ニューヨーク・ラブストーリー(Guess How Much I Love You!)
ニューヨーク・ラブストーリー/エピソード23:偽りの恋人(Rescue Me)
前書き/
こちらは〈一話完結のシリーズ物〉につき、エピソード第1話からお読み頂けると分かり易いと思います。
連載はまだまだ続きますが、本作品においては完結しています。
友人───。
その定義は多岐に渡るが、およそ一般的には、互いに心を許し合い、対等に交る関係性のことを指す。相手の気持ちを思いやり、恋人ほどべったりはせず、適度な距離を保って親しく付き合う。そこに『無理難題をふっかけて困らせる』や、『異様なセクハラをしかける』などの類は入る余地がない。ましてや、相手の親切心につけ込んで、己の目的のために利用するなどは、とても友達のやることではない。
これからおれが話すのは、それらを平気でやってのける、ひとりの友人について。見目麗しいが、心は小鬼と同等のローマン・ディスティニー。彼が「折り入って話があるの」と、妙に真剣な口調で言ってきたら要注意だ。休日の午後、「うちで英国風のお茶しましょ」と誘われるのもかなり危険。焼きたてスコーンと、キュウリのサンドイッチ。そして愛らしいケーキたち。アフタヌーンティも佳境に近づき、ティースタンドの一番上に手を伸ばしたところで、ローマンが言った。
「ねえ、ディーン、あなた、あたしに借りがあること、覚えてるかしら?」
「借り? 何だっけ?」
宝石のように輝くベリーのタルト。口に入れると、さっくりとしたタルト台とカスタードクリームが、見事な調和を奏でた。
「あなたが助けて欲しがったときに、助けてあげたでしょ。ほら、ポールの同級生のショーンが来たときに」
「ああ」
生返事をし、ティーポットから紅茶をそそぐ。砂糖を入れないブラックティーが本式だと聞くが、かまわず砂糖を放り込む。
「それで、返してもらおうと思って」
「折り入って話って、そういうことか。いいよ、何だ?」
「あたしのボーイフレンドになって欲しいの」
思わず紅茶を吹いた。するとローマンは「もちろん本当にじゃないわ。お芝居よ」と付け加える。
おれはナプキンでテーブルを拭きながら、「どうしてまたそんな芝居をしなくちゃならないんだ?」と聞いた。
「あたしのママが今日、ここに遊びに来るの」
「話を逸らすなよ」
「逸らしてないわよ、よく聞いて。あたしのママね、とっても優しくて素敵な人よ。いつも息子のことを思いやってる。それで、“今の彼氏はどんな人”って聞かれたことがあって。あたし、つい、あなたが彼氏だって言っちゃったの」
「なんだって!?」
「落ち着いて。それってまだあなたとポールとお付き合いする前のことだから。あの頃、あたし、あなたのことを狙ってたのよ。翌月あたりにはお付き合いすることになるだろうと思って、先を見越してママに紹介しちゃったのね。でも結局そうはならなかった」
「ならなくてよかったよ。てゆうか、なるわけないだろ。そもそも、こんなことポールが許すわけがない」
「ポールにはもう承諾済みよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないわ。お疑いなら、今すぐに電話してご覧なさい」と携帯を差し出す。
おれは無言で自分の携帯からポールにかけた。援軍であるはずの彼は「うん、話は聞いてるよ」と言う。
「それで?」と、おれが聞くと、彼は「それでって?」と返した。
「きみは承諾したのか?」
「承諾も何も、きみたちの問題だろ? 貸し借りがどうのって話にぼくは関与してない」
「ポール、頼む。きみがノーと言えばローマンもあきらめる。馬鹿な提案をするなと言ってやってくれ」
哀願すると、ポールは「困ったな……」とつぶやいた。何を困ることがあるのか、おれには少しもわからない。
「昨日、ローマンから頼まれたんだよ。“ちょっとでいいから、ディーンに協力してほしい”って。彼、本当に困ってるみたいだったし、ぼくは“ディーンがいいなら別に”って答えたんだ」
ディーンがいいなら別に。いいわけない。まったくもっていいわけない。はっきり言って冗談じゃない。
「もしかして、きみもローマンに借りがあるとか?」
「そうじゃないけど。でもいつも助けてもらっているのは事実だね。ごめん仕事中だから、もう切るよ」
おれは呆然として、通話の切れた携帯を見つめた。
「納得した?」と微笑むローマン。「そういうわけで、彼氏の了承も得たことだし、ここは気持ちよ〜く、あたしに協力して頂戴な」
「なんで……なんでおれなんだ……」
「だから、ママに…」
「他にいくらでもいるだろ?! きみに頼まれて快くイエスという男どもなら、いくらでも! そいつらに頼めばいいじゃないか!」
吼えるように言うと、ローマンも負けじと金切り声で応戦する。
「それができたらそうしてるわ! でも一番最初にあなたの写真をママに送って以来、ずっと送り続けるハメになっちゃったんだもの! クリスマスにお誕生日に、二人仲良くやっている場面をね!」
「いつきみと二人仲良くやったってんだ!?」
「写真だけなら可能でしょ。クリスマス・パーティにお誕生日パーティ。いつもあなたとツーショットの写真、撮ってたの、気づかなかった?」
「あれにはそんな策動があったのか……。もう来年からは、きみと同じフレームには収まらないからな」
「ええ、それは結構よ。でも今日ばかりは協力して欲しいの。ほんと、お願いよ。あたしが今まであなたに頼み事したことあって?」ローマンは両手を顔の前で組んだ。
確かに。彼は通常、頼み事らしい頼みはしてこない。どちらかというと、こっちが助けてもらっていることが多いかも。
「だいたいきみは特定の恋人を持たない主義じゃなかったのか?」
「そうよ。でもママはそういうの嫌いなの。だからあたしは、いつもその時に付き合ってる人を紹介してたんだけど、ママはそろそろひとりに絞るべきだって言うわけ。で、あたしはママを安心させてあげたかった」
「だから嘘を?」
「なんとなくつき続けちゃった」きゅっと肩をすぼめるローマン。
「らしくないな。いつも正直なのが唯一の取り柄かと」
「取り柄はたくさんありますわよ。でもそうね。確かにわたしらしくない」
「今からでも遅くない。正直に言えよ」
「それができたら、あなたにこんなこと頼まないわよ」ローマンはぷぅと頬をふくらませ、それから息を吐き出してこう言った。
「だって、あたしのママ……おっかないんだもの」うつむき、テーブルの下でナプキンをいじる。
おっかないって? ローマンでもビビるママってどんななんだ? ロシアの女軍曹みたいな? それとも〈ダメージ〉のグレン・クローズとか?
具体例をあげてもらおうとしたところで、玄関のチャイムがなった。
「ママが来た!」ローマンは椅子から飛び上がるようにして立ち上がり、母親を迎え出ようとして、また戻り、「ね、頼むわよ!」と、おれに念を押す。
「ほんの短い間だけでいいの! 協力して! 一生のお願いよ!」
小走りに玄関に向かうローマン。おれも後に続く。ドアが開くなり、母親は息子の名を大声で叫んだ。
「ローマンちゃん!」
「ママちゃん!」
二人はしっかりハグをし、互いの頬にキスを交わす。
「わたしの可愛いちゃん、元気だった?」
「もちろん! ママちゃんも元気そう!」
「もちろん!」
顔を見合わせコロコロと笑い転げる彼らは、どこからどう見ても親子だった。第一印象では『ローマン×2』という感じ。さて、この女性のどこが怖いんだって?
「ママちゃん、紹介するわね。あたしのカレピ♪」
ローマンに腕を引っぱられ、こっちは調子を合わさざるを得ない。
「どうも、ようやくお会いできました。ディーン・ケリーです」
営業スマイルを浮かべて自己紹介すると、“ママちゃん”は「ベティ・ベイリーよ。ベティと呼んでくださって結構」と笑いかけた。
ひと目でサンローランとわかるパンツスーツ。濃いブロンドの髪は短く刈り込まれ、耳には重たげな金のイヤリングをぶら下げている。化粧は濃いが、ローマンのママだと思えば、これでもシンプルな方だと思えなくもない。
「まあ、写真よりずっとハンサムねぇ」
“カレピ”の印象を述べるベティ。息子は「デジタル・カメラは写りが悪いから」と言いながら、ベティのジャケットをスマートに脱がせた。
「ママちゃん、長旅で疲れたでしょ? スリッパに履き替えて、くつろいで頂戴」
母親をカウチに座らせ、「今、お茶を淹れるわね。日本の番茶でいい?」と訊く。ベティはすぐに立ち上がり、「長旅ってほどじゃないわ」と言った。
「お茶はママに淹れさせて。あなたのキッチン大好き。とっても使いやすいし、広いのよね」
似たもの親子は仲良く台所に消え、あとはお喋りばかりが聞こえてくる。
なんだ、彼女は全然普通のママだ。ローマンがおどかすから、どれだけ恐ろしいかと覚悟していたが、いらぬ心配だったらしい。やっぱり彼も人の子だ。母親が怖いとは、人間らしいところがあるじゃないか。
キッチンから楽しげな笑い声が響いた。娘っぽい息子と、それを愛する母親。恋人のフリをするぐらい、まあいいか。彼らの幸福に少しの花を添えてやれるのであれば、友達として満足だ。ローマンには後日、“別れた”とか何とか言ってもらえば、向後の憂いもないだろう。
……などと考えるおれは、例の如く甘かった。こうやって今まで何度、ローマンにしてやられていることか。どうしておれの前頭葉は、この重要な事実を記憶できていないんだろう。根が善人すぎるのか、それとも単なる阿呆なのか。前者であると信じたいが、どちらにせよ結果は同じ。ローマンに関わるとロクなことがない。それが“彼によく似た母親”もセットで、しかもローマン自身をして「おっかない」と言わしめる人物。母親が怖いのは、人間らしいからではない。世の中には怖い母親というものが確実に存在し、たいがいの母親は息子にとって怖いのだ。なんといっても、自分をこの世に送り出した存在だ。畏怖しない方がどうかしてる。
夜は三人一緒にレストランでディナー。夜景の見える素敵な席を、ローマンがばっちり押さえてくれた。おれたちの出会いや付き合うなれそめなどは、すべて彼が説明してくれたので、こっちは何も言うことがない。適当な相づちとナイスな笑顔。食事は旨いし、そう悪い夜でもないように思えた。
「それで? あなたがた、一緒に暮らし始めてどれくらい経つの?」
ベティの質問に、おれのナイフとフォークは動きを止める。一緒に暮らす? なんだそれは?
「二年くらいかしら」ローマンがすかさず答えた。
「まあ、それはいい頃合いね。毎日楽しい?」
「もちろんよママちゃん。ディーンはとても優しいし、仕事は順調。これで楽しくないなんて言ったらバチがあたるわ」
「そうよねぇ。あなたが幸せでママ本当に嬉しいわ」
ほのぼのとした空気の中、おれは“二年くらい一緒に暮らしている”という、とんでもない嘘が気になって仕方なかった。おれたちの付き合いについて、ベティから深い質問をされたら、彼はどう切り替えすつもりなんだろう。こっちはローマンの出身校も知らないし、最近ハマってる芸能人も、好きなレストランも、昨日どこで何をしていたかすら分からない。ここはあまり会話に花を咲かせないほうが無難だ。どっちにしろローマンがほとんど喋ってる。おれはデキャンタから酒を注ぐ係に徹すればいい。
なんとか数時間だけやり過ごせばと思っていた矢先、衝撃的な事実が判明した。おれがベティに、ホテルはレイトチェックインかと聞いたときだ。
彼女は困惑した様子で、「ローマンちゃん、言ってなかったの?」と、息子を見た。
「わたし、こっちに来るときは、いつも息子の家に泊めてもらってるの。だからホテルはとってないわ」
母親が息子の家に泊まる。それはいい。でもおれとローマン、“一緒に暮らしてる”って設定じゃなかったか?
ベティはナプキンで口元を拭い、「でももしお邪魔だってのなら、今からでもホテルを……」と言いかけたところで、ローマンが遮った。
「駄目よママちゃん! そんな水臭い!」母親の手に手を重ね、「あたしもディーンも気にしないわ。ウチに泊まっていって。ね?」と哀願する。
「まあ、なんだか悪いみたい」
「悪いことなんてないわ。そうでしょ、ディーン?」
ローマンがおれを睨んだ。そこで言える台詞はただひとつ。
「もちろんですよ、何もお気になさらないでください」
身に付いた営業能力が恨めしい。食後のデザートは喉を通らなかった。これからどんな事態が待ち受けているのかと考えたが、何も思い浮かばない。きっと想像を絶しているんだろう。
ベティが風呂に入っている間、おれは不機嫌な口調で友人を問いただす。
「おい、何でこんなことになってるんだ」
ローマンは炭酸水をグラスに注ぎながら、「なにが?」と涼しい顔。
「おれたち、一緒に住んでるだって?」
「ええ、そうなの。ずっと前にメールでそう言っちゃったの」
「彼女がここに泊まるなんてことも聞いてない」
「言ってなかったわね、ごめんなさい」さらりと謝り、ウォーターボトルを冷蔵庫に仕舞う。
「でも安心して。ほんの一週間よ」
「一週間!? 一週間もいるのか!? おれはてっきり数時間のことだとばかり…!」
「あら、誰がそんなこと言った?」
そうだ、勝手に合点したのはおれだ。まんまと罠にハメられたってことか、くそっ。
ローマンはおれに水のグラスを渡し、「ねえ、あなた。あたしのママにもうちょっと愛想よくしてくれてもよくなくて?」と言う。
「してるだろ。何が気に食わない」
「さっきのレストランであなたったら、牛みたいにモリモリ餌を食べっぱなし」
「腹が減ってたんだ」
「ああいう場面で、もうちょっと気の効いたこと言えないわけ? 会話もできない愚鈍な男と付き合ってると思われるじゃないのさ」
「愚鈍なんだ。嫌なら他をあたれよ」
「人の足元見てそんなこと言う?!」
「足元を見てるのはそっちだろ! おれに貸しがあるとか、ポールに根回しするとか、いったいどういう…!」
「あなたたち? 喧嘩してるの?」
声のした方を見ると、バスローブを身につけたベティが、怪訝な表情でおれたちを見ている。
「やだあ! 喧嘩なんて!」ローマンはおれに身体を寄せ付けた。「するわけないじゃない。ちょっと大きな声で話すとこれだもの。ママちゃん、心配しすぎよ」
「そう? それならいいんだけど」
おれの横っ腹にこっそり肘鉄をするローマン。おれは嫌々、彼の肩に手をかけた。
「あなた方もお風呂入ったら?」
「ああ、そうだな。ローマン、先に入れよ。おれはポールに電話するから」
「ポールって?」とベティ。
「あたしたちのお友達よ。美容師の。話したことあったでしょ?」
「ああ、あの彼ね。あなたとディーンを取り合って、それで負けたっていう」
そんな話になってるのか。CIAもびっくりの捏造っぷりだ。おれは声にトゲが出ないよう、気をつけながら、「汗を流してこいよ、ハニー?」と促した。
するとベティは「あら、あなた方、いつも一緒にお風呂に入るんでしょ?」と驚愕の発言。「ママがいるからって遠慮しなくていいのよ」
「遠慮だなんてそんなことあるわけないわ」ローマンはショックを受けているおれの両手を掴み、「お風呂しに行きましょっ!」と、無理やりバスルームに連れ込んだ。ドアを閉め、おれたちは互いに睨め付ける。
「おれは入らないぞ」
「ちょっとくらい協力してよ」
「絶対に嫌だ」
「別にお風呂ぐらいいいじゃない。とって食おうってんじゃあるまいし」
「きみと一緒に入るぐらいなら、あざらしと入浴した方がマシだ」
「ほんとに小心なんだから……日本の公衆浴場なんか、見知らぬ男同士、水着も着ないでお風呂に入るって知ってた?」
「きみは日本に行ったことないだろ。それにここは日本じゃない」
「あたしが言いたかったのは、“裸なんて大したことじゃない”ってことよ。あんたはそもそも意識しすぎなの」
騙されるんじゃないディーン。一度はおれを狙ってたというゲイの男と一緒に風呂に入るのを断わったからと言って、意識しすぎってことはないはずだ。
「とにかくあたしはお風呂させてもらうわ。今日は汗かいちゃった」そう言って、さっさと服を脱ぎ始める。おれは彼の方を見ないようにして、洗面カウンターの椅子に腰掛けた。
水音と鼻歌が混在するバスルーム。なんだっておれはここで、ローマンのシャワーに付き合わなきゃいけないんだ。これだけでも拷問なのに、一緒にだなんてとんでもない。
「早くしてくれよ。おれも汗を流したい」
ノックの音がし、「ちょっと失礼。入ってもいいかしら?」とベティの声。おれは0.5秒で服を脱ぎ、バスタブに飛び込んだ。
「仲良くしてるとこ、ごめんなさいね。目薬を洗面所に忘れちゃって。そっちを見ないようにするから、お気になさらず」
「あぁら、全然いいのよ。親子だもの」
おれは彼女と親子じゃない。よって全然いいわけがない。
「目薬、目薬……ああ、あったわ」化粧台から目薬らしきものを取り、それからおれたちの方を見る。
「ねえ、ローマンちゃん。あなたちょっと太ったんじゃない?」
「いやん、ママちゃん。これは太ったんじゃないの。夏だもの、少しビルドアップしたのよ」
ローマンは立ち上がり、腰をひねってみせた。一糸まとわぬ生まれたままの姿を母親に誇示する息子。おれにはとてもできない。親子であっても裸はプライベートなものだ。
「薄着の時期はこの方がサマになるんだから」
「あら、そうなの。失礼しました」
親密な親子の会話を聞きながら、バスタブの中で必死に手足を縮こませていると、ベティの視線がおれへと移動する。
「あら、ディーン。あなたタトゥーを入れてるのね?」
タトゥー? そんなものは入れてないが……。
「ほらそこ、左脇の下から横腹にかけて」
言われ、おれは左腕を上げ、自分の横っ腹を見た。彫った覚えのないタトゥーを、つい探してしまう。
「ママちゃん、何言ってるの? ディーンはタトゥーなんかしてないわよ」
「あら……そうね。嫌だ、私ったら、シャワーカーテンの影が写ったのを見間違えたんだわ。やあね、年かしら」
なんなんだ、この人は。“そっちを見ないようにする”なんて言ってたくせに、やけにじっくり見てるじゃないか。
「お邪魔さまでした」おじぎをして、ベティは出て行った。
「まあ、どっきりしたわね。ママったら、突然入ってくるんだもの」
「今日は諦めるとしても、明日からは別々だからな。一緒に風呂は今回だけだ」
「そうねぇ、じゃあ何かうまい言い訳を考えておいて。喧嘩した以外の理由をね」
ローマンは泡の中から海綿を拾い上げ、ボトルからシャボンを絞り出した。
「おい、おれの身体にちょっかい出すな」
「なによ、ちょっとぶつかっただけじゃない。触ろうと思って触ったんじゃないわ。あなたこそさっき、あたしのお尻に手が触れたでしょ」
「狭いんだから仕方ないだろ!」
「大きな声ださないで!」
「もう出ろよ!」
「そっちが出なさいよ!」
一日の疲れを癒すのがバスルームだが、今夜ばかりは異常なまでに疲労した。このまま寝たら悪夢を見てしまいそうだ。必要なのは愛と思いやり。おれはその二つを求め、ポールに電話をかけた。
「どう? 偽装結婚はうまくいってる?」
これが本物の恋人の第一声。どこか楽しげな響きが感じられるのは気のせいだろうか。
「結婚じゃない。偽装カップルだ」
「そうだった。ローマンのママとは?」
「会ったよ。思った以上に強敵だな」
「あのローマンが恐れるくらいだもんね。きみから見てどう? おっかない?」
おっかないわけじゃない。でもどこか何かが計り知れない。この“微妙に嫌な感じ”を手短に説明するのは難しい。おれが返答に困っていると、ポールは「今どこからかけてるの?」と聞いてきた。
「ウォークイン・クローゼットの中だ。外出したかったけど、ローマンに止められたからな」
「クローゼット? それはひどいね」
「こんなのひどいうちに入らない。おれはローマンと一緒に風呂にまで入ったんだぜ。母親から怪しまれないようにって」
てっきり同情されるものだと思っていたが、ポールが次にしたリアクションは、信じられないことに“爆笑”だった。
「ほんとに? きみがローマンと!? ああ、うそだろ(笑) 信じられない(笑)(笑)(笑)(笑)」
ポールは笑い上戸だ。だから、彼はおれの不幸を喜んでいるわけではなく、単に面白がってるだけなんだ。結果的に“ディーンの不幸を喜んでいる”という形にはなってはいるが、気にすることはない。
ポールはひとしきり笑った後「まさかと思うけど……」と前振りをし、「ベッドは一緒じゃないよね?」と聞いた。
そこで「一緒だと思う」とおれが答えた後、彼はふたたび呼吸困難に陥っていた。笑うことは身体にとてもいいそうだ。恋人が楽しそうにしているのは嬉しいが、できれば別件で健康になってほしかった。
「それで? ローマンはどうしてるの?」とポール。どうやらおれの不幸にまつわる話は終わったらしい。
「あいつは全身にマッサージクリームを塗るのに忙しいみたいだ。ついでに言えば、母親とはうまくやってる」
「そっか、よかった」
この流れのどこをどう切り取って、“よかった”という感想が出たのだろうと、おれが訝っていると、ポールは「ローマンはおかあさんのことが大好きなんだよね。うまくいってるのなら何よりだよ」と言った。そうか、“よかった”のはローマンについてか。お肌はクリームで完璧。そして母親にはうまい嘘がつけた。そりゃもう“よかった”に違いない。
「じゃあ、これから頑張って。ローマンによろしく」それだけ言って、ポールは通話を遮断した。“ローマンによろしく”。なんてシンプルな別れの言葉。電話越しのキスもなしか。
正直これは信じられない展開だ。電話を切られたことじゃない。“どうして今回に限って、ポールはこんなに冷たいんだろう”ってこと。おれがローマンと一緒でも不安じゃないのか? 男と密接に二人きりというのは、いつものポールだったら確実に怒り狂うシチュエーションだ。もっともおれとローマンでは、間違いなど起きるわけもないから、安心といえば安心なのだが……。
『じゃあ、これから頑張って』とポールは言った。何をどう頑張れというのか。むしろ何も頑張りたくはない。ベッドはスーパーキングサイズ。シーツはシルクで、不気味なほどに光沢している。
「あたしのベッドは大きいから、あんたと二人でもゆったり眠れるわよ」
そうローマンは言ったが、どんなにベッドが広くとも、彼と一緒では“ゆったり眠る”ということは難しいように思えた。(ベッドがネブラスカ州ぐらいデカきゃ別)
「さ、ダーリン♪ こっちへいらして♪」
ポンポンとベッドを叩くローマンに、おれはウンザリし、「そういう小芝居はもういい」と首を振った。「今夜は疲れたよ。馬鹿な演技はもう終わりだ」
「そうしたいところだけど、でもママが聞き耳たててるかもしれないじゃない?」
「聞き…! きみの母親は変態か!?」
「ほらもう、また大きな声! ちょっとはあたしに気を遣ったらどうなの?」
「きみは意識しすぎだ。母親が息子の部屋に聞き耳なんて立ててるわけないだろ」
「そう思う?」
「思うね」
「甘いわよ」ローマンはきっと目を細めた。「さっきのママ、見たでしょ。お風呂であなたの裸を見てた」
「それが何だ? 刺青が入ってると思ったんだろ」
「あれはわざとよ。ママはあなたの裸が見たかったのね。どんな体型だか確認したかったんだわ」
おれは二の句が継げなかった。息子の恋人の裸が見たかっただって? そのために、わざわざバスルームまで入ってきたっていうのか。そして今も聞き耳を立てているかもしれない? それが事実なら異常な行為だ。いったいどんな種類の病気なんだ。
「なあ、ローマン。きみはこの状況を面白がってるんじゃないのか?」
「ええ、もちろん……と言いたいところだけど、今回ばかりは違うわ。本当に」
彼は深々と溜め息をついた。ブルーな吐息は本物だろう。困り果てているのもたぶん本当。だからといって、「あたしたちが仲良くしてる声を聞かせれば、ママも安心するのよ」という提案に、進んで乗りたいとは思わない。
棒きれのように立ち尽くすおれに構わず、ローマンは「さあ、ダーリン。イイコトしましょう♪」と、壁に向かって声を出した。おれに言ってるんじゃない。どこかで聞き耳を立てているかもしれないママに向かって、彼はひとり芝居を始めた。
「ああん、ディーンったら、慌てないで。ベッドから落ちちゃうじゃない」
甘ったるい鼻声。こんな下らないことに付き合えってのか。冗談じゃない。
「勝手にやってろ。おれは参加しないからな」言って、彼に背中を向けてベッドの隅に横たわる。
「ねえ、明かりを消してもいい? 嫌? あたしのことをよく見たいのね?」
見たいわけあるか。明かりを消して尚、両目に眼帯をしたいところだ。
「ああ、もう……そんなに激しくしちゃいやん」
激しくって何だ。“激しく殴る”とか、そういうことか。
「いやっ、そんなところ……駄目よ、あああン」
そんなところって、どんなところだよ? いや、知りたくないね。
「もう、あなたったら、ママの前ではクールぶってたくせに……ほんとにムッツリなんだからン♪」
「……誰がムッツリだ! いいかげんにしろ!」
「きゃっ! いやん!」
「“いやん”じゃない! これ以上おかしな声を出すな!」
我慢の限界。それは五分と保たなかった。掴み掛かり、ローマンの身体をレスリングのように押さえ込む。
「ちょっ……ちょっと、ほんとにいやんってば! 髪の毛がめちゃくちゃになるっ!」
「知るか、このあばずれ! ケツをひっぱたいてやる!」
「ベッドから落ちるぅ!」
おれたちのやり取りに聞き耳を立てていたとしたら、これはひどいプレイに聞こえたことだろう。それはある意味、正しいと言える。だいたいこの企画自体が“ひどいプレイ”じゃないか。おれたちはベティに嘘をつき、芝居ときたら最悪だ。よいところなど何ひとつ見つけられない。もっともひどいのは、“親が息子の寝室に聞き耳を立てているかも”ってこと。つまりここにいるのは、最悪な連中だ。
ローマンは母親を安心させたいと思い、母親はローマンを心配する。おれはローマンの頼みをきいてやった。お互いが相手を想い合っているはずなのに、どうして皆が皆、最低の人間になってしまうのだろう。
清々しくあるべき朝は、切り裂くような叫び声によって打ち破られた。恐怖におののく悲鳴を聞きつけ、目が覚める。ちなみに自分の悲鳴だ。
ローマンは耳の穴に指を突っ込み、「痛っ! 耳痛っ!」と怒鳴った。「なんだって朝っぱらからでっかい声だすのよ! 鼓膜がどうにかなっちゃうじゃない!」
「ああ……ごめん。きみがベッドにいたから、思わず」
「あたしのベッドだもの。あたしがいるのは当たり前でしょ」
なんという朝。なんという目覚め。ローマンがいるのが当たり前で、あまつさえ彼は全裸ときてる。『なぜ裸なのか』なんて聞きたくないし、知りたくもない。ただ単に、彼は裸なんだ。それ以上の情報を手に入れたところで、どうなるものでもない。
キッチンではベティが朝食の支度をしていた。スープ鍋をかき回しながら、「昨日はずいぶん激しかったみたいね?」と、朝の挨拶。
「若いんだから無理もないけど、隣の部屋まで丸聞こえ。わたしはオープンなママだからいいけど、他のお客さんが来たりしたときは気をつけた方がいいわよ。ねえ、この家ったら、豆乳しかないの? シリアルにミルクがないなんて、一体どうなってるのかしら?」
ええ、本当。一体どうなってることやら。この家は地獄だ。シリアルにミルクがないんだ。もう絶望するしかない。
窓からジャンプしようかと思ったが、すんでのところで妙案を思いついた。おれは“彼氏”に「今夜は戻らないよ」と言ってみる。それはベティの見ている前で。
ローマンはおれのネクタイを結びながら、「どうして?」と訊ねた。
「今日から出張なんだ」
「あら、そんなこと聞いてないんだけど」
「言ってなかったっけ? 一週間は戻れない」
「出張の荷物は?」
「会社に置いてあるから大丈夫。必要なものがあったら出先で買うよ」
ネクタイで首を絞められる前に、おれはサッと身をひるがえし、ベティに別れの挨拶をして、地獄の家から逃げ出した。
もちろん出張なんてあるわけない。つまりこれは嘘だ。しかし罪悪感は感じない。嘘に嘘を重ねたところで、今さらどうってことはないはずだ。
その夜は自分のベッドでゆっくりと眠った。おれが戻ったことを知らないポールは、友達の家に泊まりに行っていて留守だったが、自宅に戻ることが出来、とりあえずはとても幸せだった。ローマンから着信が何度かあったが、すべて無視する。可哀想だが仕方ない。あの家にいると精神が蝕まれるし、そのせいで友人の首に手をかけることになったりしたら、“可哀想”どころじゃ済まされない。互いの平和のためにも、これが一番。だいたいおれとローマンが一緒のベッドで寝るなんて、悪い冗談にもほどがある。
タイミングというのは本当に不思議なものだ。それはほんのわずかの時間、午後三時過ぎにオフィスを出て、五分ほどコーヒーショップに立ち寄った際に起きた奇跡。
「あら、ディーン」
呼び止められ、振り向くと、そこにはベティが立っていた。
「あなた、出張じゃなかったの? ここで何してるの?」
非常に難しい質問を浴びせかけられ、おれは手に持ったカプチーノを彼女に浴びせかけそうになった。それは聖なる言葉を唱えつつ。
ベティが「出張ってのは、一泊だったってことかしら?」と疑わしげに言うので、おれは取ってつけ、「本当は一週間の予定だったんですが」と言い訳をする。
「本社でアクシデントがあって、急遽、呼び戻されたんです。ベティ、あなたはどうしてここに?」
「あなたの務めてる会社、どんなところか見たかったのよ。とっても立派なビルなのね」
ここはうちの会社の持ちビルじゃなくて、テナントだ。じゃなくて。そんなことはどうでもいい。この人はなんだってこうストーカーみたいなことを平気でするんだ?!
「じゃあ、今日は家に帰ってくるのね? 息子に報告は?」
「いえ、まだ」
「わたしから言っておいてあげるわ。じゃあ、後で」
……えーっと、今なにが起きたんだ? おれは目をぱちぱちさせ、考える。ああ、そうか、作戦が失敗したってことだ。はは、笑える。たった一杯カプチーノを買いに出ただけで、まんまと捕まってしまった。このマンハッタンに、これほどタイミングの悪い奴が他にいるだろうか。少なくともこの界隈ではおれがナンバーワンとみた。こうなったら、わざと車にはねられて入院でもしてやろうか。UFOに遥か宇宙の彼方へ連れ去られるのでもいい。もちろんどちらも得策ではない。
その夜はローマンに花を買って帰った。
彼は花びらを指先でいじり、「今日って何の日だったかしら」と目を丸くする。
「別に何の日でもないさ」ネクタイを外しながらおれは答えた。「意味なく恋人に花を買っちゃ悪いか?」
「ぜんぜん。とても素敵よ。お花は大好きだから」
白いカラーの花束を抱き、ローマンは優美に微笑んだ。
「あなた、カラーの語源を?」
「いや、知らない」
「ギリシャ語で“美しさ”を意味する言葉、“カロス”からきてるの。花言葉は“素晴らしい美”」
おれたちの会話を聞いていたベティ、「ローマンちゃんにぴったりじゃないの」と言って、息子に優しく頬を寄せた。
おれは花言葉には詳しくない。ギリシャ語はもっとだ。花を買ったのは、少しは取り繕った方がいいかと思ってのこと。ベティはおそらくおれのことを疑っていて、出張なんて嘘だと思ってるはずだ。(まあ、その通りだが)。
彼女の疑いを、花という愛情の化身で晴らすことができるのであれば安いもの。ローマンへのプレゼントという名目だが、実際はベティにアピールするためだ。
「こんな素敵なブーケ、ママは一度だって貰ったことないわ。ディーンは本当にセンスがいいのね」
ほらな、効果てきめん。花が嫌いな女など聞いたこともない。ブルームで大枚はたいた甲斐があった。おかげで夜は穏やかに過ぎ……と言いたいところだが、そうスムーズに事は運ばない。
食後にコーヒーをたしなみながら、ベティがする話題はふるっている。
「ディーンは息子のどんなところが好きなのかしら?」
それは結婚の報告をしにきた若造に、義父が訊く質問だ。ローマンは顎に手を当て、興味深そうにおれを見つめている。
「それは……」と口にし、しばし考える。ローマンの好きなところ……ローマンの好きなところ……好きなところなんてあったか?
懸命に記憶をたぐり、おれは友人の美点を探し出す。
「彼はいつも明るいし……それに何て言うか……性格が面白いところかな」
───陳情終了。ここ数日の状況で、ローマンの好ましいところを述べよというのは、よほどのペテン師でない限り難しい。スピーチのあまりの短さに、二人はあっけにとられているようだ。
「やあね〜、ディーンったら!」突然ローマンが頓狂な声を上げた。「いつも言ってくれてるでしょ? ほら、“きみは美しい”とか、“世界一魅力的だ”とか。ママの前だからって照れてるのね。ツンデレさん♪」
おれの頬を人差し指でつつくローマン。その手を取り、「照れてるわけじゃない」と言い返す。「何と言うか、きみの素晴らしさは筆舌に尽くし難いからな。一晩かけたって無理だ」
「そうね、あなたはボギャブラリーが豊富じゃないものね」
トゲのある言葉に言い返そうとしたが、話の流れをベティが変えた。
「じゃあ、逆にローマンちゃん。あなたはディーンのどんなところが好きなの?」
ローマンはにこっとし、「ディーンの好きなところはね。ナルシストなところ」と話し出す。
「彼、自己愛がとても強いの。子供っぽくてとってもかわいいわ。繊細なところも好きよ、びっくりするような些細なことでクヨクヨしてる。かと思えば剛胆なところもあって、オークションで得体の知れない相手から、高価な時計を買ったりできる。それで騙されて泣いたりしてるみたいだけど、それは彼が善人だからだわ。それとここが肝心なんだけど、あたしたち、セックスの相性も抜群。これがよくなきゃ、とっくに別れてたわよね?」
「ああ、そうだな。もちろんとっくに別れてたさ」
目の前の男の首を思い切り絞めてやりたいという欲求を抑えつつ、チョコレートを口に放り込む。ここにあと数日もいたら、ストレスと糖分の取り過ぎとで肥満になりそうだ。いっそ醜く肥え太れば、ローマンもおれを偽装彼氏にするという馬鹿なアイディアは忘れてくれるだろう。もっともそうなったら、おれはポールにも振られてしまいそうだが。
「ねえ、ちょっと。そのぐらいにしておいたら? チョコレート、食べ過ぎよ」
ローマンの忠告を無視し、「チョコが好きなんだ」と、もうひとつ口に入れる。
「それは知ってる。でもほどほどにしないと。顔に吹き出物がでるわ」
有無を言わさぬ調子で、チョコレートボックスのフタを閉める。ポールだったら、こういうとき「じゃあ、あとひとつだけね」とか何とか言って、おれを甘やかしてくれるのだが。
「ディーンは思ったより食べる人なのねぇ」と、ベティが感心したように言った。
「バレエダンサーはもっと節制しているものかと思ったけど」
なに? また何か……聞き慣れない妙な単語が耳に飛び込んできたようだが……。
どう答えたらいいか分からないでいるおれに、ベティは「舞台ではどんな役をやっていたの?」と、無邪気に問いかける。小学校の頃には『アーサー王物語』で石から剣を引っこ抜く大役を果たしたが、彼女の質問はもっと別なところにポイントがあるらしい。返答に窮しているとローマンが「いろいろよ」と答えた。
「いろいろじゃわからないわ」
「だって本当にいろいろなんだもの」
ローマンは携帯を取り出し、いじり始めた。この時点でおれにはもう状況がさっぱり読めていない。
「ちょっと待って……ほらこれよ」
携帯から画像をピックアップし、おれとベティに差し出すローマン。そこには見覚えのない舞台と見覚えのない男が写っていた。
「まあ、素敵! これは何の役かしら?」
「もちろん王子様に決まってるじゃない」
「なんだか別人みたいねぇ」
「バレエ用のメイクすると顔ってすごい変わるのよ」
よし、わかった。ここまでの流れから推測すると、おれはどうやらバレエってものをやっているらしい。しかも舞台に立つほどの実力を有している。すごいな、おれは。そんなのちっとも知らなかった。
「最近は練習の方は?」そうベティが訊くので、「靭帯を切ってからは、舞台から離れていて」と答えておいた。
あまりいい話題じゃなかったと察したベティが“ご不浄”に逃げた隙に、おれはローマンを怒鳴りつけた。
「バレエって何だよ!?」
当然の疑問に、彼はしれっとした顔で、「うっかりしてたわ」と言う。「エドワードと付き合ってた頃、ママに“彼氏が舞台に立ってる”って話をしちゃったの。そのこと、覚えていたのね」
「だったらそのエドワードとかいう奴に、彼氏のフリをしてもらやよかったじゃないか」
「もうとっくのとうに別れちゃったもん。それに言ったでしょ。ママには“ディーンの写真”を送ってたって。だいたい、あたしの周りに長いこといるイケメンって、ぶっちゃけあなたぐらいなのよね」
「周囲にいたイケメンを手当たり次第、食っちゃ捨てしてきた報いだな。ところでさっきの写真は誰なんだ? エドワードか?」
「知らない人よ。『バレエダンサー 黒髪 長身』でググったら出てたきたの。ええと……“アルテム・シュピレフスキー”だって。ハンサムね」
心底あきれる。よくもまあ、こんなその場かぎりの嘘がつけるもんだ。もし彼女がシュピレフスキーとやらの写真を、後日見つけたらどうするつもりなんだ? そのときもまた適当な嘘で切り抜けるのか。ひどい息子もあったもんだ。
ベティが戻ると、舞台の話はテーブルからかき消えていたが、おれはあえて、それを蒸し返すことに決めた。
「そういえば、ローマン。おれの事より、きみの舞台は?」
「あたしの舞台?」
「コーラスのコンクールに出た事さ。彼女に話してないのか」
するとベティは「まあ、そうなの? 初耳よ!」と、目を見開いた。
「彼はなかなかの歌い手ですよ。そうだ、いい機会だから歌って聴かせてやるといい」
ローマンは頬をぴくぴくさせ、言葉を失っている。さて、どうする?
「ぜひ聴かせて」
ベティがせがむと、彼は咳払いをひとつし、“コーラスのコンクールに出たときに披露したとされる曲”を歌いはじめる。演目はシューベルトの『ます』。残念ながら歌詞は英語だ。ローマンの歌は聞くに耐えないという程ではないが、とてもコンクールレベルではなく、はっきり言って、これっぽっちも上手くない。ああ、なんて素晴らしいんだ。笑いを堪えすぎて窒息死しそうだ。
歌い終え、「ウォーミングアップなしだったから……」と恥じ入るローマン。ベティは瞳を輝かせ、「とっても上手よ。素敵だったわ」と、息子を褒めそやした。
「一日の終わりにあなたの歌を聴けるなんて、わたしは幸せ者ね。本当にここに来て良かったわ」
幸せを噛み締める母親がシャワーを浴びに行くや否や、リビングは戦場と化した。主な武器は言葉だ。
「コーラスのコンクールって何なのよ!」
「きみこそ人を勝手にバレエダンサーにしたくせに!」
「あんたにアラベスクさせなかっただけマシでしょ!」
「そんなことさせてみろ! きみの下らない嘘がバレるだけだ!」
「あたしが本気を出せば、あんたなんか今頃、四つん這いになってアンアン声上げてんだからね!」
「誰がそんなこと! 思い上がるのもいいかげんにしろ!」
しばらくギャアギャアやった後、ベティが風呂から上がると、おれたちはまた穏やかなカップルのフリをする。まったくなんて馬鹿らしいんだ。これじゃチョコレートが何箱あっても足りやしない。そもそもなぜこんなことをやっているのか、今となっては少しも思い出すことができないんだ。
今日もまた、おれはローマンのベッドで朝を迎えた。目を開けると、彼の顔がやけに近くで確認できる。たしか寝る直前までは、お互いベッドの隅にいたはずだが……。
そこで股間に違和感を感じる。その不気味な感覚。おれは彼に訊いた。
「なにを……してる……?」
「なにって、あなたのおちんちんをいじってるの。気持ちいい?」
「や、やめろ……」
「あら? さっきまで元気いっぱいだったのに、目が覚めた途端、どうしたのかしら?」
おれのモノをきゅっと握り、ローマンは悪魔のように、じいっと目を覗き込んできた。
「いいこと、今日こそはママの前で“素敵な彼氏”を演じて頂戴。でないと本当に本気を出すわよ。あなたの可愛いお尻にローマン・キャンドルをブチ込まれたくなかったら、少しはあたしに協力する姿勢を見せて」(※ローマン・キャンドル = 筒型花火のことだが、彼が言っているのは、もちろん違う意味)
数秒後におれは部屋を飛び出し、バスルームからSOSの電話をかけた。
「助けてくれ!」震える手で携帯を持ち直し、「もう駄目だ! このままじゃローマンにレイプされる!」と訴える。
「落ち着いて」とポールは言った。寝起きらしく、声がまだぼんやりしている。「レイプだなんて、彼がそんなことするわけないだろ?」
「きみはあの男を買いかぶってる! 本性を知らないんだ!」
「ぼくはきみよりローマンとの付き合いが長いよ。彼のことなら知り尽くしてる。そんなに心配しないで、もうちょっと気楽に構えたらどう?」
寝起きに股ぐらを掴まれて気楽に構えられるって、それはどんな剛の者なんだ。少なくともおれはもっと繊細にできている。
「この際だから、彼に恩を売る機会だと思えばいいんじゃない? ローマンはあれで義理堅いから、きみに感謝こそすれ、悪いようにはしないと思うな」
悪魔に売るのは魂と相場が決まってる。“悪いようにはしない”というが、もう既に汚された後だ。おれがこんな状態だってのに、なんだってポールはこんなに呑気なんだ?
彼があまり真剣に取り合ってくれないので、こっちのテンションも下がった。ひとりで喚いてるのはみっともない。そろそろベティも起きてくる。会社に行く支度をしなければ。
傷つき、うちひしがれつつも、何とか日常に戻ろうとするおれに、ローマンはにっこりと微笑みかける。
「じゃあね、ダーリン。今日一日が良い日でありますように」
“良い日”か。良い日なんてもう何日も見ていない気がする。ベティがここに来たのはいつのことだっけ? とても長い時が経った気がするが、まだ四日目だ。たった四日でこんなにも疲労した。計っていないが、おそらく体重も減ったはず。わずか四日であなたもスリムに。方法は至って簡単、ベティ&ローマンと暮らすだけ。まともな神経の持ち主であれば、最低でも五キロ減は保証できる。
アップルパイとドーナツ、砂糖とクリームたっぷりのコーヒー。今日のランチはおそろしく健康に悪いが、心には優しい。今やおれの味方は糖分と炭水化物だけのようだ。会社には恐ろしい上司がいるし、帰宅するべき場所にはモンスターが二人。世界一おれを大切にしてくれるはずの恋人は、どういうわけだかローマンの肩を持っている。
改めて思い直しても、ポールの態度はちょっとおかしかないか? いくら寝起きで面倒だからって、おれの心の叫びを無視するするかのような対応。『頑張って』だの、『気楽に』だの、こっちがどれだけ困っているか、わからない彼でもないだろうに。ペットだってよその家に預けられたら、ストレスで毛を引っこ抜いたりするんだ。おれはそこまでおかしくなってはいないが、そのうちやりださないとも言い切れない。
従兄弟のビリー・ジョーは子供の頃、ぺヴという名のイタチを飼っていた。ぺヴは、“お泊まり”と称し、よその家にしょっちゅう預けられていたのだが、可哀想に、そのたびに毛を減らしていたのだ。そして、たび重なる外泊にぺヴが慣れた頃、ビリー・ジョーの母親である、エドナ叔母さんが言った言葉が忘れられない。
「ぺヴはよそのお家にあげることにしたの。きっと可愛がってもらえるわ」
ぺヴが里子に出されたのは、共働き夫婦である二人が世話をしきれなくなったからだそうだが、子供のおれには理由なんてどうでもよかった。彼女の計画的行為にはショックを受けたし、もしそんな風に自分が他の家に捨てられたらどうしようと想像しては、そっと枕を濡らしもした。
「ディーンはローマンあげることにしたんだ。きっと可愛がってもらえるよ」
これが巧妙に仕組まれた別れの演出だとしたら? そんな可能性は百万にひとつもないと信じたい。だいたいおれはペットじゃないんだ。そう簡単に譲渡されるものではない。
この考えがナンセンスであることはわかっているが、やけに不安だ。もしかしたらローマンと生活することで、精神に何らかの障害が出てきているのかもしれない。
哀れなぺヴは、新天地で幸せになっただろうか? そうであってほしいと心から願う。ちなみに従兄弟のビリー・ジョーは、別離の直後に亀を買ってもらっていた。この裏切り者め。
コーヒーを立て続けに飲んだり、砂糖と油ばかりを摂取しているせいか。はたまた単にストレスか。きっとその両方だ。胸焼けがひどく、気分が悪い。発汗と悪寒が認められたところで仕事を切り上げ、帰宅することに決めたが、体調不良の元凶が待つ家になど帰りたくはない。この状態で魔物と戦うのは不利の極みだ。おれは、おれを癒してくれる天使に会う必要がある。今すぐに。
会社を早退し、恋人の勤務する美容室へと直行。電話で店の前に呼び出したところ、「こんな時間に、どうしたの?」と、天使は言った。
「きみの顔が見たくて」と、おれは答える。数日ぶりの再会だ。大喜びですがりついてくるかと思われた恋人は、「前もって電話をくれればよかったのに」と、眉間にシワを寄せて頭を左右に振った。
「危ないところだった、はち合わせなくてよかったよ。今日の午後、ローマンのママがここに来たんだ」
「なんだって? それ本当か? いったい何しに?」
「髪をセットしに来たのさ。ぼくを指名してきて、根掘り葉掘り聞かれて困ったよ。きみたちの仲を明らかに疑ってる」
「だろうな。実際つきあってないんだから。彼女、どんなことを?」
「いろいろ喋ってたけど……」思い出そうとするように考え込み、「内容を要約すると『ディーンの態度はおかしい』って話」と、最初から結論をまとめた。
「ローマンに冷たい態度をしたかと思えば、いきなり花束なんか買って帰ってくる。出張の話も嘘じゃないかとか、あげくの果てに『ディーンは何度かあなたに電話してるみたいだけど、どんなことを話しているの?』だって」
「ちょっと待てよ。なんで彼女、おれがきみに電話してることを知ってるんだ?」
「そんなことぼくに聞かれても分からないよ」と肩をすくめる。
ベティはおれの携帯の発信履歴を見たのかもしれない。彼女だったらやりかねないことだ。
おれが黙りこくると、ポールは「思った以上に大変みたいだね」と、指の背でおれの頬に触れた。「なんだかやつれたみたい。嘘がバレないようにするにはひと苦労だ」
「ああ、まったく。こんな状態は苦痛極まりない。毎晩、きみが恋しくて狂いそうだ」
「ぼくもだよ。早く一緒のベッドで眠りたい」
「ほんとか?」
「なにが?」
「本当にそう思ってる?」
「当たり前じゃない。何で疑ったりなんか?」
「いや……」
「いつだって愛してるよ。心配しないで。ところで、ぼくはまだ仕事の途中なんだ」
「ああ」
「ごめんね。今日はこれで」
「待て」
去ろうとするポールの腕を掴んで引き寄せ、抵抗する間も与えず、抱きすくめてキスをした。舌を絡ませると、彼はわずかに拒むような所作をしたが、すぐに同意の姿勢になる。長過ぎる口づけが終わると、ポールはぽやんとした顔つきになっていた。甘くため息をつき、「ディーン……ここは店の前だ……」と抗議する。
「ああ、そうだな。ここは往来で、きみの働いてる店の前だ。だからキスだけで我慢した。そうでなかったら今ここできみの服を破りとって、キス以上のことをしてやりたいね」
「すごく素敵。ぼくも今すぐきみの前にひざまずいて、ジッパーをおろして……」
「おっと、その先は言うな。ここは往来で、きみの働いてる店の前だ」
「ねえ、早いとこ仕事を片付けるから、先にうちに帰っててよ」
「おれたちの家に? ローマンには何て?」
「今夜は遅くなるって言っておけばいい。深夜を過ぎる前に帰るからって」
その手があったか。ポールは本当に頭がいい。そこから先はフィルムの早回しのようにスピーディ。具合が悪いのも忘れてダッシュし、懐かしの我が家に駆け戻る。急いで─しかし念入りに─シャワーを浴び、ベッドを整え、香を焚き、準備万端でポールの帰宅を待った。時計を見ると、8時を過ぎたところ。セックスをしたら、とんぼがえりでローマンの元に戻る算段だ。しかし、これじゃまるで浮気男だな。
ベッドに腰かけ、遅くなる旨をローマンに電話で伝えると、彼は「ちょっとやめてよ!」と大声を出した。
「今夜はレストランを予約してあるのよ!? あなたがいないなんて、ママに何て言ったらいいの!?」
「そんなの知るかよ。おれはこれからポールとセックスするんだ。これだけは誰にも邪魔させないからな」
「そういうことはレストランを予約してない日にして。それに、あたし言ったでしょ。『今日こそはママの前で“素敵な彼氏”を演じて頂戴』って……」
そういえばそうだった。その後に続く台詞は、たしか“ローマン・キャンドル”がどうとか…………。突如、背筋がゾッとし、気づくとおれは「わかった、わかったよ!」と叫んでいた。何がわかったのかはわからないが、それに続く言葉はこうだ。
「レストランに行けばいいんだろ」
するとローマンは、さも当然のように「そうよ」と言う。「トスカニーに8時半。遅刻しないでよ。じゃ、後で」
「ちょっと待てよ」電話を切ろうとするローマンを止め、おれは言った。
「遅刻はしない。そのかわり頼みがある」
トスカニーはいいイタリア料理店だ。以前からそう思っていたが、今夜さらなる確信を得た。予約時間の三十分前に「もうひとり人数を増やしたい」という客の要望は、店にとっては迷惑極まりないこと。しかしトスカニーは突然の増員に快く対応してくれた。これこそ接客の手本だ。かくしておれとローマンとベティ、そしてポールは“四人で”親睦を深めるに至る。
ポールを加えたのは、言うまでもなくおれの提案だ。ベティ&ローマンは最強のタッグだが、こっちも二人となれば心強い。きっとポールはおれの味方になってくれるはず……という想定は、前菜の段階から微妙になってきた。
「ぼくから見て、ローマンとディーンは理想的な恋人同士だと思うな」
質問魔のベティが、息子とその恋人にについて、友人としてどう見えるかを、ポールに訊いたときの答えがこれだ。
「仕草の端々から、お互いを思い合ってることがわかるっていうか……。彼らは心から愛し合ってるカップルだって、仲間うちでも評判なんですよ」
ワイルド・マッシュルームのソテーにフォークを刺し、ポールは涼しい顔でそう言った。それを咀嚼し終え、友人に顔を向ける。
「ねえ、ローマン、今日きみのおかあさんにお会いして、きみがどうしてこんなに楽しくて素敵なのか、わかった気がするよ」
これにはベティも大喜び。頬を紅潮させ、「うちの息子はよいお友達を持ったわね」と満足げな笑みを見せる。彼女、きっとおれのことは“よい恋人”とは思っていないだろう。とにかく口が重いし、今だって黙ったまま、皿の上のものを平らげることに情熱を燃やしている。
ポールはほがらかによく笑い、ローマンもベティも会話を楽しんでいる。そしてここでも、おれはまた居たたまれない気持ちを抱えていた。
「本当にきみたちはお似合いだよね。ふたりが一緒にいると、まるでファッション雑誌の広告みたい」
ポールは微笑み、おれの目を見てそう言った。これは褒め言葉なんだろうか。一般的にはそうだ。おれとローマンが本当の恋人同士だったら、“お似合い”と言われて嬉しく思ったことだろう。
ポールは何度となくおれたちを褒めちぎり、それを聞かされるたび、おれの胸は痛んだ。料理は最高なのに、テーブルの上には嘘がのさばっている。これがベティのためだって? 本当にそうなのか、おれにはもうよくわからない。ただ、ポールが下らない芝居をしているのを見るのは苦痛だし、それに合わせなくてはならないのもやりきれない。
ピアノの生演奏が切なく響く。ボッケリーニのメヌエットは溌剌として楽しい曲だが、おれの心には悲痛の調べだ。今だったらジャッカスを見ても泣けるだろう。
ウェイターを呼び止め、早めにメインを持ってきてくれるよう頼んだ。悲しいかな、食うことぐらいしか楽しみがない。どうせまた後でローマンから、“牛みたいにモリモリ餌を食べっぱなし”な件について何か言われるんだろうが、構うもんか。
半ばヤケ気味になって、ステーキに食らいついていると、ポールがこちらに視線を向け、渋い顔をする。なんだ? 食事のマナーで何か失礼なことでもしたか? それともやっぱりきみも、“牛みたいにモリモリ餌を食べっぱなし”ってのは気になるのか?
巨大なティラミスを胃に叩き込み、ようやくディナーは終了。店を出て、右と左におれたちは別れた。いつもだったらポールと同じ方角に向かうのだが、今夜は彼を見送るという寂しい役割。一日の終わりがこんなだなんて悲しすぎる。小さくなるポールの背中。そこに駆け寄り、思い切り抱きしめ、おやすみのキスをしたい。でもそれはできないんだ。ああ、なんという悲劇。
「ちょっと、ぼさっとしてないでタクシーを捕まえてよ」
ローマンから命じられ、おれはタクシーを拾うべく、大通りへ出た。夜のマンハッタンは物騒だというが、誰もおれを誘拐する気配はない。しかもこんなときに限って、タクシーはすぐに見つかるときた。運転手に「冥王星まで」と告げたい衝動にかられたが、それは不可能。おれの後から、すぐに二人が乗り込んできたからだ。
車が走り出し、ベティが「ディーンはタクシーを見つけるのがうまいのね」と褒めてくれた。嬉しくない。
寝る直前、おれはクローゼットにこもり、ポールに電話をかけた。今やこの場所が定位置となりつつある。狭苦しさは感じるものの、椅子を持ち込んだら割と快適になった。もう少し広かったらここで眠れたのに、残念だ。
しばらく呼び出し音が聞こえたのち、ポールの携帯は留守番電話へと切り替わった。そこで家の電話にかけなおす。しかし誰も出ない。メールを送り、数分待つも返信はない。店を出てから一時間以上が経過しているので、まだ帰宅していないということはないだろう。風呂か? それとももう寝た? まさか電話に出たくないとかじゃないだろうな。そういえば、さきほど食事の席で、彼は妙な表情をしておれのことを見ていたっけ。あれには何か深い意味があったのだろうか。
突然、不安が広がり、リダイヤルのボタンを押す。出ない。もう一度。頼む、出てくれ。いったいどうしたんだ。警察を呼ぶべきだろうか。
頭の中が恐ろしいイメージでいっぱいになったところで、ようやく電話が繋がった。
「ああ、ポール。よかった、いたんだな」
「ごめん、シャワー浴びてたんだ。どうしたの?」
「別に用事じゃない。寝る前にきみの声を聞きたくって」
「そうなんだ。でもさっき別れたばかりなのに」そう言って、ポールはくすりと笑う。「離れた途端に、ずいぶん愛情深くなったみたい。これならたまにはローマンのところに預かってもらうのもいいかもね?」
冗談めかす口調にカチンときた。こっちは電話に出ないことを心配していたってのに……。
腹立ち黙り込むと、彼は「もしもし?」と電波の状態を言葉で確認した。
「ディーン? どうしたの?」
「おれだけか?」
「えっ?」
「寂しさを感じているのはおれだけなのか? きみは平気なんだな、おれがいなくても。そういえば、こっちに来てからというもの、電話をかけているのはおれの方からばかりだしな」
「いったい何を言ってるの?」
「おれとローマンが似合いだとか、たとえ芝居でも、きみの口から聞きたくなかった。てっきりおれの味方をしてくれるものと思ったが、それは間違いだったんだな」
惨めな気持ちでそう言うと、ポールは「ちょっと落ち着いて」と、おれに冷静さを求めてきた。
「さっきのレストランでのことを言ってるんだったら、あれはただのお芝居だ。ぼくは単にローマンに協力してるだけなんだよ。きみじゃなくて、“ローマンに”協力してる。そしてきみも、本来であれば彼に協力してるはずなんだ」
「本来であれば? それはどういう意味だ?」
「だって、このお芝居を最初に引き受けたのはきみだろ? それなのに文句ばかり言って、ちっとも彼に協力的じゃない。気持ちはわかるけど、あれじゃローマンが気の毒だ」
「ローマンが気の毒だって!? おれは気の毒じゃないのか!?」
ポールは「あのね」と、あきれたように言った。「きみは被害者じゃないよ、ディーン。きみは“共犯者”なんだ。嘘が嫌だというのなら、最初から引き受けるべきじゃなかったね。最後まで責任を持つことができないってのなら、それはいいとして、最低限“責任を放棄する責任”を負うことは忘れないで」
責任を放棄する責任を負う? それはつまり『またしてもローマンに貸しを作ることになる』ってことだ。
「ローマンがきみにしたのは、確かに馬鹿げた頼み事だけど、約束は約束だ。今のきみは……こういう言い方はあまり好きじゃないけど、あえて言わせてもらうよ。今のきみは男らしくないと思う」
男のおれが、男の恋人から、男らしくないと言われた。これでショックを受けない男はいないだろう。どれくらいショックかって、まるで頭にスカッド・ミサイルを食らったみたいだ。実際に食らったことはもちろんないので、比喩としてはどうかと思うが、ダメージの大きさを現すには適当な表現だと思う。(──で、どうかな。今から泣いていい?)
ドンドンとクローゼットの扉を叩く音がし、続け「あなた、今夜はそこで寝るつもり?」と声がした。
『できればそうしたいところだ』という憎まれ口を心に収め、おれは「すぐ出る」と返事をする。まったく、“クローゼットで眠れたらいい”と望むなんて、哀れの極みだ。
「ポール、そろそろ……」
「うん、聞こえた。でも最後にひとつだけ言わせて。こっちから電話をかけないのは、きみがローマンのところにいるからだよ。ベティがいるところで、ぼくからの着信が毎晩あったら困るだろ? だからこっちは、きみからかかってくるのを待つしかないんだ。それってどんな気持ちかわかる?」
そうだったのか。言われてみれば簡単なことだ。このところの心労から、おれはいつしか疑心暗鬼に陥っていたらしい。
「ディーン、ぼくはきみを愛してるし、きみもぼくを愛してる。ぼくらの間には何の問題もないよ」
おれが不安がっていること、ポールはすっかり見抜いていた。こうなると妙に恥ずかしい。怒られ、諭され、慰められる。これじゃまるで子供だ。うん、そうだ、ここ数日のおれはかなり子供っぽかった。男らしくないどころか、大人らしくもない。ポールがレストランでおれに向けたのは、軽蔑の眼差しだ。あの時点で振られてもおかしくなかったわけだが、ポールはまだおれを愛していると言う。これが希望でなくて何なのだ。
ラザロのようにクローゼットから出ると、ローマンが軽蔑の眼差しでこっちを見ていた。畏れるなディーン、ただひとつの愛を胸に、おまえは死をも乗りこえた(比喩的な意味でだが)。たとえ妖怪変化に身体をまさぐられようとも、魂だけは清らかでいることができる。
「ベティはどうした?」
「寝たわ。疲れたみたい。あたしたちももう寝ましょ」
ローマンはシーツにスルリと身体を滑り込ませた。
「なあ、あのさ」
「なあに?」
「人の親にこういうことは言いたくないけどな。きみのママは異常だ。彼女がおれの電話の履歴をチェックしてたこと、知ってたか?」
彼はおれに背を向け、「だから言ったでしょ、“あたしのママはおっかない”って」と言う。
「きみはよく平気だな。おれだったらとても耐えられない」
「平気じゃないけど、慣れたの」
「それで調子を合わせることを覚えたってわけか? こんな突拍子もない嘘をついてまで?」
「嘘はママがここにいる間だけよ。帰ったら“ディーンとは別れた”とか言って、話をつくるわ」
「本当に?」と、彼の顔を覗き込む。
「まあ、たぶんね」ローマンは目を逸らした。
嘘だ。彼は嘘をついている。しかしここでそれを糾弾したところで、態度を硬化させるだけ。ものをうまく運ぶにはタイミングがある。今はまだその時じゃない。
グッド・モーニング、マンハッタン!
もう腹をくくった。おれは今日からローマンの恋人だ。世界一の愛を捧げよう。誰よりも幸福だと彼が思うほどの愛を。
言っておくが、これはローマンのためでも、ベティのためでもない。ポールのためであり、おれのためだ。自分の彼氏は男らしくないなんて、恋人に思わせるわけにはいかない。おれの愛はローマンを通し、ポールへと注がれる。すべての道はローマ(ン)ではなく、ポールへと通ず。とんだ寄り道もあったもんだ。
野菜をジューサーにかけるローマンに、笑顔で「おはよう」と声をかける。
「まあ、今朝はニコニコ顔じゃない? ずいぶんご機嫌ね?」
「きみみたいな素敵な恋人がキッチンにいて、笑顔にならないとしたら表情筋が壊れてるな」
おれは背後から、彼の耳にキスをした。演技のコツはローマンをポールだと思うこと。全力であたれば、きっとそう難しいことじゃないだろう。
「恋人はとても優しいし、仕事は順調。これで楽しくないなんて言ったらバチがあたる」
ベティに聞こえるようにそう言って、またキス。
「あのね、言っとくけどママはまだ寝てるわよ」
「なんだ、そうか」
無駄な芝居をしてしまった。しかしリハーサルとしてはまずまずの滑り出しだ。
「どうしちゃったの。急に優等生になっちゃって」
「別に。ちょっと本気を出したまでだ」
「最初から出してくれりゃよかったのに……まあいいわ。協力的になってくれて有り難いこと。こういうのをあたしは望んでいたのよ」ローマンはニンジンをジューサーに放り込んだ。
「可能な限り協力するよ。そのかわり、きみもおれに協力してくれよ」
「あたしが何を?」
「調子に乗って馬鹿なことをおれに要求しないで欲しい。ポールがするみたいな分別を持って恋人に接して欲しいんだ」
「分別ねぇ……難しいけど頑張ってみようじゃないの。素敵な彼氏のためですものね」
「よく言うよ、こんなときばかり素敵とか」
「あら、そんなことないわ。素敵だってことは前から認めてるもの。悔しいけどね。さっきだってとても自然にキスされてドキドキしちゃったくらい。あ、ここはポールには内緒ね」
慌てて付け加えるローマン。その様子がおかしく、おれは笑ってしまった。
「まあ、なんだかいい感じじゃない? これにて仲直りね?」
「そうだな。あとはきみのママが帰る日まで、うまくやり過ごすだけだ」
素晴らしい平和協定がここに結ばれた。最初からこうすればよかっただろうって? それは無理な相談だ。ブッダもイエスも悟りを開くまでには、ある程度の時間を要したんだ。たった六日で光明を得たおれは、かなり物わかりのいい方だと思う。
ローマンをポールだと思って接してみて、気づいたことがある。おれは普段、恋人に対して、こんなにもベタベタしていたのかということだ。
意味なく後ろから抱きついたり、風呂上がりに髪の匂いを嗅いだり、テレビを見ていて、突然頬にキスしたりする。人前ではここまでしないが、二人きりのときは隙あらばという感じで愛を現しているのだ。もしかしたらおれは、ローマンが指摘するように、ツンデレでムッツリなのだろうか。こうなってみると否めない気がする。
しかしこれら一連の“やや過剰な表現”は、ローマンと、とりわけベティには評判がよかった。おれたちがくっついているのを見て、「素敵な男の子たちが仲良くしているのを見るのは、微笑ましいわねぇ」とか何とか。それにしても、彼女くらいの年齢でここまでゲイに偏見がない親というのも珍しい。まあ、ローマンみたいな息子がいたら、偏見などは持っていられないのだろうが。それとも“偏見のない親”だからこそ、ローマンみたいな息子が出来たのか?
因果性のジレンマについて思いを馳せていると、「あなた、ようやく落ち着いてくれたわね」とローマンが言う。
「こないだまでヒステリー気味だったでしょ、それについて自覚あった?」
それはもちろんあった。病院送り一歩手前だと、自分でも分かってた。しかし今“ようやく落ち着いた”ということについては、自覚していなかった。
どうやらおれは何かを取り戻したらしい。因果性のジレンマを取り扱えるほど、マトモになった。そしてその途端、物事がクリアに見えてきた。
ポールが指摘した通り、おれは被害者ではなく共犯者だ。共犯ということは、ローマンの仲間だということ。おれはポールに自分の仲間になってほしくて、彼をレストランに招いた。しかしポールはローマンの味方。彼はおれが落ち込むほど、見事な芝居をやってのけた。友達が望むのであれば、自分はどうあれ協力する。おそらくそれがポールのやり方なんだろう。
しかし、おれにはとても真似できない。そんなことはやりたくもないというのが、本当のところだ。軽々しく引き受けてしまったのは、まったくの失敗だが、ここから逃げるようなことはしたくない。何の因果かおれはここにいて、ローマン親子の関係を目の当たりにし、そこに違和感があるのを感じとっている。それなのに何事もないようなそぶりをし、馬鹿な芝居をするなんて真っ平だ。
今のところおれはローマンの“共犯者”。だが、できることなら彼の“協力者”になりたい。ポールがやったような友情の示し方はおれには無理だ。だとしたらどうする? おれは自分の心に沿った行動をする必要がある。誰のことも傷つけず、それぞれが自分に正直でいられる道がきっとあるはずだ。
一日の労働を終え、『さあ、今夜はどんなおしゃべりに付き合わされるのだろう』と覚悟をして帰宅すると、家の中は思いのほか静かだった。
リビングの明かりが消えていたので、床置きの間接照明を点ける。やわらかな光が、品の良いアールデコのインテリアを照らし出す。悪魔の巣にしちゃ、なかなか悪くない。30年代のハリウッド女優が、衝立の後ろから今にも姿を現しそうだ。
キッチンにローマンがいたので、「ベティは?」と訊くと、「観劇に出かけたわ」とのこと。
「遅くなるそうだから、先に食事を済ませちゃいましょ」
よし、話をするなら今だ。
「あのさ、ローマン。ちょっと話があるんだ」
対面カウンターに呼びかけると、「今、空豆の皮を剥いてるの」という返事。
「手を動かしながらでいいかしら?」と訊くので、おれは「駄目だ」と答えた。
「ちゃんと話がしたい。こっちへ来て座ってくれないか」
ソファの隣を叩くと、彼はピンクのゴム手袋をはめたままやってきて、おれの膝の上にちょこんと腰を下ろした。
「そこじゃない」と言うと、彼は「やーね、ジョークよ」と、ひらり身を翻し、ゴム手袋を脱いで隣に座る。
「で? 話って?」
「きみと母親のことだ。きみたちの関係はそれでいいのか?」
「何が?」
「今度のことは“ジョークよ”じゃ済まされないぞ。きみはきみの大切な人をあざむいてる。それについて何とも思わないのか?」
「“あざむく”なんて大げさ」顔の前で手を振り、「あたしとママはうまくいってるわ」と言う。
「ああ、そうみたいだな。でもそれは嘘の上に成り立ってる。騙されてることをベティが知ったらどう思う? きっと悲しむに違いない」
「だからあなたに協力してもらってるんじゃない。嘘がバレないよう、上手くやって頂戴って」
ローマンはおれに向かって、わざとらしく唇を曲げてみせた。話の矛先がこっちに来たが、ここで論点をすり替えられるわけにはいかない。
「“うまい嘘のつき方”なんてどうでもいい。おれは“きみが親に嘘をついてる”ってことについて話してるんだ」
「自分だって親にゲイを隠してたくせに、偉そうに言わないでよ」
「だからだよ、ローマン。おれは経験からモノを言ってる。隠し事ってのは人を疲労させる。偽りを守り続ける労力ときたら、精神を蝕むほどだ。嘘をつくことは、それがもたらす報酬と比べて、割に合わないもんなんだ」
ローマンはテーブルに放り投げられたゴム手袋に視線を据え、無言でおれの話に耳を傾けている。彼は馬鹿じゃない。この正論が心に響かないわけがない。
「なあ、ディスティニー。きみは見た目もハートもとびきりの奴だろ。下らない嘘で、きみの黄金のオーラを曇らせちまってもいいのか?」
そっぽを向いている彼の顔を覗き込み、手を取って指先にキスをする。それは気持ちを深く伝えるべくの表現で、作為はこれっぽっちもなかったつもりだが、ローマンはそうは取らなかったようだ。おれの手からつるりと抜け出し、「色じかけは悪くないけど、結局のところ、自分がこの役目から解放されたいだけでしょ」と、膨れ面。
「きみのことを思って言ってるんだ」
「じゃあ、“思い”だけ、有り難く受け取っておくわ。それ以外は“ノン・メルシー”よ」
おれの好意をフランス語で退け、ローマンはゴム手袋を掴んでキッチンへと消えた。説得は見事失敗。おれは本当にこの手のことが苦手だ。
明日はベティが帰宅する日。最後のディナーは、とびきりの中華料理店をローマンが予約してくれた。北京ダックにヒラメの蒸し物、カニとエビの丸揚げ、小龍包にフライド・ヌードル。このあたりは順調だったが、鶏の足のスープと、ブタの足のローストが運ばれてきたときのベティの顔。『あなたたち、いつもこんなものを食べてるの?』と言わんばかりに、給仕係を見るので、おれたちは笑ってしまった。ローマンはベティを驚かそうとして、わざとこの奇妙なメニューをオーダーしたのだ。
料理はどれも素晴らしい味で、誰もが舌鼓を打った。三人一緒の食事はこれが最後だ。嫌な役割から解放されることは嬉しいが、浮き立つような喜びは感じられない。ローマンは罪悪感など、これっぽっちも感じていないのかもしれないが、おれはどうにも心が重い。
かなり変わってはいるが、ベティはゲイに偏見のない、息子思いのいい親だと思う。騙していい人間と、騙してはいけない人間がいるとすれば、ベティは後者だ。今夜の宴が楽しくあればあるほど、おれは嘘の存在を意識してしまう。できればローマンに正直になって欲しかったが、それは“ノン・メルシー”、無下に断わられた。
『ラクダに水を飲ませることはできない』とは、ローマンがよく口にする台詞で、それは『本人が望まないものを、周囲の者が無理にさせようとしても無駄』という意味だ。人は変わることができるが、人を変えることはできない。おれはローマンに水場を提供することはできるかもしれないが、水を飲むかどうかは彼が決めること。嫌がる者の首根っこを掴んで強要したとしても、振り払われるのがオチだろう。だいたい、そんなことが可能であれば、もうとっくに実践してる。そう簡単に変えられないからこそ、おれはここでおかしな立場に立たされてるんだ。
たっぷり食べた後には、おなじみのフォーチュン・クッキーが振る舞われる。ベティが割ると、19世紀末の偉大なる芸術家の言葉が飛び出した。
─── 心に愛を保て。愛のない人生は、日光のない庭のようなもの。花は死んでいる。オスカー・ワイルド(Keep love in your heart. A life without it is like a sunless garden where the flowers are dead. Oscar Wilde)
ベティは目を細め、「美しいわ。まさしく真実ね」と、クッキーを頬張った。
お次はローマン。「あっは! あたしの最高! ほら見て!」と笑い、占いの紙を差し出す。そこにはこう書いてある。
─── 神も冗談が好きである。アリストテレス(The gods too are fond of a joke. Aristotle)
「アリストテレスもなかなか言うわね。きっとこの言葉を思いついた日、彼は振られたんじゃないかしら?」
面白い格言だが、今のおれには皮肉に聞こえる。冗談好きの神のせいでこんなことになっているのだとしたら、率直に言って、おれはそいつを恨みたい気分だ。
「ディーンはどんな?」
ローマンがそう訊くので、おれは紙切れを見つめながら「“さっきのヌードルには毒が”」と答えた。
「もう、馬鹿ばっかり。どれ、あたしが見てあげる」
おれの代わりにクッキーを割るローマン。読み上げ、「シンプルね」と感想を述べた。
それは確かに、ひねりも何もないシンプルな格言。文豪の言葉はおれの胸にチクリと突き刺さった。
─── 迷う時には真実を話せ。マーク・トゥエイン(When in doubt, tell the truth. Mark Twain)
どこかでちゃんと見ている神は、的確なポイントでメッセージする。どうやら本当に冗談がお好きらしい。
『迷う時には真実を話せ』。嘘をつき続けることを選ぶのはローマンの選択で、彼はそこに迷いがない。迷っているのは誰だ? ローマンでもポールでもベティでもない。おれだ。なんてこった、葛藤しているのはおれだけじゃないか!
ローマンはこの状態を問題とは思っていない。問題視していないのだから、何も変えたがらないのは当たり前だ。彼には居心地の悪さも葛藤もない。それを感じているのは、おれひとりだけ。だとしたら、一体どうしたらいい?
それについては、ジョークの好きな神が答える。
『一体どうしたらいいかって? それはもう言ったと思うけどなあ』
長い長い一週間だった。どんな悪いことも永遠には続かないという証明が、今ここで成されようとしている。ベティは今日、マンハッタンを離れる。ローマンは依然、この街に住み続けるが、それはさほど問題にはならない。おれが今よりもっと注意深くなって、彼からのアフタヌーンティの誘いを断わればいいだけだ。ラガーディア空港はただの空港だが、この日をもってして希望の象徴となるだろう。災いから手を切り、人生を新しくやり直すシンボルだ。
搭乗手続きをしているベティの背を見つめながら、おれはローマンに「別れるって話、してくれるんだろうな?」と聞いた。
「何のこと?」と、彼は答える。
「後日、きみのママに、“ディーンとは別れました”って報告してくれるんだろ?」
「そうねえ……」
「おい!」
「今ここで急いで決めなくてもいいでしょ。今日はまだ、あたしたち“お付き合いしてる”んだから」
ローマンはプイと顔を背け、おれの視線を避けた。駄目だ。こいつは“別れた”と言うつもりはないんだ。飛行機が出るまでに時間はまだある。それまでに彼を説得できるだろうか? 普通に考えて、それはかなり難しい。一週間かけてできなかったことを、なんで一時間で出来ると思う?
ベティのメアドを聞き出して、一ヶ月後くらいに『おれたち別れました』と送ってやろうか。しかしそれは無理がありすぎる。別れたことについて、ローマンから連絡がないのは不自然だ。おれから彼女に報告する義務はない。
悶々と考えていると、突然ポールが現れた。幻ではない。本物の彼だ。
「よかった、間に合った」と息つく彼に、ローマンは「わざわざお見送りに来てくれたの?」と驚いた様子。
「それもあるけど、ディーンを迎えにきたんだ」とポール。おれを見、「ここから一緒に帰って、休日の午後を満喫しようと思って」と言う。
ああ、ポール! きみはなんて最高の恋人なんだ!!! 力一杯抱きしめてキスしてやりたいが、それはまだできない。もうあと数時間の辛抱だ。
手続きカウンターから戻ったベティは、「わざわざお見送りに来てくれたの?」と、息子と同じ台詞を言った。ポールは質問には答えず、「これ、よかったら」と、紙袋を彼女に差し出す。
「なにかしら……まあ、チョコレートね! うれしいわ、ありがとう!」
キスせんばかりに喜ぶベティ。おれはポールに「気が利くな」と、ささやいた。
「だって機内で出るチョコレートは美味しくない。でしょ?」
「並んだか?」
「そうでもない。けっこう空いてたよ」
「おれの分は?」
「そう言うと思った。ちゃんと買ってあるから安心して」
ふと気づくと、ベティがおれたちを見つめていた。目をしばしばさせ、「なにか……あなた方、とても仲がいいのね?」と言う。
しまった、少し親しすぎたか。ポールも同じことを思ったらしく、ぱっとおれから離れ、距離をとった。見ると彼は悲しげな顔をしている。こんな表情を恋人にさせるなんて、おれは彼氏失格だな。
ローマンは気まずい空気を取り繕おうと、オーバーに笑みを作り、「それはね、ママちゃん……」と話し始める。その唇から嘘がこぼれるより早く、おれはこう言った。
「ローマン、もう無理だ。これ以上、騙し続けることはできない」ポールの肩を抱き、「本当のことをここで言うよ」と宣言すると、ポールが小声で「ディーン?」と言った。おれは肩を抱く手に力を込め、「大丈夫だ」と、彼の耳にささやく。
「ちょっ……ちょっと待って、ディーン。あなた……ねぇ、落ち着いて」そう言ったのはローマンだ。見ると、彼は目をまんまるに見開き、“何を言い出すの!?”という顔をしている。
「ローマン、おれは落ち着いてるよ。いまだかつてないほど冷静だ」彼に歩み寄り、「きみの母親がいる今、はっきりさせておきたい」と、彼女を見た。ベティはキョトンとしていて、何が起きているのか、まるでわかっていないようだ。おれはローマンに向き直る。
「おれたちの付き合いは終わってた。それはローマン、きみもわかっていただろう? きみはベティのために、おれたちが上手くいっているフリをしていた。でももう無理だ。そんなことはやめなけりゃならない」
唖然とするローマンを無視し、おれは続けた。
「おれはポールが好きなんだよ。自分でもどうしてこんなことになったのか分からないけど、しばらく前から彼のことを愛してる。ポール以外の男は目に入らない」
そこで言葉を切ると、自分の言うべきことが終わったのがわかった。わずかの沈黙の後、口を開いたのはローマンだ。
「ええ、わかっていたわ……」そっと目を伏せ、息を吐き出す。「あなたの言う通り。わたしたちの関係は終焉を迎えていたのよね……。あなたを愛するあまり、わたしは盲目になってしまっていた。あなたたちが惹かれ合っていることは明白だったというのに……」
妙にしっとりとした口調。目にはうっすら涙まで浮かべている。なんてノリがいいんだろう。即興でここまで演じられるとは、かなりの役者だ。こっちも負けてはいられない。芝居をしかけたのはおれの方だ。
「ごめんよ、ローマン。許してくれとは言わない。でも自分の気持ちは偽れない」
真摯にそう言うと、第三の登場人物が舞台に登場。「ディーン、あなたなんてひどいことを……」ベティは頭を左右に振りながら、裏切り者に詰め寄った。「あなたね、こんな素晴らしい子と別れたりしたら、一生を後悔のうちに終えることになるのよ?」
「やめてママちゃん」おれとベティの間にローマンが割って入る。「あたしはいいの。潔く身を引くわ」
「ローマンちゃん、あなたそれでいいの? 本当に? 痩せ我慢をしているんじゃなくって?」
「ねえ、ママちゃん。あたしはディーンを愛しているの。真の愛を今でも彼に捧げているのよ……」
潤んだ瞳をおれに向けるローマン。完全に自分に酔っている。濡れたまつ毛は、砂漠のラクダによく似ていた。
「彼を愛してる……ディーンにはいつだって心のままに生きて欲しい。束縛なんてしたくないし、できっこないわ……」
よく言うよ! この一週間というもの、おれを精神的にも物理的にも束縛しまくったくせに!
『どの口が言うんだ?』と唇をひねり上げてやりたいところだが、ここはローマンのひとり舞台。黙って成り行きを見守ろう。
名優ディスティニーはやや明るい声音で「それにポールはとてもいい子だもの」と、ポールを見た。「あたしは失敗しちゃったけど、きっとディーンとうまくやれると思うの」
ポールは小さく苦笑している。彼もまた、黙って成り行きを見守ることに決めたらしい。
ローマンはおれに視線を戻し、歌うような口調で台詞を回し始めた。
「ディーン、誰よりもあなたの幸せを祈るわ。それがわたしの心からの愛……」
どうやらここがクライマックス。ブロードウェイ・ミュージカルもかくやの劇的シーンだが、おれは少しも感動できない。これまでの経緯から言って当然のことだ。しかしベティはそうじゃない。“これまでの経緯”を知らないわけだし、とにかくやたら息子を愛している。彼女は大いに感動したらしく、ラクダの目になって「私の息子は何て寛大な心を持っているのかしら……」と、つぶやいた。
「ローマンちゃん、ママは本当にあなたのことが誇らしいわ」
「ありがとう、ママちゃん。わかってくれて嬉しいわ」
ほんと、わかってくれて嬉しい。でなきゃ、芝居を打った甲斐がないもんな。素晴らしい舞台だったけど、カーテンコールは無しでいいぜ。
後は楽しい午後を夢想するばかりのおれの胸に、ローマンが手を置いた。
「ディーン、最後にひとつだけお願い。お別れのキスをして頂戴」
なに!?
「さよならだけでは寂しすぎるわ……せめて素晴らしいキスを……」
今度はおれが、“何を言い出すんだ!?”という顔をする番だ。キスだって? 今ここでか? ベティが見ているのに? ポールもいるのに? ここは空港で、芝居の舞台じゃないのに? ローマン・ディスティニーにキスしろってのか? そんなことは舞台でどこでも御免だ!
冷や汗をかくおれを、ローマンが、ベティが、ポールが見つめている。(ついでに言えば、横のベンチに座っているカップルも、さっきからおれを見つめている)
クライマックスはさっきのシーンじゃない。本当のクライマックスは今だ。とてつもないバッドエンドの予感がする。
おれは決意し、殉教者のようにローマンに進み出た。彼の頬に手を置き、そっと顔を近づける。軽くチュッとやるつもりでそうしたのだが、目の前の男はそれを知ってか、おれの両頬を力強く掴み、しっかりと固定してきた。そこから先の展開は……ああ、神様……思った通り、ローマンは思い切り舌を絡ませてきた。ここで退いたら男じゃないと思ったが、むしろ男だからこそ退きたいのだと思い直す。しかし後戻りはできない。おれはローマンの身体を抱きしめ、キスを返した。人間、死んだ気になれば何でもできる。というか、死んだ気にでもならなきゃ、とても耐えられそうにない。
ラガーディア空港はただの空港だが、この日をもってして悪夢の象徴となってしまった。災いがおれを襲い、口づけを強要する。時として、己が力ではどうすることもできないようなことが、人生には起こりうる。友人の選択について、本気で考え直した方がいい時期に来ている気がした。
ローマンがイミグレーションまでベティを送り届けている間、おれとポールはベンチに座って話をした。久しぶりに二人きりになったというのに、ポールは笑いが止まらなくなっている。理由はもちろん、さきほどの名場面だ。
「まさかあそこまでやるなんて」とポール。「どういう展開になるのかハラハラしたけど、心配することなかったよ。ベティはきみたちの関係について、未来永劫、疑うことはないんじゃないかな」
「心配することなかったって? あれが心配の対象じゃないとしたら、きみはおれの死体を発見しても“心配することなかった”って言いそうだな」
「だってローマンは本当に信頼できる奴なんだ。きみがどう思おうと、それは真実だよ」
「どうやらきみの真実とおれの真実は違うらしい。あいつはおれをレイプするって脅したんだぜ? どんなに怖かったかわかるか?」
「きみは押し倒されたら抵抗できなそうだからなあ。その点だけは心配だよ」
「ちょっと待てよ、なんでそうなる? きみはおれの弱さを懸念してるってのか? ローマンの性的暴力でなく? だいたい、おれが他の男とキスしたってのに、ずいぶん冷静じゃないか。いつもだったら大騒ぎするシチュエーションだろうに、よく平気でいられるな」
「だから言ったろ。ぼくはローマンを信用してる。それにさっきの愛の告白があったから」
「告白?」
「“ポール以外の男は目に入らない”って」
「ああ、それか。もちろんだ。他の男っていったい何だよ? ローマンはそうとう美形だけど、おれは決して惹かれたりはしないし、だいたい……」
「ね、もういいよ。ぼくはきみのことも信じてる。ローマンになびくことはあり得ないことも知ってる。だから今回の件は、ぼくにとってはそう大したことじゃなかったんだよ」
おれにとっては大したことだ。本当に馬鹿げた日々だった。
「でもまさか、あんなキスをするなんてね……」
またも思い出し笑いをするポール。こっちは涙目だったというのに、彼にとっては笑い話でしかないようだ。でもそれでいい。泣くのはおれだけで充分。ポールにはいつも笑っていてほしい。(欲を言えばおれが泣いていないときに笑っていて欲しいが)
笑うポールの顎に手を置き、「口直しに……」と唇を重ねる。久しぶりの恋人とのキス。心から愛を送り合う本物のキスだ。一週間前までは当たり前のようにしていた行為だが、ここへきてグッと価値が上がった感じがする。
唇を離すと、ポールは「これってローマンと間接的にキスしたことになるのかな?」と聞いてきた。
「間接ぐらいいいだろ。おれなんか直接だぞ」
不機嫌にそう言うと、彼はまた笑い出す。
「ねえ、でもさ、きみはローマンを苦手としているみたいだけど、彼といるのは、きみにとっていい影響もあると思うんだけど」
「おれにいい影響だって!? いったい何を言ってるんだ!?」
「だって、彼といるときのディーンはとても正直だし」
「きみといるときだって正直なディーンだ」
「うーん、そういうことじゃなくて……」ポールはわずか考え、「きみは基本的に、思ってることを話すのが得意じゃないよね」と言う。「無口じゃあないんだけど、あまり自分の気持ちを口にしない。否定的だったり、ネガティブなことは特にだ。でもローマンといると、そんなことはお構いなしにポンポン何でも言ってるから」
「別に言いたくて言ってるんじゃない。あいつといて黙っててみろ。おれのことを勝手に解釈されたり、いいように利用されるのがオチだからな。こっちは仕方なく、いろいろ言わざるを得ないんだ」
おれの解説に、ポールは無言でニンマリとした。可愛い顔だが、若干、小憎らしくもある。
「それにしても、ローマンのママがきみのママじゃなくてよかったよ。あんな姑がいたら、一ヶ月で頭がおかしくなりそうだ」
「ぼくのママはもっと強烈だ。あんなもんじゃ済まないよ」
「……嘘だろ?」
不安がるおれに、ポールは再度、無言でニンマリとするのみ。『今のはいったいどういう意味なのか』と聞くのが怖い。せっかく不幸が去ったと思ったのに、またしても遠くに暗雲を見た思いだ。
ベティを送り届け、ローマンが戻ってきた。
「やれやれだわ〜! ほんっとに疲れたこと!」大きく伸びをし、「これにて借りは返してもらったわ。ご協力ありがと」と、おれに言う。
「冗談じゃない、ぜんぜん割にあわないぞ。利子が多すぎだ」
「じゃあ今度はそっちの貸しにしてもいいけど」
「いいや、もういい。きみと何かを貸し借りするのは、たとえ空気でも御免だね。あんなキスをするなんて、どう考えたってやりすぎだ」
「あんたがあたしをびっくりさせるからお返ししたまでです。ポールとのことをカムアウトするなんて、あたしのシナリオになかったわ」
「でもいいオチだったろ?」
「そうね。嘘がバレずに、本来の道筋に戻った。ママはあたしのこと、誇らしいって言ってくれたしね」
おれの隣にすとんと腰を下ろし、「ねえ、ディーン。今回の件はあたしが悪かったわ」と彼は言った。「あなたの言う通り。嘘は疲れるし、割に合わないものよ。色じかけまで用いて、あたしに真剣に言ってくれたこと、感謝してるのよ」
「それがわかっていながら、どうして間違いを認めなかったんだ?」
「だって認めてしまったら、あなたに協力してもらえなくなるじゃない」
なんたる策士。ものの善悪や人情よりも、遂行すべき目的を優先するとは恐るべき男だ。こいつを敵に回すのはうまくない。いや、もし彼に“人情”なんてものがあったとしても、敵に回すべきじゃない。朝っぱらから股ぐらを掴まれて得た教訓だ。
「まっ、いろいろあったけれど、結果よければすべてよしよ。キスはできたし、裸も見れたし。けっこう楽しかったわ。ポール、ありがとうね。あんたの彼氏、これにてお返しするわ」
「また必要があったらいつでも言って」
「おいっ!」
「冗談だよ。もう絶対に誰にもキスなんてさせないから。他の男にも、もちろん女にも」
その言葉を証明するように、ポールはおれの唇にキスをした。口づけを交わすおれの耳に、ローマンのあきれたような声が届く。
「はいはい、お邪魔虫は退散しますわ。あなた方はキスでもなんでも、ゆっくりしてちょうだい」
長すぎるラブシーンを終えると、そこにローマンの姿はなかった。悪魔は愛のビームに鋳溶かされたらしい。いつの時代であっても、恋人同士は最強の戦士だ。
「そういえば、“色じかけ”って何?」とポールが聞く。
「なに、おれがいつも恋人にやってることさ。目を見て、手にキスする。きみにはもう効果がないかな」
「そんなことないと思うな……ちょっとやってみて」
乞われるまま、おれはポールの手を取り、瞳を見つめてキスをした。すると彼は眉間にシワを作り、「そんなことをローマンにしたの?」と、一気に不機嫌になった。
「どうしてそこで怒るんだ? おれはローマンからもっとひどいセクハラを受けたんだぞ?」
「ローマンがきみに仕掛けるのと、きみからローマンにやるのとじゃ意味が違う」
立ち上がり、足早で歩き去るポール。おれはその背に向かって、大声を出した。
「おい、待てよ! ポール! さっきのキスと同じのをローマンにしたと思うな! 今のはきみだからだ! ローマンにしたのよりも、ずっと“本気度”が高いんだぞ!」
彼は少しも歩みを止めない。聞こえているはずなのに、わざと無視してるんだ。
それがわかっていながら、おれはなぜか腹も立たず、ただポールの後ろ姿を穏やかな気持ちで眺めていた。
わざと無視され、置いてきぼりを食らってもいい。彼からだったら、無理難題をふっかけられ、異様なセクハラをしかけれられたとしても、へっちゃらだ。盲目になるのは、愛するがゆえ。間違っているとわかっていても、ついつい愚かになってしまう。
後悔するわよとベティは言ったが、この選択に間違いはない。おれはポールを愛しているし、ポールもおれを愛してくれていてる。おれたちの間には何の問題もない。当面、ローマンが登場しなければの話だが……。
END
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