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4 就労ビザ②

 午後三時を回ったころ、千里中央のカフェでマルコと落ち合う。ほどなく、彼は四十代後半ほどの女性と一緒に現れた。

「マルコの父の友人の妹、ロサです」

 女性は穏やかに名乗った。血のつながりはないはずなのに、肩を並べる様子は実の家族のようで、正樹はフィリピン人の情の深さをあらためて思う。

「行政書士の今井です。マルコさんの在留資格変更が認められました。これが新しい在留カードです」

 差し出されたプラスチックカードを両手で受け取った瞬間、冷たさが掌に吸い付くように広がった。

 けれど次第に、その冷たさは未来の温もりに変わっていく。

 カードに刻まれた自分の名前を見つめながら、胸の奥から熱いものが込み上げ、涙が今にもあふれそうになる。

「……ありがとうございます。本当に……」

 声が震え、言葉の先が喉につかえて出てこない。生まれ変わるとは、こういうことなのかもしれないと、マルコは初めて実感していた。

 胸の奥に、温かさと痛みが同時に広がる。これで堂々と働ける。けれど、母と故郷から長く離れる未来を思うと、足元だけが少し浮いているようでもあった。

 正樹は表情を引き締め、声を落とした。

「マルコさん、一つお話ししておきたいことがあります」

 ロサがうなずき、身を乗り出す。

「あなたはフィリピン側の手続きを経ずに観光客として日本に来ました。本来であれば、東京のフィリピン移住労働者事務所(MWO)で就労のための申請を済ませてから働くのが筋でした。ただ、ここで一番の問題は……日本の入管がそれをどう見るか、という点です」

 言葉を区切って、正樹は続ける。

「難民認定申請をしていた方が、急に『就労のために必要だから』という前提でフィリピン側の手続きを始めると、『最初から就労目的だったのではないか』と日本側に受け取られかねない。申請の一貫性が崩れてしまうのは次の更新に向けて、ちょっと避けたいリスクです」

「でもそれで、マルコに不利なことは起きませんか?」

 ロサが心配そうに問う。

「日本で働くうえでは問題ありません。すでに在留資格は『技術・人文知識・国際業務』に変わりましたから、現在の就労は適法です。安藤社長とも相談し、当面はこのまま勤務を続けてもらう、ということで一致しています。もしどうしても帰国が必要になった場合は、必ず社長に相談してください。ちゃんと正しい方法で準備してくれます」

 正樹は、少し柔らかい口調に戻して言い添えた。

「……ですから、しばらくは日本で腰を据えるつもりで。できれば数年は帰国を控えてほしいんです」 

 マルコは新しいカードを胸に当て、静かにうなずいた。グラスの氷が小さく鳴る。

 ……ここで生きていける。安堵が確かに胸を満たす。そのすぐ隣で、遠い家に灯る明かりを思い、帰国できないことの不安がじわりと形になってくる。

 それでも、彼は目を上げた。安堵と戸惑いが交差するその場所で、「生き抜く」という言葉だけを強く握りしめながら。


 新しい在留カードを受け取ってから数週間後、マルコは神奈川県厚木市に引っ越した。

 安藤社長の紹介で見つかったのは、工場まで自転車で通える距離にあるワンルームのアパート。築年数はかなり経っていたが、六畳一間に小さな流し台とユニットバスが付いており、マルコにとっては十分だった。

 窓を開けると、遠くを走る電車の音がかすかに届く。夜になると工場帰りの人々の足音が階段に響き、生活のリズムがアパート全体に流れているように感じられる。

 ……ここが自分の新しい居場所だ。そう思うと胸に温かさが広がる一方で、母と離れて暮らす寂しさが、静かに影を落とした。

 それでもマルコは、机の上に置いた新しい在留カードを見つめながら、「生き抜いていくしかない」と心の中で繰り返した。

 厚木に移ってから一か月。工場での仕事にも少しずつ慣れ、月末には初めての給料が銀行口座に振り込まれた。通帳に並んだ数字を見たとき、マルコは胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。……これでようやく、自分の力で生活を築いていける。


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