1話
高校に入学してもうじき一ヶ月。
少しずつ新しい生活にも慣れ始めた頃のとある放課後。
「一宮は意外に神経質だよな」
彼こと限野冬季は最新機種のスマートフォンをいじりながら言った。
「意外ってどういう意味?」
声のトーンを低くして、私より少しばかり視界が高い限野を睨みつけてやったけれど、意外に図太い彼はそんなことはまるで意にも介さない。ディスプレイから顔を上げることもなく、笑って返してきた。
「想像と違ったってことだ」
どんな想像をしていたのか問い詰めたいところだったけれど、ここは一応公共の場、電車の中だ。大声を出したり揉め事を起こすのはよくない。周囲のお客様に迷惑だ。
一応分別というものを持ち合わせている私はとりあえず不満をぐっと飲み込み、吊革に掴まり直した。
放課後、私と限野は特にどちらから言い出したわけでもなく一緒に帰宅するようになっていた。自宅の方向が同じで、同じ沿線を遣う友達もいないので何となく二人でとりとめもない話をしながら電車に揺られ、時折乗換駅の中のカフェでお茶をしたりする。
限野は新入生総代を務め、ついでに某有力政治家の縁戚にあたるとかで、何かと学内の話題をかっさらっている存在だ。そのため偶然それを同級生に目撃され、不本意ながら付き合っているのかと聞かれたりすることもあるのだが、そんな青春の甘酸っぱさなどどこにもない。
私と限野が話すのはいわば確認作業の一環だ。お互いがどこまで共有できているのかを知るための。
入学式の日、私の中唐突に湧いていくつかの事実という名の記憶。断片的な上にそれが確かな記憶だという確証もないのだけど、確信したこともいくつかあった。
それは、私と限野の間には引力めいた何かがあるということ。
私は私になる前、今は限野冬季という名前の彼と浅からぬ縁があったということ。
私の中に突如湧きだした未知の記憶は、限野と共有できるということ。
入学して一週間程経った下校途中。駅で出くわしたついでに以上三項を話すと、限野は心底呆れたような顔をした。
「つまりほとんどわかってないってことか」
「ほとんどなの?」
全体像が掴めないから今現在私が把握している事実は、事実の内のほとんどなのか僅かなのかどうなのかすら自分では判別がつかない。
「ほとんど。もう全然だ」
限野がわざとらしく肩を落とす。何だかバカにされているようでムカついたから出来るだけ高圧的に返した。
「じゃあ限野が全部教えてよ」
「それは嫌だ」
即答。
限野冬季は嫌な奴だ。私も大概性格がいいとは思わないけれど、こいつも相当だ。
「まぁそのうち思い出すだろうよ。俺と一宮は既に接点を持っているんだからな。このまま一宮ひとりが何も分からないなんてあるわけがない」
どういう理屈だとつっこみたくなるような言い分だが、まぁ確かに私もそういう気はするから黙っておいた。
放っておけば知るべきことは知るだろう。このまま何もないなど、ありえるわけがないと、そう確信している。
その確信の根拠が何なのかなどわからないけれど限野もそう言い、私もそう思うのだからそうに違いないのだ。私達の場合は。
帰宅して夕食を食べ終わり、自室で一人くつろぎながら今現在わかっている事実を整理してみることにした。限野いわくの、私はほとんどわかっていないという私と限野に共通する事実を。
限野と私の縁は私たちがそれぞれ一宮棗、限野冬季として生まれる以前、いわゆる前世というやつからのものだ。それは間違いない。
あの日私の中に生じた、見知らぬ風景と人々。資料や絵でしか見たことがないような時代がかった服装の人々。それは間違いなく私が一宮桐葉として生まれる以前に経験した記憶だ。そしてその記憶を限野も持っている。
前世での私がどういった人間だったのか、限野とどういった関係だったのかまではわからないけれど。そして私達の縁が確かなものだったという物的証明も何一つない。けれど私達がそうだと思うのならそれこそが最大の証明だと私は、そして恐らく限野もそう思っている。
ここまで考えて、妙なことだと今さらながら思った。
突然湧き出た見知らぬ記憶は前世の記憶で、出会ったばかりの人間とは前世での縁があった。
こんなこと誰に話したって到底信じてはもらえないだろう。思春期にありがちの思い込みと笑われるか、頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。
あの入学式の日までは私だって前世なんてこれっぽちも信じていなかったし、運命だとか必然だとかいう言葉はロマンチストのためのもので自分には一生縁がないと思っていたのに。
だけど少なくとも私にとってこれは現実なのだ。会ったこともないアメリカ大統領だとかハリウッドスターだとか芸能人だとかより、私にとってはよほどリアリティがある。
もしかしたら自分の頭がおかしくなったんじゃないか、と少し不安にならないでもないけれど。
「でも客観的にいったら、どう見てもおかしいのは私の頭だよなぁ」
そうだったら嫌だなと思いながらベッドに寝転がって天上を見上げた。
柔らかい羽毛布団に寝慣れた枕の感触。白い天井に取り付けられたルームライトが室内を明るく照らす。一階のリビングからは両親が聴いているらしいオペラが聴こえてくる。
現実と幻想の境界はどこにあるんだろう。
この手で触れて、この目で見て、この耳で聞いて。五感以外で感じたものは現実とは言わないのか。科学で証明できる物以外は非現実なのか。
ああ、いつだったかもこんなことを延々と考えた気がする。
でも算数のように正しい一つだけの答えなんかでるわけがない。
だから私は――……。
翌日、あのまま寝入ってしまった私は見事に寝坊し、遅刻寸前で学校に辿りついた。
あんな実のないことを考えて、その上考え疲れて寝過ごしただなんて我ながら本当にバカだ。
「おはよう、一宮さん。さっき限野くんが呼びに来たよ?」
「限野が?」
隣の席の女子のその言葉にうんざりとした気持ちになる。いや、親切に教えてくれた彼女には何の罪もないのだとわかってはいるのだけど。
「その時伝言を預かったよ。『電話に出るかメールを返せ』だって。相変わらず仲良しだね」
彼女が何をもって私達を仲良しと思っているのかは知らないが、とりあえず曖昧に笑っておいた。
そう言えば一応現代高校生らしく、限野とは携帯の番号とメールアドレスを交換しておいたんだった。普段からそれほどメールも電話もしない私には残念ながら頻繁に携帯をチェックするという習慣がなくて、友達はおろか家族にまでもう少し若者らしく携帯電話を使ってもいいんじゃないかと言われるありさまだ。
ブレザーのポケットから携帯を取り出すと、不在着信と新着メールが入っていた。マナーモードにしたままだったので全然気付かなかった。幸い、不在着信もメールも限野からだけだったので他の人間には迷惑をかけていないらしい。
けれど限野が電話にメールとは一体何の用だろう。この一ヶ月、かなり濃い交流をしてきたとは思うけれど、お互い電話もメールもしたことはない。いつも直接顔を合わせての会話だったのに。
とりあえずメールを開いてみると、『放課後、屋上』とだけ書かれていた。シンプルにもほどがある。電報か。
つまり放課後屋上に来いという意味なのだろうが、人の予定も聞かないで一体何様なのか。帰宅部だから部活もないし特に用事も入っていないけれど。まぁあいつはそういう人間なのだから何を言っても無駄だろう。『わかった』と絵文字も顔文字も句読点すら入れずに返信しておいた。これじゃあ私も電報だと思いながら、授業の準備を始めた。
本日最後の授業終了から三十分後、私はようやく屋上に続く非常階段を昇っていた。球技大会の出場競技決めが予想外に長引いてしまい、よそのクラスの生徒はとっくに部活や塾に行くなり帰宅しているような時間になってようやく解放されたのだ。一応限野には遅れるとメールしておこうと思ったのだけれど、クラス全体が殺気立っている中で携帯を開く勇気はなかった。
今まで特に時間や場所を決めた待ち合わせはしていなかったので、限野が他人の遅刻をどう思うタイプなのかはわからないが、普通の神経なら無連絡で三十分の遅刻は怒るだろう。私だったら絶対に十五分も待たされた日には帰ってしまう。限野はどうだろう。
まぁ帰っていてもいなくても、こちらの予定も聞かずに一方的に待ち合わせ場所と時間を指定されたという事実を差し引いても謝るべきであることは確かだ。
そして屋上に続く重いドアを開いた。少し力を入れてドアを押すと風が吹き込んできた。視界を上げれば一面に澄み渡った青空が広がっている。春らしい心地よい風も吹いているし、意外とこの屋上はいい場所かもしれないと思いながら視界を下へとずらす。
そこにはコンクリートの地面と金網のフェンス、それだけ。ぐるりと百八十度辺りを見回しても同じ。
屋上には私以外誰もいない。
さすがに帰ってしまったかと思っていると、背後で再びドアが開く音がした。
「お、一宮のほうが早かったか。入れ違いにならなくてよかった」
そんなことを言いながら屋上へとやってきたのは私が待ち合わせしていた相手、限野だ。
「……え、何? 私のほうが早かったわけ? え? 私授業が終わって三十分も経ってから来たんだけど?」
「あ、そうなんだ? 俺は携帯いじってたらいつの間にか時間が経ってた」
何の悪気もなく言う限野の顔を張り倒してやりたい。
「あんた、もし私が授業が終わってすぐここに来てたらどうしたの?」
「そうしたら一宮が待っててくれるだろ?」
「十五分待って来なければ帰るわ」
「それならせめて先にメールくらい入れてくれよ」
「電話もメールも好きじゃない」
「おいおい。わがままな奴だなぁ」
子供を相手にするように言う限野にこめかみが引き攣る。
「限野だけにはわがままとか言われたくない」
「マジで? 奇遇だ、俺も一宮にだけはわがままとか言われたくない」
ホント奇遇だなぁなどとほざきながら限野は笑っている。とても楽しそうに笑っている。腹が立つほど楽しそうで、怒っているのがバカバカしいほど笑顔だったので、何だかこちらの怒りもしぼんでいった。諦めと言うか、呆れと言うか。
「あーもういい。それで要件は何? 意味もなく人のことを呼び出したわけではないんでしょ?」
仕切り直すように言った私に限野は意地悪く笑った。
「何だよ、一宮は全ての行動に意味を持たせないと気が済まないタイプか?」
「別に何の意味もない行動好きよ? 例外は結果として私に害がなければ。特にあんたの無意味な行動によって私が不快な思いをしなくて済むならばだけど」
嫌味っぽく言ってやったつもりだったのに、なぜか限野はその答えを聞いて爆笑した。心底おかしそうに声を上げて笑いやがった。
気付いてはいたけれど、よく笑う男だ。笑いを納めることもなく限野は言った。
「うんうん。そりゃそうだ。俺も一宮の無意味な行動で実害が及んだら一生呪い倒したくなるもんな」
「地味に陰険だね、限野は。健全な高校生が呪うとか言わないでよ」
「いや、別に俺は健全な高校生目指してないから」
そんな笑顔できっぱり断言するようなことでもないだろうに。親御さんが聞いたら泣くぞ。
限野は笑うだけ笑ってフェンスに背中を預けてもたれかかった。
「ま、俺らが健全なんてなれるわけねーじゃん」
「俺らって何? まさかそれ、私も含まれてる?」
反射的にそう答えたけれど、本当はわかっている。
限野の言うとおり私は健全な高校生になんて、健全な人間になんてなれやしないって。いつの頃からか漠然と何となく、私は普通に生きて普通の人間になることなんてできないってどこかで確信していた。今でこそ普通らしく生きているけれど、いつかどこかで普通から大きく逸脱してしまうだろうと、そんな予感が常にあった。
別に日常生活に問題があったわけじゃない。家庭環境が悪いわけじゃない。子供の頃から勉強も遊びも人間関係もそこそこうまくこなしてきたと思う。少し要領がいい程度の普通の子供と周囲にも認識されていた。何不自由なく育て、愛してくれる家族だっている。
恵まれていると誰が見たって自分自身でだって思うのに、私は健全な人間になんてなれない。自分が異常なのだと確信していた。そして異常な自分を驚くほどすんなりと受け入れていた。
そして限野も。
目の前で笑うこの男も自分と同じ異常だ。どこがどうと言うのでなく、そういう風に生まれついた人間だ。
これもまた前世からの因縁とかいうやつなのか。
「別にいいけど」
無駄な思考を打ちきるようにわざと大きな声を出す。
限野はそんな私の行動を見てやはり笑っている。観察するように、見守るように、喜ぶように、呆れるように。
「それで結局要件って何? 私、お腹がすいたから早く帰りたいんだけど」
「ん。あー大したことじゃねーけど」
大したことない用事で貴重な放課後を搾取するな。
「一宮が何しろほとんど何も覚えてないから俺もどうしよっかなーと思って」
「私が覚えてないことってそんなに重要?」
「重要って程でもないな。どっちかっつーと瑣末」
「おいこら」
人を捕まえて瑣末とは何だ。
「覚えてようがいまいが、まぁそんなことはどっちでもいいんだよな。俺は今後の経過を見たいだけだし。一宮が思い出すか、思い出さないか。それは俺の中では割かし重要度が高いけどな」
「人を実験動物みたいに言わないでくれる?」
「まぁまぁ。とりあえずそれでだ。まずは俺なりにアクションを起こそうと思って」
「ほう。アクションねぇ」
「うん。で、餌を撒いてみることにしたんだ」
にこーっと。まったく邪気の感じられない笑顔で限野は言った。
「餌?」
「そうそう。これからいっぱい来るぜぇ」
くつくつと笑い、限野は空を見上げる。
「どの程度喰いつくか、楽しみだよな」
「……それは私に害が及ぶ話じゃないよね?」
もう既に嫌な予感しかしないが。
案の定、限野は満面の笑みを浮かべた。
「害が及ぶ前に思い出すか思い出さないか、賭けるか?」
「ちょっと、害って何!? そんな面倒くさいこと嫌!」
「そこで面倒くさいって返せるのが一宮だよな。さっすがー」
気のない拍手に最早何か返す気力も起きない。どうせ無駄だ、何かしらの結果が出るまで限野は自分の行動を止めはしないだろう。
それに、何だかんだ言って面倒くさいだけでもない。
限野の言う餌とやらに、その結果自分にどんな変化が現れるかということに、私自身も興味を持ってしまっていたのだから。