5 拒絶の影と共生の光①
その週末、マルコは駅前のスーパーへ出かけた。米や缶詰、調味料を買い足し、母のことを思い出しながらマンゴージュースを一つカゴに入れる。買い物袋の重みは、確かな生活の実感でもあった。
だが、駅からアパートへ戻る道で、その安堵は一瞬にして崩れ去った。
前方から二人の制服警察官が歩いてくるのが見えた。
その瞬間、視界の先の制服が、あの夜ダバオで自分を追い詰めた影と重なった
「……まただ」
あの夜の記憶が脳裏に閃き、身体が勝手に反応する。
「止まれ!」
鋭い声が夜気を切り裂いた。マルコにはその意味は分からない。だが、警察官の硬い顔つきと荒々しい声色に、恐怖だけが伝わる。
マルコは振り返ることなく走り出した。
追いかけてくる靴音。そして腕をつかまれた瞬間、マルコは必死に叫んだ。
「Hindi ako masama! Wala akong ginagawang masama!」
(俺は悪くない! 何もしてない!)
だが、耳にした警察官には意味が伝わらない。
ただ激しく叫びながら体をよじらせる男の姿は、抵抗そのものにしか見えなかった。
「やめろ! 暴れるな!」
近くの交番から別の警察官が駆け寄り、数人がかりで地面に押さえ込む。買い物袋からマンゴージュースが転がり出たのが見えた。
アスファルトの冷たさと人々の視線が、マルコの全身を締めつける。
必死に母語で「やめて」「助けて」と繰り返しても、誰にも通じない。
ただ警官の手の力は強まるばかりだった。
夕方で人の通りも多い時間ということもあり、その捕物の一部始終をスマートフォンで撮影する人の姿もあった。
「また外国人だ」「何したんだ?」という声も聞こえている。
やがて応援の警察官が数人駆けつけ、完全に取り囲まれた。
マルコは息を荒げ、ただ「違う、違う」と繰り返すしかなかった。
厚木東警察署の小さな取調室に通されたマルコは、椅子に座らされると両手を膝に置き、震えを隠すようにうつむいた。
生活安全課の担当者は無表情で記録用紙を広げる。
「警察官を見て逃走した、取り押さえられる際に抵抗した……その事実で間違いないですね」
マルコは必死に首を振った。
「怖くて……ただ走ってしまったんです。悪いことはしていません」
英語と少ししかわからない日本語を混ぜながらどうにか訴える。
警察官はため息をつき、メモを取るだけで深くは追及しなかった。
その頃、千代田重工業厚木工場の篠原工場長から連絡を受け、担当の永田と安藤が急いで署へ向かっていた。
警察署の玄関をくぐる二人の顔は険しい。
受付で事情を告げると、ほどなくして取調室に案内された。
ドアが開き、二人の姿を見た瞬間、マルコははじかれたように立ち上がった。
「ナガタさん、社長……!」
声が震え、今にも泣き出しそうな表情で続ける。
「すみません……でも、本当に、何も悪いことはしていません」
永田は片手を上げて落ち着けと合図し、警察官に向き直った。
「彼の勤務先は千代田重工業厚木工場で、在留カードもこちらで確認済みです。会社としても本人の素行に問題はありません」
担当警察官は頷き、淡々と説明した。
「逃走や抵抗の事実はありましたが、今回は注意にとどめます。今後こうしたことがあれば厳しく対処しますので、会社でもしっかり指導をお願いします」
安藤は深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。今後は必ず私どもで責任を持ちます」
釈放の手続きが済み、三人が署の玄関を出たときには、外の空気はすっかり夜の冷たさを帯びていた。
マルコは肩を落とし、俯いたまま靴先を見つめていた。
「……すみません。もう二度としません」
声は小さく、風に消えそうだった。
永田が横に立ち、そっと背中を支える。
安藤は横目でマルコを見ながら、大きくため息をついた。
「行こう。ここで立ち止まっていても仕方ない」
三人はゆっくりと駐車場に向かって歩き出した。
彼の心にはまだ暗い不安を抱え込んでいたが、その中で確かに、マルコには自分を支える人々の存在があることを実感していた。




