透明な鏡
夕暮れの空が、オレンジから紫へと溶けていく。
私、橋本美咲は、駅前の見知らぬ美容院の前で立ち止まった。ガラス越しに見える店内は清潔で、白い照明が神秘的な雰囲気を醸し出している。
ふと、ガラスに映った自分の姿を見る。
肩まで伸びた黒髪。地味なベージュのブラウス。すっぴんに近い薄化粧。二十八歳の事務員。誰の記憶にも残らない、透明な存在。
五年前までは違った。美容学校に通い、美容師を目指していた。でも、才能のある同級生たちと自分を比べて、挫折した。特に加奈。彼女のカットは芸術的で、誰もが振り返るようなスタイルを作り出せた。
私は、彼女になれなかった。だから、諦めた。
「いらっしゃいませ」
気づけば、ドアを開けていた。
店内には客が一人もいない。カウンターに立つ美容師は、三十代半ばくらいの女性。短く刈り上げた髪に、鋭い目つき。でも、その目は優しさを湛えていた。
「カットとカラーをお願いできますか」
「もちろん。どんな風にされますか?」
私は、スマホに保存していた写真を見せた。某女優の、明るい茶髪のボブスタイル。
「こんな感じに」
美容師は写真を見て、それから私の顔を見た。長い沈黙。
「分かりました。やりましょう」
椅子に座る。黒髪が、鋏で切られていく。シャリ、シャリという音。
カラー剤を塗られ、待つ時間。鏡に映る自分は、まるで別人のように見える。
これで変われる。透明な私から、誰かに見てもらえる私へ。
カラーを流し、ブローをしてもらう。
鏡に映ったのは、確かに「誰か」だった。でも、その誰かは、私ではなかった。
「どうですか?」
美容師が聞く。
「あ、はい。素敵です」
嘘だった。なぜか、心が空っぽになった気がした。
美容師はじっと私を見ていた。
「本当は、こうしたかったわけじゃないでしょう」
「え?」
「誰かに似せようとしてますね。この写真の人に」
心臓がドキリとした。
「違います。私が、こうしたくて」
「本当に? 鏡を見てください。あなたの目、全然嬉しそうじゃない」
美容師の目つきが、何かを見抜いている。
「私、昔、美容師だったんです」
「今は違うんですか?」
「辞めました。才能がなかったから」
言葉が勝手に溢れた。
「同級生に、すごく上手い子がいて。私、どんなに頑張っても、彼女みたいになれなくて。比べるたびに、惨めになって」
美容師は静かに頷いた。
「だから、もう美容とか、綺麗になることとか、全部諦めたんです。でも、今日、ふと思ったんです。変わりたいって」
「誰かになりたかった?」
「……はい」
美容師は、小さくため息をついた。
「あなた、本当に綺麗な黒髪だったのに」
「え?」
「見せてもらえますか。あなたが美容学校時代に作ったスタイル」
スマホの写真フォルダ。ずっと開かないようにしていた場所。
「過去のことは、もう」
「いいから」
美容師の声に、不思議な力があった。
震える手で、五年前のフォルダを開く。
そこには、私が学校で練習したカットモデルの写真があった。黒髪のショートヘア。シンプルだけど、丁寧に整えられた髪。
「これ、あなたが切ったの?」
「はい。でも、先生からは『無難すぎる』って言われました。加奈のカットは『革新的』だって褒められたのに」
美容師は写真をじっと見ていた。
「これ、すごくいいよ」
「え?」
「見て。この毛流れ。この人の髪質を完璧に理解して、その人が一番扱いやすい形にしてる。派手じゃないけど、清潔で、安心感がある」
「でも、革新的じゃない」
「革新的である必要はないの。この人は、このスタイルで、毎日鏡を見るたびに嬉しくなれる。それが一番大事なことでしょう」
涙が溢れそうになった。
「私、加奈と比べて、自分には才能がないって決めつけてた」
「比べる相手、間違えてたんだよ」
美容師は言った。
「他人と比べても意味がない。大事なのは、昨日の自分より、今日の自分が少しでも成長してるかどうか」
その言葉が、胸に刺さった。
「もう一度、やり直せますか?」
美容師が微笑んだ。
「もちろん」
「でも、今のカラー、落とさないとダメですよね」
「うん。もう一回、ブリーチして、黒に戻す。髪、かなり傷むよ」
「いいです。やってください」
数時間かけて、カラーを抜き、トリートメントをして、黒に戻していく。
髪は確かに傷んだ。でも、不思議と、心は軽くなった。
「他人に似せようとした自分」を、手放す。
最後に、美容師が鋏を手に取った。
「あなたの髪質、あなたの顔立ち、あなたの雰囲気。それに一番合うスタイルを作るね」
鋏が動く。
私は目を閉じた。もう、鏡を見なくていい。誰かと比べなくていい。
仕上がったスタイルは、黒髪のショートボブだった。
シンプル。でも、透明じゃない。
鏡の中の私は、確かに「私」だった。
「ありがとうございます」
「これから、どうするの?」
「分かりません。でも、もう一度、鋏を握ってみようかなって」
美容師が名刺を差し出した。
「うちで、アシスタントやってみる? 給料は安いけど」
目を見張った。
「いいんですか?」
「あなたの手つき、見てたよ。さっき、自分の髪を触ってた時。美容師の手だった」
帰り道、夕暮れはすっかり夜に変わっていた。
駅のガラスに映る自分を見る。黒髪。すっきりとしたショートボブ。
誰かに似せようとした時より、ずっと自分らしい。
美容院の名刺を握りしめる。「HAIR SALON 透明な鏡」
変な名前だと思って聞いたら、美容師はこう言った。
「鏡は、本当のあなたを映すもの。他人を映すものじゃない」
そうか。私はずっと、鏡に「加奈」を探していたんだ。だから、自分が見えなかった。
スマホに、加奈からのSNSの投稿が流れてくる。
彼女は今、有名サロンでトップスタイリストとして活躍している。フォロワーは数万人。きらびやかな世界。
以前なら、それを見て落ち込んでいた。
でも、今日は違う。
「すごいな」と素直に思える。そして、それは彼女の道で、私の道ではない。
私には、私の道がある。
昨日の私は、透明だった。
今日の私は、少し見えるようになった。
明日の私は、もっとはっきりするだろう。
誰かと比べる必要はない。昨日の自分より、一歩でも前に進めばいい。
帰宅して、洗面所の鏡を見る。
黒髪が、清潔で、神秘的に見える。初めて、自分が「綺麗」だと思えた。
それは、誰かの基準ではなく、私自身の基準で。
引き出しの奥にしまっていた、美容学校時代の鋏を取り出す。
刃は少し錆びているけど、磨けば使える。
週末、あの美容院に行こう。アシスタントとして、もう一度始めよう。
五年前の私は、挫折した。
でも、今日の私は、立ち上がった。
それだけで、私は成長している。
窓の外、夜空に星が瞬いている。
明日の夕暮れには、私はどんな自分になっているだろう。
楽しみだ。
そう思えることが、何よりも嬉しかった。
過去の私は、他人の光を羨んでいた。
今の私は、自分の光を探し始めた。
それは小さな光かもしれない。でも、確かに私のものだ。
鏡に映る自分に、微笑みかける。
「おかえり」
ずっと探していた、本当の自分に。
透明だった私は、今、ここにいる。
黒髪を撫でる。この髪は、私そのものだ。
比べるべきは、他人じゃない。
昨日の自分だ。
そして、昨日の私より、今日の私は、ずっと強い。
その事実が、何よりも誇らしかった。




