1 マルコの物語②
振り向くと、一人の女性が立っていた。四十代半ば、少し疲れた表情に、どこか母を思わせる温かさがにじむ。
「私はロサ。あなたのお父さんの友人の妹よ。よく来たね」
母語での挨拶に、張り詰めていた心がわずかにほどけた。彼女はそっとマルコの肩に手を置いた。
「大丈夫。しばらくは私の家にいなさい。ご飯もあるから、心配しなくていい」
その一言に、マルコは母を思い出し、危うく涙が込み上げそうになる。
けれど同時に理解した。ここは異国。助けは限られている。でもいつまでもロサに頼ることはできない。
やがてマルコの胸に芽生えたのは、「自分自身で未来を掴まなければ」という焦燥だった。
ロサの家は、大阪郊外の静かな住宅街にあった。玄関をくぐると、畳の匂いと味噌汁の香りが混ざり合い、マルコには新鮮すぎる匂いが鼻をくすぐった。
「ここがあなたの部屋。しばらくは落ち着いて」
ロサは布団を用意し、笑みを浮かべた。母の手つきを思わせる優しさに、マルコの胸の奥が熱くなる。
彼女の夫は無口な日本人で、帰宅すると軽く会釈だけして居間に消えていった。言葉は少ないが、マルコに敵意は見せない。ただ、遠巻きに観察しているようでもあった。
二人の子ども——小学生の娘と、まだ幼い息子——は最初こそ物珍しそうにマルコを眺めていたが、すぐに慣れて笑いかけてきた。
「タガログ語で話してみて!」と娘にせがまれ、マルコが一言発すると、子どもたちは声を上げて笑った。
夜、食卓に並ぶのは日本の家庭料理に、時折ロサのアドボやシニガンが混じる。箸の使い方に苦戦するマルコを見て、ロサが「ゆっくりでいいの」と声をかける。夫は新聞を読みながらも、ちらりとその様子を見ていた。
静かな数日。だが、マルコの心は決して安らぐことはなかった。窓の外にバイクの音がするたび、ダバオの夜が蘇る。
「ここにずっとは居られないよ」
ある晩、ロサは食器を洗いながら小さく言った。
「でも、今は少し休んで。あなたのお母さんもそれを願ってるはずだから」
その言葉に、マルコは胸の奥で静かにうなずいた。
大阪出入国在留管理局の建物は、とても大きく、マルコには威圧的に見えた。
朝の空気は冷たく、玄関前に並ぶ人々の表情も硬い。外国語が入り混じるざわめきに、マルコの喉は渇いた。
「ここで番号札を取って、呼ばれるのを待つのよ」
隣でロサが囁いた。彼女の声だけが、唯一の支えだった。
待合室は無機質で、テレビに映る女性アナウンサーの明るい声と軽快な音楽がとても場違いなものに思える。
やがて番号が呼ばれ、狭い面接室に通された。
机の向こうに座る職員は日本人男性で、抑揚のない声を発した。
「今日はどうしましたか」
ロサが通訳し、マルコは深呼吸して答えた。
「……フィリピンには戻れません。命の危険があります」
職員は眉ひとつ動かさず、書類に何かを書き込む。
「あなたは観光で入国していますね。どうして帰れないのですか」
「警察に狙われています。友人は殺されました。私も……」
声が震え、言葉が途切れる。ロサが横で静かにうなずいた。
全く感情を見せないまま職員は一枚の用紙を差し出した。
「これが難民認定申請書です。必要事項を記入してください」
日本語と英語の書かれた書類に、マルコはロサの手引きで名前を書き入れた。
その瞬間、自分が「観光客」から「難民」へと変わったことを、はっきりと感じた。
背筋に冷たいものが走ったが、同時に小さな希望の火が灯ったようでもあった。
申請から数週間、マルコはロサの家で静かに暮らしていた。
子どもたちの笑い声が救いになったが、夜になると窓の外の闇が重くのしかかってきた。




