表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

5 拒絶の影と共生の光①

 その週末、マルコは駅前のスーパーへ出かけた。米や缶詰、調味料を買い足し、母のことを思い出しながらマンゴージュースを一つカゴに入れる。買い物袋の重みは、確かな生活の実感でもあった。

 だが、駅からアパートへ戻る道で、その安堵は一瞬にして崩れ去った。

 前方から二人の制服警察官が歩いてくるのが見えた。

 その瞬間、視界の先の制服が、あの夜ダバオで自分を追い詰めた影と重なった

「……まただ」

 あの夜の記憶が脳裏に閃き、身体が勝手に反応する。

「止まれ!」

 鋭い声が夜気を切り裂いた。マルコにはその意味は分からない。だが、警察官の硬い顔つきと荒々しい声色に、恐怖だけが伝わる。

 マルコは振り返ることなく走り出した。

 追いかけてくる靴音。そして腕をつかまれた瞬間、マルコは必死に叫んだ。

「Hindi ako masama! Wala akong ginagawang masama!」

(俺は悪くない! 何もしてない!)

 だが、耳にした警察官には意味が伝わらない。

 ただ激しく叫びながら体をよじらせる男の姿は、抵抗そのものにしか見えなかった。

「やめろ! 暴れるな!」

 近くの交番から別の警察官が駆け寄り、数人がかりで地面に押さえ込む。買い物袋からマンゴージュースが転がり出たのが見えた。

 アスファルトの冷たさと人々の視線が、マルコの全身を締めつける。

 必死に母語で「やめて」「助けて」と繰り返しても、誰にも通じない。

 ただ警官の手の力は強まるばかりだった。

 夕方で人の通りも多い時間ということもあり、その捕物の一部始終をスマートフォンで撮影する人の姿もあった。

「また外国人だ」「何したんだ?」という声も聞こえている。

 やがて応援の警察官が数人駆けつけ、完全に取り囲まれた。

 マルコは息を荒げ、ただ「違う、違う」と繰り返すしかなかった。


 厚木東警察署の小さな取調室に通されたマルコは、椅子に座らされると両手を膝に置き、震えを隠すようにうつむいた。

 生活安全課の担当者は無表情で記録用紙を広げる。

「警察官を見て逃走した、取り押さえられる際に抵抗した……その事実で間違いないですね」

 マルコは必死に首を振った。

「怖くて……ただ走ってしまったんです。悪いことはしていません」

 英語と少ししかわからない日本語を混ぜながらどうにか訴える。

 警察官はため息をつき、メモを取るだけで深くは追及しなかった。

 その頃、千代田重工業厚木工場の篠原工場長から連絡を受け、担当の永田と安藤が急いで署へ向かっていた。

 警察署の玄関をくぐる二人の顔は険しい。

 受付で事情を告げると、ほどなくして取調室に案内された。

 ドアが開き、二人の姿を見た瞬間、マルコははじかれたように立ち上がった。

「ナガタさん、社長……!」

 声が震え、今にも泣き出しそうな表情で続ける。

「すみません……でも、本当に、何も悪いことはしていません」

 永田は片手を上げて落ち着けと合図し、警察官に向き直った。

「彼の勤務先は千代田重工業厚木工場で、在留カードもこちらで確認済みです。会社としても本人の素行に問題はありません」

 担当警察官は頷き、淡々と説明した。

「逃走や抵抗の事実はありましたが、今回は注意にとどめます。今後こうしたことがあれば厳しく対処しますので、会社でもしっかり指導をお願いします」

 安藤は深く頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました。今後は必ず私どもで責任を持ちます」

 釈放の手続きが済み、三人が署の玄関を出たときには、外の空気はすっかり夜の冷たさを帯びていた。

 マルコは肩を落とし、俯いたまま靴先を見つめていた。

「……すみません。もう二度としません」

 声は小さく、風に消えそうだった。

 永田が横に立ち、そっと背中を支える。

 安藤は横目でマルコを見ながら、大きくため息をついた。

「行こう。ここで立ち止まっていても仕方ない」

 三人はゆっくりと駐車場に向かって歩き出した。

 彼の心にはまだ暗い不安を抱え込んでいたが、その中で確かに、マルコには自分を支える人々の存在があることを実感していた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ