1 マルコの物語①
その日の夜もかなりふけたころ、玄関を荒々しく叩く音がした。
マルコの母が「誰なの?」と声をかけると、外から「ダニエルだ」と答えが返ってきた。戸を開けると、汗で髪が額にはりつき、息を荒げたマルコの友人が立っていた。
「こんな時間にどうしたの?」
問いかけを無視して、ダニエルはリビングを横切り、まっすぐマルコの部屋へ入っていった。
「……ダニエル?」
幼いころからの友の姿が、今は別人のように怯えて見えた。
「ちょっと……ここにいさせてくれ」
声は小さく震え、床に腰を下ろすとしばらく黙り込んだ。やがてポーチを取り出しかけたが、何かを思い直すように引っ込める。
「もし俺に何かあったら……」
言いかけたとき、外から複数の男の怒鳴り声や荒い笑い声が近づいてきた。数台のバイクのエンジン音も混じり、夜の静けさを破る。
ダニエルは顔を蒼白にし、「やっぱり、いい」と呟くと、裏口に駆け出し、闇に消えていった。
母とマルコは声も出せず、ただその音の消えた方向を見つめていた。
しばらくすると、ダニエルは麻薬の密売に関与して警官に射殺されたという噂が広まった。
そして次に玄関を叩いたのは、制服を着た男たちだった。
「お前、あいつから何か受け取ってるだろ。出せ」
「何も預かってない」
答えるマルコの前で、男たちは靴のまま上がり込み、机をひっくり返し、棚を叩き壊した。
母が制止しようとすると、警官のひとりが冷たく言い放つ。
「思い出したらすぐに出せ。でなきゃ……お前も同じ目に遭う」
荒らされた部屋で、母は蒼白になった顔を隠すように俯いた。
「マルコ……もうここにいたら危ないよ」
その声は震えていたが、迷いはなかった。
母を守るために、自分が消えるしかない……そう悟った瞬間、マルコの中で決意が固まった。
数日後、マルコは亡くなった父の古い友人に呼び出された。
「お前を狙ってるのは警官だけじゃない。裏の連中も嗅ぎまわってるぞ。このままこの国にいてはいけない」
その男は低い声で続けた。
「……観光目的で出るなら誰にも止められることはない。日本へ行け。日本では俺の妹のロサを頼るんだ」
マルコは一度首を振った。母を置いていくのは耐えがたかった。
だが男は煙草をもみ消しながら言った。
「ここに残れば、お前も母親も殺される。出て行くしかねえ」
それからの数週間、マルコは友人宅や親戚の家を転々とした。夜はバイクの音に耳を塞ぎ、昼は裏通りを歩くときすら背後を気にした。
やがて、仲介者の手を借りてパスポートを取り、観光ビザを手に入れた。マルコは一枚のシールが貼付けられた小さな冊子に、自分の未来を押し込めるしかなかった。
空港に向かう朝、母は黙って彼の手に小さな十字架を握らせた。
「絶対に生きるのよ」
その声を背に受けながらも、マルコは振り返らなかった。
マニラ空港の出国ゲート。制服姿の係官の視線が、背中に焼き付く。パスポートを差し出す手が震え、心臓の鼓動が耳を打った。数秒の沈黙ののち、スタンプが乾いた音を立てた。
飛行機が離陸し、長いフライトが始まった。窓の外には青い海と白い雲が広がっている。灯りが落ちた機内で隣の乗客が眠る中、マルコだけは目を閉じられなかった。追ってくる声が耳の奥にまだ響いていた。
やがて、機体が降下を始めた。眼下に広がるのは、見たこともない無数の光。
「当機は間もなく関西国際空港に着陸いたします」というアナウンスが響く。
マルコは拳を握りしめた。ようやく生きて辿り着いたのだ。しかし同時に、この先が全く見えないことも痛いほど分かっていた。
機体が滑走路に触れた瞬間、彼は小さく息を吐いた。
……ダバオの闇から、ようやく日本へ。
入国審査を抜け、到着ロビーに足を踏み入れた瞬間、マルコは足を止めた。
目の前に広がる人の波。飛び交う日本語はどれも聞き慣れず、胸の鼓動が早まる。
「マルコ?」
マルコの名前を呼ぶ声の響きが耳に届いた。




