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水面の向こう側で彼女は聖女になった

作者: 葉月くらら

 午前中から曇っていた空からは、下校時刻頃になるとついに雨が降り出していた。

 三橋雨音(みはしあまね)は窓際の席で一人、カバンの中を確かめて嘆息した。


(傘、忘れちゃった)


 今朝、出がけに母から口酸っぱく雨が降るから折り畳み傘を持っていけと言われていたのを今更思い出す。

 そのときは、寝癖が直らなくてそれどころではなく、聞き流してしまっていた。

 授業が終わったばかりの教室にはまだたくさんの生徒たちが残っていた。一緒に部活に行こうと待ち合わせている人達。帰宅の準備をしている人達。ただ意味もなく集まって無駄話をしている人達。放課後一緒に遊びに行こうとしている人達……。

 その中で雨音はどこにも混じることなくさっさと教室を出た。

 高校生になって二カ月と少し。季節は梅雨に入ろうとしていた。

 けれど雨音はまだ学校になじめずにいるし、それでいいと本人は思っていた。



 雨音は放課後の図書室が好きだ。

 窓際の、あまり目立たない本棚と本棚の間にある席を陣取ってカバーをかけた本を取り出した。皆、勉強や読書に集中しているので、誰もこちらを見ないし、静かで集中できる。

 読んでいるのは最近発売されたライトノベルだった。自宅でこんなものを読んでいると母が良い顔をしないのだ。だから放課後の図書室で読書をするのが雨音の日課だった。

 雨音は幼い頃から空想好きの少女だった。そして恥ずかしがり屋の引っ込み思案で友達は少なかった。雨音は友達よりも一人でアニメを見たり、本を読んだり、空想の世界に耽るのが好きな子供だった。

 そんな雨音を両親は心配していた。

 小学四年のあるとき、男子生徒に雨音はオタクだと揶揄われた。

 落ち込んで帰った雨音に母親は「家にこもってアニメや漫画ばかり見ていないで、みんなと遊びなさい」と言った。

 父親も「もっと明るい顔をしてすごせ」と言った。

 両親にとっては明るくて、元気で、友達のたくさんいる、そんな子供が良い子なのだ。雨音にそういう問題の無い良い子でいてほしいのだ。

 雨音は自分自身を否定された気がして、それから両親にはあまり話をしなくなった。

 そのうち学校でも浮くようになり、孤立するようになった。

 雨音は別にそれでよかった。

 どうせ誰も自分をわかってくれる人なんていないと思っていたから。


「今日は何読んでるの?」

「……七瀬さん」


 読んでいた手元にすっと影が落ちる。

 雨音の前に一人の少女が座っていた。

 少し染めた茶色の長い髪に整えられた眉。ぱっちりした瞳の美少女は、同じクラスの七瀬水月(ななせみつき)だった。


「えっと……精霊冒険物語の新刊」

「え、もう発売してたんだ。いいなあ私も早く読まなくちゃ。さすが雨音ちゃんは情報が早いなあ」

「そんなこと、ないけど」


 屈託なく話す水月に雨音はもごもごと答える。

 彼女は高校生になって知り合った、雨音の初めての友人だ。



「ごめんね、傘忘れちゃって」

「いいよいいよ。二人で相合傘して帰ればいいんだし」


 帰り道、方向が同じ水月は雨音を傘に入れてくれた。


「ところで今度の敵の行動が意外だったよね。それに聖女がまさかさあ」

「あ! そこ、私もびっくりした。聖女が裏切るなんて」


 話題は新刊の小説のことだ。

 時々、雨音は水月と帰宅するようになった。

 水月はクラスの人気者だ。

 すらりと背の高い美少女で、明るく優しく、誰とでも仲良くなれるので男女問わず友人が多い。

 もちろん雨音はそんな人気者が自分のことなんて、認識すらしていないと思っていた。けれど5月のある日、いつものように図書室で読書をしているときに偶然会ったのだ。

 彼女はラノベを読むのが密かな趣味だった。

 それも異世界転生物が特に好きだったので、雨音はおすすめの本をいくつか紹介したのが縁で仲良くなったのだった。


「この前の『異世界で聖女が溺愛される』もすっごい良かったー。ねえ、あれに出てくる王子さまってちょっと愁くんに似てない?」

「愁くん……? あ、大川くんのこと? そ、そうかな」

「爽やかなんだけど、ちょっと毒があるところが似てるかなーって。私も異世界とか行ってみたいなあ」


 くふくふと水月が笑う。

 隣のクラスの大川愁(おおかわしゅう)は入学して間もないのに、イケメンだと噂になっていた。確か水月とは同じ放送委員会で仲が良いと聞いたことがある。

 雨音はあまり現実の男子に興味がないのでよくわからないが、社交的な水月は彼が気になるのだろう。

 雨音にはとてもできないが、水月は小説を読んでヒロインに自己投影をしているようだ。雨音は自分がヒロイン、だなどと考えると興ざめしてしまうので物語は物語として楽しんでいる。


(そのうち彼氏とかできたら、もう私とは一緒に帰ってくれないんだろうな)


 いいな、と少しだけひがむように思う。

 水月のように明るく元気で容姿にも恵まれていたら、雨音の人生だって違ったかもしれない。

 暗くて卑屈で引っ込み思案な冴えない自分と比べて、どうしても思ってしまう。

 水月のようになれたらよかったのに、と。


(それこそ、異世界に転生でもしないと無理か)


「わ」

「うわ、大丈夫?」

「う、うん。もう家も近いし。それじゃあ、ここからは走って帰るよ」


 ちょうど交差点のところで、雨音はうっかり水たまりを踏んでしまった。ゆらゆらと波紋の広がる水たまりに雨音と水月の姿が映っている。

 水月とはいつもこの交差点で別れていた。


(あれ?)


 ふと雨音は水たまりを見て瞬いた。

 雨音が踏んでしまった水たまりには波紋が広がっている。そのせいで水面に移る景色はぼやけて歪んでいるのに、妙に角度のせいなのか水月の姿だけがはっきり見えた。


「それじゃあ、また明日。風邪ひかないようにね!」

「う、うん。ありがとう。七瀬さんも気をつけてね」


 それは一瞬のことで、目をこすると水たまりの水面は落ち着いて、ただこちら側の景色を映していた。

 水月の言葉に慌てて雨音は頷いた。

 すると水月がむくれたような顔をした。


「……ねー、そろそろさ、名前で呼んでほしいな?」

「え? ……あの、また明日。水月ちゃん」

「うん、雨音ちゃん!」


 それじゃあね! と明るく手を振って水月が反対側へ走っていくのを見ながら、雨音は照れ臭い気持ちになった。

 友達なんてもうずっといなかったからだ。

 ……これは嬉しいのだろうか。

 ずっとひねくれていた心は、まだ素直にこの気持ちを整理しきれないでいた。

 けれどこれは、決して嫌な気持ちではないのだけはわかった。



「――七瀬水月さんが、昨夜、交通事故で亡くなりました」

(……え?)


 翌朝、雨音が登校すると教室がいつもとは違う異様な空気に包まれていた。暗い顔をした男子生徒。泣いている女子生徒達。何も知らないのか戸惑っている様子の生徒達。

 近くで事故があったらしいことは、雨音も朝のニュースで知っていた。誰かが亡くなったことも。

 でも、まさかそれが水月だとはまったく思わなかった。

 昨日の別れ際の水月の笑顔を思い出す。

 あんなに明るく元気できらきらとした少女がもうこの世にいないなんて、雨音にはとても現実とは思えなかった。

 けれど、いつまでたっても水月の席に彼女が座ることはなく、花瓶に生けられた白い花が飾られていた。



 今日も雨が降っている。

 雨音は図書館の窓際の席で、外を眺めていた。

 夏休みが過ぎてもまだ蒸し暑い、湿気の多い空気に鬱陶しさを感じながら、あの時から読み進められなくなった本をただ机に置いていた。

 事故から三カ月経っていた。

 最初は重苦しかった教室の空気も少しずつ平常に戻りつつあった。水月の席だった場所だけが、変わらず花の活けられた花瓶があるままで。

 雨音はまた一人に戻った。


「……あ、三橋さん。今帰り? また明日ね」

「うん、凪沢(なぎさわ)さんも」


 夏休み前から少し話すようになった、図書委員の凪沢に挨拶をして図書室を出る。彼女も目立たないタイプだった。水月と一緒にいるときは、存在すら気がつかなかった。

 雨の中、人通りの少ない帰り道を一人歩いていると、水月のことを思い出す。

 彼女は雨の日でも、そんなことを忘れさせてくれるくらい明るかった。どうしてそんな彼女がいなくなってしまったのだろう。

 彼女みたいに世の中を軽々と渡っていける存在が世界から消えて、どうして自分のような生きづらい人間がいつまでもここにいるのだろう。

 そのとき、ぴちゃんとつま先が水たまりを踏んでしまった。


「あ……」


 またやってしまった。

 母に濡れた靴をそのままにしないで、と怒られないようにしないと、と考えた時だった。

 ふとぼやけた水面に誰かが映った。


(え――?)


 覗き込んでいる、雨音とは違う長い髪。顔はよく見えないけれど、だれかがこちらに手を伸ばして。


「三橋さん?」

「……凪沢さん」

「どうしたの? 立ち止まって……」

「う、ううん。なんでもない。それより、凪沢さんも家、こっち方面なんだ」


 背後から聞こえてきた声にはじかれるように雨音は顔を上げた。

 不思議そうな顔をした凪沢が立っていた。

 今のは一体何だったのだろう。水月のことを考えすぎて、幻覚でも見たのだろうか。

 正直に言ってしまえば、きっと凪沢に不気味がられてしまうだろう。だから、雨音は誤魔化すしかなかった。


「凪沢さん、途中まで一緒に帰らない?」

「え、いいの? 三橋さん、いつも本読んでるから話してみたかったんだ」


 図書委員だけあって凪沢も本が好きなようだった。

 それから雨音は時々凪沢と一緒に帰るようになった。



「三橋さん、これ落ちたよ」

「……ありがとう、えっと、大川くん」


 長い残暑が過ぎて、ようやく涼しい風が吹き始めた頃、雨音は図書室の前で大川と初めて会話をした。雨音の持っていた本に挟んだしおりが落ちたのを拾ってくれたのだ。

 隣のクラスの人気者の名前は、話したことがなくても当然知っている。それに彼は水月と仲が良かったようだし。


「その本、もしかしてライトノベルってやつ? 七瀬も好きだったよな」

「知ってたんだ……」

「うん、三橋さんがおもしろいのを貸してくれるって言ってたからさ」


 懐かしさと寂しさを含んだ表情に、きっと友情だけではない感情があったことを、雨音はなんとなくだけれど感じ取った。

 水月は大川に雨音のことを話していたようだ。


「……俺も読んでみようかなあ。なんかおすすめある?」

「え? うーん……そうだなあ。じゃあハイファンとかかな……」

「はいふぁん?」

「ハイファンタジー。冒険ものとか」


 意外な言葉に雨音は驚いて、そして考える。さすがに水月が好んでいた女性向けの溺愛ものよりは、冒険ものがいいだろう。

 きっと彼も水月がいなくなったことで開いた心の穴を埋めたいのだ。

 それから時々、大川は雨音に本を借りたり、感想を言いに来たりするようになった。最初こそ困惑していた雨音だが、いつの間にかそんな時間を当たり前のように受け入れていた。

 水月にしろ大川にしろ、人気者というのは話が上手い、というか会話が上手いのだ。人付き合いが苦手な雨音が、自然と会話できてしまうのだから。



「雨音、またこんな漫画みたいなの読んでるの?」

「……別にいいでしょ」


 季節は過ぎて冬になった。

 凍えるような冷たい雨が降っている日曜日。

 うっかり雨音は居間に読んでいた本を置き忘れてしまった。凪沢からおすすめされたファンタジー恋愛物だ。

 さっさと本を手に取って部屋に戻ろうとしたが、母に呼び止められてしまった。


「せめて純文学とか、そんな子供っぽいものよりちゃんとしたものを読みなさいって言ってるのに」

「純文学も読んでるけど……でも、こっちもおもしろいし」

「いい加減子供じゃないんだから卒業しなさいと言ってるの。こんな気持ち悪い……。休日もずっと家にこもってばかりだし。お母さん、あなたの将来が心配なのよ」


 友達の少ない雨音は、休日は家で読書やアニメ鑑賞をしていることが多い。母はそれがおもしろくないのだ。

 自分の理想の娘じゃないからだ。

 思わずカチンと来てしまい、雨音はそのまま家を出た。


(……どうせ私は、お父さんやお母さんの思うような人間にはなれない)


 速足で雨音は道を行く。

 冷たい雨が顔に当たったけれど、気にしている余裕はなかった。

 わかっているのだ。父や母が言うような健全な人間になれば、きっと幸せになれることは。

 けれど生まれつきの性質として、それは無理なのだ。

 俯いたまま雨音はあてもなく歩いた。地面は濡れて、ところどころに大きな水たまりがある。

 大きな水たまりに足先をぴちゃんと着いた。

 波紋が生まれる。


(私だって、好きでこんな性格なわけじゃないのに。学校だって好きじゃないし、こんな世界で生きるのだって、本当は嫌なのに。誰も、わかってくれない――)


『――じゃあ、こっちに来る?』


 声が聞こえた。

 水たまりの中からだ。

 波紋の生まれた水たまりの中に人影が映る。

 それは雨音ではない。

 誰かが雨音に両手を伸ばしていた。



 ばしゃん! と水の跳ねる音がして、気がつくと雨音は水中にいた。ふわふわと身体は水の中で浮いているようなのに、不思議と呼吸はできた。

 そして、雨音の両手を掴んでいたのは水月だった。


「……え? どうして? なんで? 水月ちゃん……なの……?」

「そうだよ! 雨音ちゃん! 会いたかった!」


 あの半年前の雨の日、交差点で分かれた時と変わらない水月がそこにいた。ひとつだけ違うのは服装だった。


「……その恰好」


 水月は白いローブのようなドレスを着ていた。彼女自身の美しさもあって、まるで物語の中の聖女のようだった。


「……私、事故に遭って、気がついたら違う世界にいたの。私、聖女なんだって」

「うそ……」


 まさか、と雨音はあんぐりと口を開けた。

 本当にそんなことが起こるなんて、と。これは夢だろうか? けれど水月の手の感触と体温はどう考えても本物だった。

 きゅ、と水月が雨音の手を強く握る。


「雨音ちゃん、こっちの世界に来ない? 元の世界が嫌なんでしょ?」

「え……」


 ぎゅうう、と手の力が強くなる。


「でも……」


 現実から逃げたいと思っているのに、雨音はすぐに頷くことができなかった。

 家族のこと。凪沢や大川のこと。学校のことが頭をよぎる。

 すべてを捨てるのはとても恐ろしいことのような気がした。


「私……行けないよ」


 その瞬間、水月の手を握る力がまた強くなった。


「痛っ」

「ねえ、どうして? そっちで生きるの嫌なんでしょう? だったら私と変わってよ!」

「み、水月ちゃん……?」


 水月の形相が段々と険しいものへと変わっていく。

 得体の知れない恐ろしさに手をほどこうとしたが、強い力で掴まれていてほどけない。

 気がつくと、水月はあの日分かれた時と同じ制服姿になっていた。


「なんで? なんで私が死ななきゃならないの? みんな私を忘れていく。雨音ちゃんだって……新しい友達、それに愁くんと仲良くなってる! なんで!?」

「いやだ、離して!」

「聖女なんてなりたくない! 帰りたい! お願い帰してよお!」


 生ぬるい感触に、雨音は手元を見てヒッと喉の奥から悲鳴を漏らした。水月の全身から血が流れだしていたのだ。

 きっとそれは事故に遭った時の姿なのだろうとわかった。


「水月ちゃん……」

「雨音ちゃんは親とも仲悪いし、友達も少ないでしょう? 私の方が親とも仲いいし、友達だって多いし、悲しむ人も多いもん! だから変わってよ! 私の方が――……」

「そんな……」


 それは錯乱して、我を忘れたから出た言葉なのかもしれない。

 けれど、雨音はすっと心が冷たくなっていくのがわかった。

 遠く、水月の背後から声が聞こえた。


『聖女様がご乱心だ!』

『彼女を逃がすな! 聖女様を捧げなければ世界は救えない』


 そして雨音の後ろからも声が聞こえた。


『雨音! 雨音……! お願い、目を覚まして!』


「お母さん……」


 水月はもう血だらけで生前の面影すらない姿になっていた。

 雨音は渾身の力を込めて彼女の手を振り払い、その体を突き飛ばした。


「な……なん、で……」

「ごめん、水月ちゃん。私、そっちには行けない」


 茫然とする彼女を背後から伸びてきた光の触手のようなものが拘束する。悲鳴を上げる水月はそのまま消えていった。



「――雨音! お母さんがわかる?」

「……私」


 長い夢から覚めた気分だった。

 気がつくと、雨音は病室にいた。

 見慣れない天井と、たくさんの管に繋がれた自分に驚く。一体何が起こったのだろう。


「よかった……。目が覚めて本当によかった……!」


 母の後ろで父も泣いている。

 初めてのことに雨音は驚いて、ただその光景を見つめることしかできなかった。


「ごめんね、雨音。お母さんが酷いことを言ったせいで……」


 初めて見る母の泣く姿に雨音は戸惑うことしかできなかったが、どうやら生死の境を彷徨っていたらしいことだけはわかったのだった。



 あの日、雨音は家を飛び出した後、居眠り運転の車に轢かれたのだという。その後数日間、意識不明の状態が続いていたらしい。

 しかし意識が回復した後は、奇跡的に後遺症もなく一カ月ほどで退院することができた。

 ――あれから季節は過ぎ、雨音は高二になり、また梅雨の時期が来た。


「雨音ちゃん、最近雰囲気変わったよね」

「そうかな? 髪伸ばしたせいかな……」

「うん、それもあるけど、話しやすくなったでしょ」


 図書室の隣の席でひそひそ凪沢が言う。窓ガラスに映った雨音の髪は、肩まで伸びていた。色も暗いと重すぎると思い、なんとなく少し茶色く染めた。


「前は孤高の人なのかな、かっこいいなって思ってたけど最近はいろんな人と一緒にいるし」

「孤高の人って……ただぼっちだっただけだよ。今は、みんなが優しいだけ」


 事故の後、クラスに復帰した雨音のことを級友たちは心配して好意的に迎えてくれた。もしかしたら水月のことがあったからかもしれない。

 雨音はそれから少しずつ友達を増やし、その影響でおしゃれを覚えた。一年前の自分とは別人のようだ。

 あんなに人に心を閉ざしてひねくれていたのに、今は不思議と心は穏やかで、素直に話ができるようになった。

 両親とも、あの後話をすることができた。

 自分の本当の気持ち、嫌だと思ったこと、本当はしてほしかったことを全部話した。そのおかげで今はおおむね良好な関係が築けている。

 大きな事故に遭ったことで、両親も雨音が生きていてくれるだけでありがたい、と思うようになったようだ。

 そして……。


「おまたせ」

「愁くん」

「あ、彼氏のお迎えだね」

「ちょっと」


 図書室にやって来たのは大川愁だった。

 この春から正式に付き合うことになった雨音の恋人だ。

 からかう凪沢に挨拶して図書室を出る。今日は二人で帰る約束をしていた。



 昇降口からは色とりどりの傘を差した生徒たちが帰っていく。

 それを眺めながら雨音も傘を差した。


「もうすぐ七瀬の一周忌だな」

「うん……。もうそんなに経つんだね」


 雨の日は水月のことを思い出すことが多い。

 最後に一緒に下校した日が雨だった。一つの傘に一緒に入って帰った。彼女は明るくて屈託ない優しい女の子だった。

 それと同時にあの夢か現実かもわからない、死の淵で見た彼女を思い出す。

 ……あれは彼女の本音だったのだろうか。


「雨音?」

「ごめん、ぼーっとしてた」


 急に黙った雨音を心配そうに愁が見つめていた。

 彼を見上げて、安心させるようににこりと笑う。


(あんなに優しくしてくれたのに、私のこと身代わりにしようとした。見下してた? ……ううん、私が同じ状況だったら、きっと同じように彼女を身代わりにしようとしたかもしれない)


 命を奪われ、違う世界に飛ばされて、会いたい人に会うこともできないそんな極限の状況の中で彼女は冷静ではなかっただろう。きっとあの水の中の彼女は、彼女の無念が形になった存在なのだ。

 ふと水たまりに自分の姿が映り、雨音は立ち止まった。

 髪が伸びて、おしゃれも覚えた雨音の姿は、どこかあの日の水月に似ているような気がした。


(水月ちゃんみたいになれたらって、私は思っていた)


 今の雨音は、姿かたちが変わって、友人が増え、恋人ができて、家族仲も良い。まるで一年前の水月そのものだった。


(……私は雨音? それとも水月?)


 はっとして雨音は頭を振る。

 彼女はもう、ここにはいない。


「水たまりの向こう側には、別の世界が広がっているのかな……」

「……え?」

「ううん、なんでもない」


 戸惑う愁に雨音は首を振る。

 今はただ、彼女がどこか別の世界で幸せに暮らしていることを、祈るしかできない。

 もう苦しみなどなく、あの日のような屈託のない笑顔で。

 独りぼっちだった雨音に笑いかけてくれたあの優しい笑顔でいてくれたら。

 また雨脚が強くなって、水たまりにいくつもの波紋が浮かんで、景色を消し去ってしまった。


「そろそろ行こう」

「うん」


 雨音は愁に促されてその手をとった。

 誰かに呼ばれた気がしたけれど、気づかないふりをして。


ここまでお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったらブクマや下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。

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