繰り返し
――カッチコッチカチコッチ
野田は壁に掛けてある振り子時計の音を妙に懐かしく思った。
夢の中にいたせいだろうか。何の夢かは覚えていないが、旅をしていたような気がする。ともすればこの安堵感もそのせいだろうか。
野田は何度か大きく瞬きをし、そしてまた目を細めた。
自宅の食卓。ぼやけた視界。その中、一部分だけ眩く感じるのは寝起きのせいか。
……いいや、目の前の鮭の切り身。その潤沢な脂が部屋の照明によって輝いて見えるのだ。
それに気づくと野田の鼻の中、肉壁を押しのけ、また滑るようにして香りが脳へと流れ込み、唾液の分泌を促し、喉を鳴らせた。
「おぉい、母さんや」
「え、あ、はーい。えっと、まずはお茶ね。はいはいどうぞ」
さすが我が妻、と口角を少し上げ、野田は目の前に置かれた湯呑を顔の前へ持って行き、口に含むと、もにゅもにゅと動かした。
「あのぉ、それで、お父さん……?」
「んー? ふふふ」
舌の上へ運んだ鮭の切り身、そのひとかけらは溶けるように口の中に広がり、野田の頬を緩ませた。
目を閉じ、その味を更に噛み締めようとすると野田はふと何かを忘れていることを思いだし、上空から立ち上る煙を先っぽから辿るように記憶の中を泳いだ。
――カッチコッチカチコッチ
野田は壁に掛けてある振り子時計の音を妙に懐かしく思った。
夢の中にいたせいだろうか。何の夢かは覚えていないが、旅をしていたような気がする。ともすればこの安堵感もそのせいだろうか。
野田は何度か大きく瞬きし、そしてまた目を細めた。
自宅の食卓。ぼやけた視界。その中、一部分だけ眩く感じるのは寝起きのせいか。
……いいや、目の前の鮭の切り身。その脂が部屋の照明によってやや輝いて見えるのだ。
それに気づくと野田の鼻の中、肉壁を押しのけるように香りが脳へと流れ込み、唾液の分泌を促し、喉を鳴らせた。
「おぉい、母さんや」
「あ、えっ、なーに?」
「……お茶」
「あ、はーい」
野田は目の前に置かれた湯呑を顔の前へ持って行き、口に含むと、もにゅもにゅと動かした。
「あのぉ、それでさ、お父さん」
「んー? ふふふ」
舌の上へ運んだ鮭の切り身、そのひとかけらは噛む度に花火のように力強く、豊かな味を見せた。
野田の頬を緩ませ目を閉じ、その味を深く追おうとする。
……と、ふと野田は何かを忘れていることを思いだし、深い森の中。その木々の間をすり抜け香る、甘いお菓子の家の匂いを辿るように記憶の中を歩きだした。
――カッチコッチカチコッチ
野田は壁に掛けてある振り子時計の音を妙に懐かしく思った。
夢の中にいたせいだろうか。何の夢かは覚えていないが、旅をしていたような気がする。ともすればこの安堵感もそのせいだろうか。
野田は何度か大きく瞬きし、そしてまた目を細めた。
自宅の食卓。ぼやけた視界。その中、一部分だけ眩く感じるのは寝起きのせいか。
……いいや、目の前の鮭の切り身。その脂が部屋の照明に反射しているのだ。
それに気づいた野田は鼻をひくつかせた。すると鼻の中、肉壁を押しのけるように香りが脳へと届き、唾液の分泌を促し、喉を鳴らせた。
「おぉい、母さんや」
「あ、はーい。お茶ですか?」
さすが我が妻、と野田は目の前に置かれた湯呑を顔の前へ持って行き、口に含むと、もにゅもにゅと動かした。ぬるく感じたが、文句を言うほどではない。
「……あのさ、お父さん」
ん? と野田は思った。前にもこんなことがあった気がする。それを気にしたせいか口に運んだ鮭の切り身のひとかけらの風味が薄れてしまい、野田は眉を顰めた。
しかし、好物の鮭といえども、こっちのほうが気になる。何と言ったかな、こういうの……。そうだ、今風に言うとループだ。ループしている。と、これは大変なことになった、と野田は目を見開き立ち上がった。
「ど、どうしたの?」
その様子に妻が驚き、そう言った。が、野田は話してもどうせ信じやしないだろうと顎を掻いてまた椅子に腰を下ろした。
どうやったらこのループから抜け出すことができるのだろうか……。そうとも、ここにいてはいけない気がする。
不安が胸の中に広がると頭痛がしてきた。
「思い出せそうなの?」
頭に手をやる野田。それを見てそう言ったのだろう。
野田は妻のその声を煩わしく感じた。
……と、待てよ。どういう意味だろうか、と野田は思った。
思い出せそう? 何をだ? このループの原因か? 妻はこの現象について何か知っているのか? 妻もループを? いや、何か、何か……
「遺書はどこにやったの?」
遺書……? 遺書……遺書……。
目を閉じた野田は目の前を流れる川。そこで泳ぐ魚の影を手で掴もうとするように、記憶の中に身を沈めた。
「……おい」
「しっ、出てきちゃ駄目でしょ」
「親父さん、また寝ちまったのかよ」
「しょうがないじゃない。こんなんだもの」
「チッ、遺書の在り処を聞きだして終わりじゃないんだぞ。娘のお前に譲るって新しく書かせねーとよ」
「わかってるわよ。全額寄付とか冗談じゃないわよっ。あー、思い出したらイライラして来たわ」
「何を?」
「この人が、私にそう言ったときの顔よ!」
「ははは。ボケちまう前に、お前がもっと世話してやってたらなぁ」
「しょうがないでしょっ、あんたは役に立たないんだから黙ってなさいよ」
「老人ホームから車でここまで連れてきてやっただろうが。実家なら頭が少しはまともになるとか言ってよ。焼き鮭まで用意して、全然じゃねえかこのジジイ」
「まともになる『かも』よ。あんたも文句ばっかり言ってないで何か案を出しなさいよ。時間が限られてるんだから」
「黙ってろって今、言っただろ」
「うるさいわよ」
――カッチコッチカチコッチ
野田は壁に掛けてある振り子時計の音を妙に懐かしく思った。
夢の中にいたせいだろうか。何の夢かは覚えていないが、旅をしていたような気がする。
ともすればこの不安感はそのせいだろうか。そうだ、恐ろしい旅だったような気がする。
野田は何度か大きく瞬きし、そしてまた目を細めた。
自宅の食卓。ぼやけた視界。その中、一部分、眩く感じるのは寝起きのせいか。
……いいや、目の前の鮭の切り身。好物ゆえに輝いて見えるのだ。
それに気づいた野田は鼻をひくつかせた。しかし、香りは感じられず、なんだ、子供のままごとのオモチャか何かか、と思い顔を顰めた。
ゆえに目の前に座る妻が何か言っているが、気分が萎え、聞く気にもなれなかった。