二話-外来者
近江谷村の中央部には大きな道路が通っている。それ以外にろくな道が整備されていないとも言えるのだが。
この大通りの道沿いには家が立ち並び、紅南の家から見て突き当たりが大宮家である。
人が集まっているのは、その大通りだった。大通りに大きなバスが止まっていて、周囲に人がたむろしている。
紅南ははてと首をかしげる。
このバスは、普段であればスクールバスなど村内の移動手段としての機能を果たす。近江谷村は南北に長いので、こうした交通手段は欠かせない。
しかし今は冬休みで、学校は開かれていない。店に行くためにもバスは走るが、こんなにたくさんの人が乗ることがあったろうか。
何か大変なことがすでに起こっているのではないか。そんな考えに至って、紅南は息を呑んだ。
「みんな大丈夫!?」
紅南は慌てて群集へと駆けよった。少年は遅れて付いていく。
「あら、紅南ちゃん」
村人の反応は案外冷静だ。
あれ、大丈夫そうだと肩透かしを食らった気分の紅南に対して、村人たちは優しく笑いかける。
「そんなに焦らなくていいのよ。ここまで来れば大丈夫だからね」
「……何を言ってるの?」
何かひどく絶望的な状況が足元に広がっているような予感がした。
よく見ると、バスの周りにいる彼らのほとんどは大宮家の近くに住む村人である。この言い方からすると、大宮家の方からバスで避難でもしてきたかのようだ。
いったい何から逃げてきたというのだろう。こっちはこっちで化物が襲ってきて大変だというのに。
紅南が質問をまとめる前に、村人の一人が説明してくれた。
「大宮さんの方でね、近宮さんが変なものを見たって言ってて。あまりに怯えているものだから、向こうに住んでいる人はみんなこっちに移動したの」
「向こうが?」
近宮さんは大宮家の一番近くに住んでいる。つまり、紅南らがいたところとほぼ真反対の場所で暮らしている。
遠く離れた2つの場所で、同様の異変が確認されていることになる。
紅南の質問の意図を理解できず、村人は訝しげな表情でうなずいた。
「こっちには、その――変な人来なかった?」
「変な人? 変な人も何も、この村の人はみんな顔見知りじゃない」
「そうじゃなくて!」
珍しく焦りを見せた紅南に、村人たちはわずかに動揺する。
彼らは辺りを見渡し、その視線は紅南の後ろで止まった。
「……彼は?」
どこの子だっけ? と指をさされたのは少年である。紅南は違う違うとかぶりを振った。
「この子じゃなくて。なんかもっとね、こう――角が生えてて、こわーい顔の人」
「何それ、そんな人がいるの?」
村人たちは笑って本気にしていない。「もしいたとして、それは人じゃないでしょう」という言葉には少年ももっともらしくうなずいて、紅南はむぅと複雑な表情を示す。
気勢をそがれた紅南はいっそ家に戻ってしまおうかと考えた。そのとき、他とは違う焦った声が聞こえなければ、きっときびすを返していただろう。
「待って」
声の主が、バスからスマホ片手に飛び出してくる。近宮家の子供だ。「変なもの」を見た張本人か。
「それ知ってる」
そう言って紅南へ見せられたスマホの画面には、大宮家が映されていた。その中央に誰か立っている。手ぶれしているうえにピントもあっていないが、それが普通の人の形をしていないことは認識できた。
雪のように白い髪の毛先は返り血を浴びたように紅い。そこから覗く長く赤黒い角、真っ赤な入れ墨に彩られた顔、黒く変色した眼の中で怪しい光を放つ紅い瞳。
現代らしからぬ服装は、しかし、和服というのも違う気がする。
「これだよ!」
紅南と少年、2人の叫び声が重なる。
あ、いや、髪型とか違うかも、と口ごもり何とか想起しようとする2人に対して、村人たちは「本当に……?」と顔色を変えた。
「これと同じような人が、紅南ちゃんのところにも現れたの?」
「そうなの!」
勢いよい紅南のうなずきに、ただでさえ寒い空気がさらに凍りつく。
――挟まれてる
受け入れがたい現実は人々の恐怖を呼び起こし、冷静な判断能力を奪う。
大衆は一瞬にして混乱状態に陥り、騒然として収拾がつかなくなった。
先ほどまで落ち着き払っていた村人たちも、我を忘れて好き勝手にわめき散らす。合成写真だと言い張る者、もう終わりだと嘆く者、ありったけの農具を集めろと殺気立つ者。
「みんな落ち着いて! ね、もしかしたら、悪い人じゃないかもよぉ。お友達になりたいのかも!」
「本気で言ってる?」
見かねた紅南の必死の擁護は誰の心にも届くことなく、少年にあっさり否定された。
少年の冷たく監視するような視線に、紅南は目をそらす。
このままではいられない。しかしどうしたらいいだろう。
彼らの目的は定かではないが、少なくとも味方でないことはわかっている。
2人が発言しかねている中で、村人の中から声があがった。
「ねぇ紅南ちゃん。その子は一体何者なの」
先ほどの村人が、震える声で尋ねる。怯え切った表情で、動揺する瞳はしっかりと少年を捉えている。
「やっぱりそんな子見たことないわ。服装も彼らと似ている気がするし、何より、なんでこんなときに突然現れたの」
数十の視線が少年へと集められる。少年は、まぁ確かにそうなるかと頭を掻いた。
「僕もよくわからないんだよ。何も覚えてなくて――」
「記憶喪失だっていうの? そんな都合のいい話、信じられるわけないじゃない!」
少年はムッと彼女を睨み返す。
そんなこと言われても、事実なんだからしょうがないじゃないか。などと言っても、きっと聞き入れてはくれないのだろう。
少年が黙ってしまうと、村人の嘆きはさらに大きくなった。
「ねぇ、あの鬼のような人たちの仲間なんじゃないの。そうなんでしょう。そうに決まってるわ!」
決めつけられても困る。そんなわけはない。
少年自身さっきまで襲われる側で、彼らのことは何もわかっちゃいないのだ。
少年が弁明するべきか悩んでいるうちに、すっかり村人たちは一致団結してしまって、対少年陣営が作られていた。
少年が半ば諦めるので、ここまで黙って見ていた紅南が待って待ってと間に入った。
「怪しい人じゃないよ! ――多分。私のことを守ってくれたの!」
「多分とはなんだ」という文句は腹の底に押し込んで、少年は口の中で「君を守ったわけじゃないけどね」と呟いた。幸い、誰の耳にも届いていないようだ。
「あのね、不思議な能力を運んできてくれたの。きっと力になれると思うな」
そうだ、すっかり忘れていた。少年は小さな水の球をぽんぽんと出してみせる。
村人からざわめきは聞こえたが、やはり特殊な能力の存在自体には慣れているようで、パニックがひどくなることはなかった。
紅南も炎を出そうとするが、少年が制止した。今ここで大火事になっては大変だ。
「それ――どういうこと?」
村人の疑問はもっともである。嫌な予感がする少年のことなど気にも留めず、紅南は無邪気に回答した。
「なんか巻物の力でね、この子が多分持ってたの!」
「ますます怪しいじゃないの!」
当然だ。
呆れる少年の前で、紅南とその他大勢の水掛け論が繰り広げられる。一向に収まる気配はなく、当の本人は蚊帳の外だ。
「こんなことしてる場合?」
少年の言葉は、次こそみんなの耳に届いてしまった。
途端に辺りは静まり返って、痛々しいまでの視線が少年に突き刺さる。
少年は当初だんまりを決め込もうとしていたが、どうやらそれが叶わないことを知り、諦めて言葉を続けた。
「今は僕のことより、その、何、変な人? ってやつのことでしょ。君たちだけで彼らから身を守れる?」
村人は懐疑的な目を向けるばかりだ。少年はだんだんと腹が立ってきた。
「僕は君たちを取って食いはしないよ。僕と彼ら、どっちの対処が先なの」
「取って……食う?」
「――彼らは餌がどうだとか言ってたから」
しまった。少年が顔をしかめたころにはもう遅く、村人たちがまたざわつき始める。
紅南が止めようとするが、全く効果はない。少年は頭をガリガリと掻いた。
――混乱は、最悪の展開で落ち着くことになる。
「ねぇ、いい加減にして! 僕を疑うのは時間の無駄だよ。今この瞬間にだって、彼らが襲ってくるかもしれないのに」
少年の癇癪じみた叫び声は、当初は騒然とした空気にかき消された。だが彼が第二声を上げようというとき、一切の声が聞こえなくなる。
一斉に視線が少年へと集中した。
否、彼らが見るのは少年の向こう側。
時間が止まったかのように、みな目を見開き、似たような表情で固まっている。
「――え」
こういうときの生存本能ともいうべき直感は当たるもので、瞬時の判断で振り返った少年の見る先には、ある種予想通りの光景が広がっている。
1人の化物が立っていた。
しっかりこちらと目が合っている。
戦うか、逃げるか。声をかけ合うか、自分が生き残ることを一番に考えるか。
そこにいる誰もの脳内をそれらの思考が駆け巡るころには、化物がこちらに異様な速度で近づいてくる。
少年も紅南も村人も、このとき考えていることは一致していた。
今対処すべきは、やつだ。