四話-亀裂
――失敗した
少年は真っ黒な冷たい世界の中で朧な頭を働かせる。
ここはどこだ。朦朧とする頭では、状況を理解するのにも苦労する。
上も下もわからず漂う感覚に身を委ね、自我の輪郭が掻き消されないように抗った。
気を付けていたつもりなのに、力を使いすぎてしまった。最後に集中力の必要な攻撃手段を選んだのがよくなかったか。
皮膚に無数の穴が開いたようで、そこから自分が流れ出る感覚に苛まれる。
自分が流れ出たところには間を埋めるように外界が入ってきて、身体の中に世界が反響する。
守られている中心部には何者かが眠り、かろうじて少年は人間を保つ。そんな自分がおぞましい。
――これが、"死"?
目の前で頭の弾けた人外の姿が自身と重なって見える。
少年は恐怖よりも先に怒りを覚えた。
――ふざけるな
なんで僕が。なんで。
ぶつける宛のない感情を持て余して、少年は意味もなくもがく。
――生きてやる
伸ばした指先で、暖かい光を探り当てる。
少年はその光のもとを目指して闇を掻き分けていった。
――どうぞご自由に
嘲笑を含んだ声が少年の後ろから手を伸ばして、彼を優しく押し上げた。
急に電気が付けられたように、少年の視界が明るくなる。急な眩しさに、それ以上閉じられない瞳を細めた。
耳に入るのは、ごうごうと何かが静かに燃える音。全身に触れているものは、柔らかくて少し重い。
恐る恐る目を開けた少年は、初めて暖かい世界を知った。
電気ストーブのついた少し暑いくらいの簡素な和室で、ふかふかの布団にくるまれている。
「――生きてる」
思わず声が漏れる。落ち着く、自分の声。ホゥっと安堵のため息をついて、そして、声を出したことを少し後悔した。
部屋に紅南もいることに気が付いたのだ。
案の定紅南はこちらを振り向いて、ニカッと笑ってみせる。
「よかったぁ。気が付いたんだね」
少年は軽く眉間にしわを寄せた。紅南はそれに気を留めることもなく、よかったよかったと笑い続けた。
「急に倒れちゃったからねぇ、びっくりしたんだよ」
皆が手伝ってくれてここまで運んできたの、と、紅南は少年が眠っている間の話をした。ここは近くにあった家で、皆は自分の家に戻っており、今ここには自分と少年しかいない、と。
「あなたのお洋服とか準備してくれるみたいだから、それまで待ってるの」
紅南は手持ち無沙汰そうに両手を広げてみせる。
少年は「なぜ君は家に帰らないの」と問いかけてやめた。化物が襲ってきた方向に帰れというのはあまりに酷だし、現状、自身の隣に置くのなら彼女が適任と判断されるだろう。
「おでこもちょっと怪我あったから、薬塗ってくれたんだって」
ここここと紅南は自身のおでこを突いてみせる。少年はそれを指標に自分の額をなぞってみたが、どこに怪我があるかわからなかった。そもそもいつ怪我をしたんだったか。死角からの攻撃を避けたときか。
「ほとんど治っちゃってるよね。それも巻物の力かな」
少年の心を読んだように、紅南が呟く。
「なら、あのとき、すごいスピードで前に進んだのも――」
少年は独り言ち、一人で納得した。ほとんど驚きはない。記憶が始まったときから非現実的な出来事が起こりすぎて、その程度のことならむしろ当然とさえ思える。
しばし沈黙が落ちる。
紅南は時折辺りを見渡したり座り方を変えたりして、部屋を出るタイミングを窺った。
「――君の怪我も治してもらったの」
ちょうど紅南が外に出ようとしたとき、少年が沈黙を破る。
最初に化物と対峙したとき、彼女も多少の傷を負っていたはずだ。今はその傷も見当たらない。
紅南は「あー」と座り直しながら、少年に向き直る。
「えーっとね、……うん、そうそう。治してもらったの」
巻物の力と治療で完治した。順当に考えればそうなるだろう。訝しむ要素などない。
しかし少年には妙に引っかかるものがあった。それが何なのか明らかにできないまま、紅南としっかり目線を合わせる。
また沈黙が落ちた。今度はどちらも動かない。
「――君はここにいていいの。また彼らが襲ってくるかもしれないのに」
沈黙を破るのはやはり少年だ。紅南はふっと表情を緩めた。
「それは大丈夫! 楽多っていう力自慢の人にね、巻物を貸してきたの! 踏んでもらってね。今頃見回りしてるんじゃないかなぁ」
少年は、思いがけず判明した事実に目をぱちくりとさせた。紅南はその様子を見てようやく気付いたようで、ひどく狼狽してみせる。
「そっか! ごめんね、あなたのものかもしれないのに」
少年は大きくため息をついた。「まぁいいけどさ」と小さく言い放ちながら、紅南の一顰一笑に気を払う。取り乱している裏で、安堵している部分も見え隠れする。
「それはいつ」
「へ?」
急に問われて、紅南は目に見えて固まった。「いつ? いつって、何が?」と問い返す声は、不機嫌なようでさえあった。
「巻物を渡した時間のこと」
「あぁ、えっとね、すぐだよ。あなたが倒れて、でも埋葬とかもしなきゃーって思ったから、楽多に巻物を渡して見回りしてもらって、私はそこの裏山で埋葬させてもらって、あなたのことは皆に任せっきりだったな」
「そう」
少年の監視の目がより厳しくなる。「どしたの?」と尋ねる紅南の表情は笑いきれずに引きつっていた。
「じゃあ君は、巻物もない状態で、一人で埋葬していたんだ。ずいぶん早く終わったんだね」
外はまだ明るい。感覚として、騒動から幾分も経っていないことは少年にもわかる。
「治療を受けたのはいつかな。見たところ傷は全然残ってないけど、治療を受けた時点では残っていたんだよね。ずいぶん治りが早いんだ。巻物はもう持ってなかっただろうに」
紅南は一瞬視線を泳がせた。口を開きかけては閉じる。答えが得られないことがわかると、少年は容赦なく次の質問を投げつけた。
「何を隠しているの?」
再びの沈黙。紅南のきらきらした瞳から、少年は宝石のような冷たさを感じた。
答えが得られないのならさらなる質問が必要になるだろうという少年の焦りは、杞憂に終わった。紅南は小さく息を吐いて、影のない笑顔を作ってみせる。
「……もー、考えすぎだよ! そうそう、ほとんど治ってたの! それにね、私こう見えても、結構力あるんだよぉ」
紅南はフンスと鼻息を荒くして、力こぶを作って示した。小さく盛り上がったこぶを叩くと、確かに鈍く音がする。
だがそれで納得する少年ではない。
「君はさ、僕たちが危険な目に合ってるときも、仲直りしたいとか言ってたよね。単に現実が見えてないんだと思ってたけど、何か関連があるのかな。話せばわかるって断言するのもさ」
紅南は笑顔を何とか保ちながら、そこにはいささか含みを持っていた。「関連って?」と尋ねる声は気持ち低く、震えている。
「わからない? 彼らのこと、前から知ってたんじゃないの」
「……知らないよ」
また言い淀んだ。少年はそう思った。
さっきからそうだ。おそらく彼女にとって重要そうなことは、すべて明瞭な返答を得られていない。
「別に、隠し事をしたいならそれでもいいよ」
それは少年の本心だった。
彼にはまだ知らないことが多すぎる。第一、ここに暮らす人と対等な関係になれるほど、信頼関係を築いてもいない。
情報共有が不完全になるのは仕方のないことだ。
「だったら――」
「でも君のはだめな気がする」
紅南の表情に戻りかけた光は、すぐに潰えた。少年はまっすぐ彼女の瞳を睨み続ける。
「なんで話せないの。この村のことは門外不出とか言いながら話してくれたくせに」
「それはだって、知らないことばかりじゃ不安だろうから、安心してもらえるかと思って」
「なら今も安心させてよ」
紅南は口をつぐむ。そして、少し視線をそらした。
「何を隠してるの」
紅南は視線を合わせなかった。口は一文字に閉じられたままで、返答はない。
「――『話せばわかる』んじゃないの」
瞬間、紅南の肩がビクッと震え上がる。
想定外の反応に少年はぎょっとして、もう何度目かわからない沈黙が下りた。
紅南は体を硬直させて動かない。
それでも、次に沈黙を破ったのは、紅南の方だ。
「――頭冷やしてくる」
少年はすぐにその返答を処理することができなかった。
ようやく理解したころには、紅南は立ち上がって部屋の外に出ようとしている。
「ちょ、待って! 逃げるつもり!?」
少年はすぐに立ち上がることもできない。紅南はそんな少年を待つことはしなかった。
「……そうかもしれない」
小さく言い残して、紅南は少年の視界から姿を消した。
「はぁ!?」
少年は執拗に邪魔をしてくる布団を部屋の外に投げやった。布団は畳の上にぼふっと落ちて重力に従う。
少年は不安定な敷布団の上に、もつれる足で立ち上がる。髪や着物に邪魔されながら、やっとのことで扉にたどり着き、外に出た。
(いない)
部屋の外には、また部屋があった。少年が寝ていたところより、もう少し大きな部屋。机や座椅子も置いてあって、多少生活感がある。
少年は右左と部屋を見渡した。紅南は見当たらない。
歯ぎしりの音が、誰もいない部屋に響く。
(追わなきゃ)
少年は崩れた衿を直し、改めて部屋に目を配らせる。出口は2箇所。痕跡はない。
罠ではないことを祈りながら、注意深く歩を進める。何も起こらないことを確認して、少年は頭を働かせた。
彼女は自身が逃げるつもりだと認めた。正確には、少年の質問に対して、否定をしなかった。
何から? 当然少年からだ。事実、彼女は少年の前からいなくなった。
なぜ? 彼の問いかけが、彼女にとって不都合だったからではあるだろうけれど。どこに不都合な点があったのか。
――彼女が曖昧な答えを返した、すべて。
そこまでの答えを導き出すころ、少年は出口の一つに手をかけるに至っていた。
この先に何が待っているのか。
少年の手はそこで止まった。
(何のために?)
暖房がない部屋の冷気に、少年の頭は冷やされていく。手を引くこともできないまま、時間だけが過ぎる。
(僕は何のために、彼女を追いかける?)
少年の小さな呼吸音が、一人の空間ではやけに大きく反響する。どこかにしまわれた時計の短針が、呼吸に合わせてリズムを刻んだ。
彼女は何のために逃げた? 少年は自問した。
少年から逃げるため、ただそれだけならば、少年としても追いかける意義はない。親切で奇妙な見知らぬ人として、記憶の隅に留めればいい。
では仮に、彼女に何か、攻撃的な意図があったとしたら? 例えば、先ほどの侵入者たちと協働して村に害をなすとしたら?
それは、自分には関係ないことだ。それが少年が出した答えだった。
紅南はきっと少年を守る。少年をむやみに攻撃することはない。それは、ここまでの関わりの中で概ね確立されたことだ。
「好きにすればいい」
冷たい声が空気を震わせる。少年は扉から手を離す。
きっと大丈夫だと小声で自分に言い聞かせて、少年は寝床の方へと戻っていった。