偶然
しばらく荒は、翠と名乗った少年から目を離せなかった。
難航するかと思われた事件の重要人物を__いや、彼は「親を殺した」とはっきり言った。犯人である翠を、いまここで逃がしては面目が立たないことはよくわかっていたが
どうしてか荒が翠の腕を掴む力は、どんどん弱くなっていった。
そうして荒がいつまでも翠に気をとられている隙を、翠は逃さなかった。
「油断しすぎ」
「!」
荒の手の内から手首を引き抜いて、ナイフを構えなおして襲い掛かった。
荒も応戦しようと試みたが、翠が手首を引き抜いたときに強い力で引っ張られてしまい、体勢を崩して翠の方へ倒れ込んでしまっていた。
翠は、ナイフを持っていない左手で荒の肩を掴んで、そのまま路地裏の冷たい壁に押し付けた。
鈍い痛みが荒の顔を顰めさせる。「痛い」の一声を発する暇もなく、ナイフが喉元に迫った。
己が不甲斐なさに荒は情けなくなる。首筋に微かに刃先が当たっていることに体が強張った。
「……なに」
これが、精一杯の虚勢だった。
「『なに』って、やだな。僕の最初の目的知ってるでしょ」
「……脅して、金取るんだっけ」
荒は弱弱しい視線で翠を刺そうとした。しかし翠は怯むはずもない。
「そうだよ、だけどね。いまは違うんだ」
荒は両手を強く握りしめた。そうしないと手の震えを抑えられそうになかったからだ。
殺されるのかもしれない。彼女はそう悟っていた。
翠が口を少し開いた。それだけで荒の睫毛は揺れて、神経が翠の一挙一動に目を光らせる。
「僕も名乗ったんだから、貴女の名前教えてよ」
「……」
どうしてそんなことを聞く? 最後まで相手を翻弄して殺すのが好きなのか?
震えながら結んだ口の端から息が漏れる。唾を飲み込めば、喉元で光るナイフの刃先が少しめり込んでくる。
ただ弄ばれるのは嫌いだったから、それでも彼女は最後まで抗ってみせた。
「……荒」
「荒、荒……。すーちゃんとかでいっか」
「は?」
覚悟を決めていた彼女の瞼が開かれた。
いよいよこの少年のことがわからない。なにがしたくてこんな__
「すーちゃん、お願いがある。聞いてくれる?」
思考が翠の言葉で遮られた。
こんなナイフが喉を掻き切る直前の状況で、「NO」なんて言えたものだろうか。
荒は翠から目線を外さなかった。翠はそれを合図になにか話したが、荒の耳に届いたのは「しばらく僕のこと匿って」の一言だけであった。