっているということなんだよね。それって、すごく怖いことだと思うんだ」
「眠くなってきたわ」
「つまりね、ラプラスの魔が原子の状態から僕らの思考を先読みできるということは、僕らの思考というのは、僕らがする前から決まっていて、――僕らの意思では未来は変えられないということなんだよ」
「未来が、変えられない?」
「だって、そうなるでしょ? 僕らの思考は原子レヴェルの変化によるもので、もしも、それをまったく完全に知り、予測することができるのなら、逆に、僕たちの思考は、僕たちの意思によるものではないということになる。そうしたら、僕たちが、『自らの意思で未来を切り開く』ということさえ、原子レヴェルで最初から決定していることになる。だから、未来は変わらない。それって、すごく怖いことだよね」
「……なるほどね。でも、実際にそんなの可笑しいじゃない」
「まあね。ラプラスの魔は存在しないってことになっているから。ああ、別にそんな悪魔が本当に存在するとかそういうことじゃなくて。それを立証したのが量子力学の、不確定性原理というやつなんだ。この前話したシュレーディンガーの猫がそれだね」
「あの、生きているか死んでいるか分からない猫ってやつよね?」
「そうそう。原子の状態って言うのは、観測するまで分からない。それまではランダムに確率論によって支配される。そういうことになっているからね。だから、ラプラスの魔はその瞬間ごとの原子の状態は『観測』できるけど、その後の『予測』はできないんだ」
「ふうん。すごいことなんだろうけど、凡人には理解できないわ。だって、存在しないものを作って、それが存在しない証明をしたって、意味ないじゃない」
「……まあ」
「物理学者って暇なのかしら?」
「それは酷いよ」
――つかの間見た、幸せの記憶。
この夢は、命刻の面影が、ある。
つまらない現実なんかよりも、よっぽど
「――つまり」
「私たちが思考したって、所詮それは原子の状態変化だから、意味はない。未来は変わらない。って言いたいんでしょ?」
「ほう。よく分かったな。てっきり君の脳は湧いているのかと思ったよ」
あくまで少女を見下す態度をとるタマゴに、少女は反撃をする。
「でも、残念ね。貴方には思考の先読みは出来ないし、私たちは自分の意思で思考し、未来も変えられるわ」
「ふん。まったくの阿呆かね、君は。私の言っていることを理解していないと見える」
「まったくの阿呆は貴方よ。だって、原子の状態は『観測』出来ても、『予測』出来ないもの」
「何?」
すると、少女の隣で黒の猫が口を三日月に切り裂いて笑っていた。
猫は何も言わなかったが、少女は自分の考えが間違っていないと確信し、タマゴに止めを刺す。
「だって、原子の状態は観測するまで決定されていないもの。というか、観測されたときに確率論的に決定するんだったわね」
「だ、だから、なんだというのだ」
明らかに狼狽するタマゴに少女はとても楽しげに説明する。
「分からないの? 簡単に言うと、原子の状態を予測することは出来ないの」
「――な。な、ならば、私は」
「未来の予測は一切出来ない、ただの観測者、ね」
「……ば、――馬鹿なああああ嗚呼嗚呼嗚呼ぁっ!?」
叫んだタマゴはふわりと後ろに傾き、絶叫しながら落ちた。
タマゴの殻の一部が砕ける。
「へえ。ゆで卵だったんだ」
タマゴは殻が砕けたにも関わらず、その白い原型をとどめていた。当然、殻が砕けて、茹で上がって固まった白身が見えている。
「わ、私の殻があっ」
そして、散々馬鹿にされた少女は哀れなタマゴに最後の報復を加える。
「――ハンプティ・ダンプティ、堀の上。
ハンプティ・ダンプティ、落っこちた。
王様の馬みんなと、王様の家来みんなでも、
ハンプティをもとには、戻せない。
だったわよね♪」
「こ、小娘ごときに」
そしてタマゴは地面に突っ伏した。
黙って笑っていた猫が口を開く。
「さあ、アリス。ウサギを追いかけようか」
「ええ。すっきりしたわ」
少女は機嫌良く、スキップしながら「ウサギの穴」……「ワームホール」に飛び込んだ。