五話-新たな姿と訪問者
息を殺して、秒針の音を300ほど数えた。
少年はストーブの前で、そんなに寒いわけでもないのに毛布にくるまっていた。赤く煌々と照らされる布の中で熱源を睨み、時折「大丈夫でしょ」と呻く。
さらに数十を数えようとしたとき、彼の感性が研ぎ澄まされる。
ふすまの戸が開いた。
交感神経が高まる。布団越しに最大限の情報を取り入れる。布団の擦れる音が邪魔しないよう、動きは最小限に。末梢の血流が滞るのを感じ、吐息は震え冷たくなる。
その耳で控え目な足音を捉える。敵意は感じない。
少年はそっと布団から顔を出した。
油断はしないように、いつでも攻撃に転じられるようにと冷たい息を大きく吐く。
「――起こしちゃった?」
相手の姿は――、人間。
少年は少し安心して、完全に布団を取り払った。視界の中央に相手の姿を置けば、二つの視線が交錯する。
紅南ではない。紅南より少し年上に見える、スラッとした女性。
長い髪を耳の下で二つに結んでいる。角ばった眼鏡の向こうから、穏やかそうな瞳が覗く。
少年には見覚えがない。バスの周囲に屯していた中に、いただろうか。
「お洋服を持ってきたのよ。ほら、そのままじゃ寒いでしょう」
彼女は固そうな茶色い布の塊と、その上にあるいくつかの小物を気持ち上に掲げた。
そういえば紅南がそんなことも言っていたかもしれない。少年は思考を巡らせるが、すぐに前に向き直る。
「君は誰なの」
これが彼にとっての優先事項。見たところ敵ではないようだが、彼にとって不審者であることに違いはない。
少年の問いに、女性が一瞬顔をこわばらせたのを、少年は見逃さなかった。
「私は――私は、仁奈よ。この村に住んでるの。よろしくね」
仁奈は少年に洋服を手渡した。曇りのない微笑みは、少年の警戒心をも溶かしてしまう。
(侮れない)
それが少年の彼女に対する評価だった。
敵意は一切見せず、少年の不審がる視線をものともせず、手際よく洋服の着方をレクチャーする。少年の理解が追いつかなければすぐに戻って説明し、適切に実物を見せながら解説する。
おかげで少年は見慣れない物体――いや、あるいはどこかで見たかもしれないが――それの理解に困ることはなかった。
「本当は楽多が来られれば良かったんだけど。ごめんなさいね。一人で着れるかしら」
楽多、楽多って誰だっけ?
少年は記憶を掘り起こし、深く考えずに首肯する。
思い当たる頃には、仁奈は「お茶を用意するわね」と言って――部屋からいなくなっていた。
(早い)
また一人になった。見知らぬ布と一緒に取り残され、少年は嘆息する。
仁奈の説明のかいもあり、「一人で着ることができるか」の問いに対する答えはYesだ。
固い布を押し広げ、一つ穴に足を通し、それぞれ別の出口へと向かわせる。難しいことはない。思いきりウエストを上げると、足の半分ほどが顔を覗かせた。
覗いた足に足袋型の靴下を履かせると、彼の視線の先には他人の足が伸びる。
少年は立ち上がってみる。ズボンは地面にはスレスレなうえゴワゴワして動きにくいけれど、それ以上に暖かい。違和感のある靴下も、足首の熱放散から守ってくれる。
いくらか膝を曲げ伸ばししてみて、邪魔な着物の裾を腰の両脇にしまい込む。
動きやすくなった。
体は重くなってしまったが、足は大きく広げられるし、体温は保たれる。
無意識に彼の口角は上がった。
――さて
ひとしきり動いてみて、少年は再び床に座った。
足は著しく折り曲げにくくなった。少年の表情は若干不満げになる。まぁやむを得ない。「トレードオフ」というやつだ。
少年はどこで聞いたか定かでない言葉を脳内で繰り返し、諦めて足を投げ出した。
2・3度深呼吸をする。冷たい息が出入りする。脳に酸素が回って、いくらか思考が明瞭になった。
――変な人達ばっかりだな
少年は、自分のことを棚に上げて考えた。
侵入者との関わりを示唆する行動を示す紅南。急に現れて、どうやら何か正体を隠しているらしい仁奈。――それから、外来者である自分に寝床と治療を提供する村人たち。
――何が目的なんだろう
少年は落ち着いていた。彼の第六感は、今の状況に大きな危機感を抱いてはいなかった。まだ仁奈が戻ってくるようすもない。
目的。少年を守る目的は、力を得るためだろうか。彼が、化物と互角に――いや、それ以上の力で戦えるだけの能力を持っているから。
正確には、彼ではなく巻物の能力なのだろうが。
(違うか)
そう、巻物の力なのだ。彼の力ではない。
そのことは、少なくとも紅南は把握しているはずだ。ならば、化物を倒す力は、少年を助ける理由にはならない。彼が眠っている間に巻物を奪えばいいのだから。
彼は手元に水球を作ってみせる。問題なく――と言っていいものか、自由自在に産み出すことができた。
自身の力を奪われていないことを確認して、彼は次に胸元に手を伸ばした。
胸元に入っている2つの筒。細い、色違いの巻物だ。少年のものとも、紅南――今は、楽多が持っているものとも違う。
少年はホッと胸を撫で下ろした。
動くときの違和感で、ここにまだ巻物が入っていることには最初から気づいていた。
紅南や村人には気づかれていないだろうか。彼の胸元に残っているということは、恐らくそういうことなのだろう。
監視の目がないことを確かめ、少年は1本広げてみた。
何も書いていない。綺麗なまでの無地だ。
紅南の推測が正しければ、これを踏んだら何らかの能力が付加される。わざわざここで試すほど焦るべき状況ではないが。果たしてここにはどんな能力が閉じ込められているのか。
――いや
少年は巻き戻そうとした手を止める。
そして、よくよく目を凝らした。巻物の向こう側を見るように。
一瞬、ほんの一瞬、無地が無地でないように見えたのだ。
――歪んでる?
水に砂糖を一粒落としたように。熱波に曝されたアスファルトのように。巻物を中心に、空間が歪んでいるように見えた。
だが、それ以上はいくら目を凝らそうとも見えてこない。さらに目を細めてみても、かえって空気は扁平なものに戻っていく。
少年は考えるべきことも忘れて巻物を凝視し続けた。ふと我に帰るとすぐ近くに足音が聞こえたので、彼は慌てて巻物を隠さなければならなかった。
「……着れたかしら?」
ふすまの向こうから声がする。仁奈の声だ。
「うん――あぁ、いや、もうちょっと……」
少年は巻物を確実に元あった場所に戻し、念入りに衿を整える。大丈夫、すっかり元通りだ。
「いいよ」
少年が許可を出すと、ゆっくりとふすまが開かれた。仁奈は戸からすぐのところで淑やかに正座している。
丁寧に手慣れたようすで行われる所作は、しかし、少年にとっては時間稼ぎ程度にしか見えなかった。
――時間稼ぎ?
何の気なしに浮かんだ考えを反芻する。寝かされている少年に監視をつけたのは起きた少年を引き止めるためで、わざわざ着替えさせたのもお茶を用意したのも彼をこの部屋に留まらせるため。そう考えれば、辻褄は合う。紅南が出ていったのは、彼女が出ていったのは、いやそれ以前に時間稼ぎの目的は――。
「似合っているわ」
「えっ」
仁奈と少年の目が合う。仁奈は相変わらずの心を溶かす笑顔を向けていた。少年はたまらず顔をそらす。
仁奈は口元の筋肉を緩めぬまま、半ば諦めるようにお茶の用意に目を落とした。湯呑みを茶托に乗せて、少年の右方へと差し出す。半透明な緑色の液体から、湯気が立っている。
「どうぞ。こんなものしか出せないけれど」
少年はちらりと湯呑みに視線をやって、そっと口元へ持ち上げた。苦い、深い、例えるなら草のような香り。
知っている気がする、そう思いながら、彼は口にそれが接触するより前に離した。
湯呑みは、中身を減らすことなく、ただ中身を揺らして元の位置に戻される。
彼の視界の隅で、仁奈の笑みが苦いものに変わった。
――飲めるわけないでしょ
少年は、仁奈と目を合わせないように彼女を睨んだ。本当に時間稼ぎが目的なら、この中に何が入っているのかわかったものではない。彼女は少し肩をすくめたように見えた。
「――髪、邪魔じゃない? ヘアゴム余分にあるから、結んであげるわ」
仁奈はわざとらしく話題を逸らそうとした。そして、少年が何か言う前に立ち上がる。
少年は仁奈の一挙一動に目を光らせる。ただし、制止するつもりはなかった。
背後を取られることにはなるが、彼の命を狙うのなら寝ている間に狙うべきだし、何か仕掛けられているのならすでに仕掛けられている。
もっと攻撃的な手段に出るとは考えにくい。争いになれば、少年の方に分がある。
今ここで何かする必要はないはずだ。それが彼の判断だった。
何より、やはりここまでの長髪は邪魔なのだ。
「あまり時間はかけないでね」
時間稼ぎが目的ならば、このくらいの釘は打っておくべきかもしれない。少年の後ろで、仁奈は目を大きくした。それは、彼が口を開いたことへの驚きか、それともその内容に対するものか。
「――どこかへ急ぐの?」
仁奈は口を開きながら、やはりそつなく手を動かしていく。念押しなど不要だったかもしれない。
それに対して、少年は口ごもった。このままでは彼が答えるより先に髪を結び終わってしまう。
しかし、ここの返答は重要だ。うまく答えれば、彼はそれを口実にここから抜け出せる。今すぐにでも。
「……ほら、楽多っていう人が今――戦っている? って聞いたから」
「そう! それはいいわね」
仁奈は髪を結い終わってみせた。少年は風通しの良くなった首元を気にしながら、仁奈に言葉の真意を問い直す。
「――『いい』?」
「ええ。そのお洋服とか、全部楽多から借りたものなのよ。お礼も伝えに行くといいわ。それに、見回りなら協力してできた方がいいでしょうし」
そういうことか。面倒そうなことになったな。
――とは口に出すはずもなく、少年は曖昧な笑みを浮かべる。それを肯定と捉えた仁奈は、少年を玄関へと案内する。
「楽多は、多分、紅南の家の方に行くって言っていたと思う。場所はわかる?」
余計に面倒なことになった。
――当然というべきか、それが少年の本心だった。今度は眉にシワを寄せながら、やはり曖昧な笑みを返す。
玄関には下駄型の靴が用意されていた。これも楽多のものなのよ、と仁奈は説明するが、少年にとってはどうでもいいことだった。
ともあれ、早くここを出たほうがいい。行き着く先も、面倒でしかないけれど。
少年は靴を履き終わるとすぐに、玄関を後にする。
「――紅南にまた会ったらよろしくね」
笑顔とともにかけられた仁奈の言葉を背に、少年は駆け出していった。