二十二話-冷戦
紅南はゆっくりと目を開けた。いつから目を閉じていたかは覚えていない。ただ昨晩、目宮さんが倒れてしまった後に彼を布団にくるませ直したことだけは確かである。
やけに目は冴えている。頭も冴えていくごとに、体の節々の痛みがじんわりと脳を刺激していく。体のすぐ下にあるのは冷たい地面だ。
紅南は軽く深呼吸をするように呟いた。
「……朝だぁ」
空気がわずかな光を纏っている。紅南はムックリと体を起こした。畳に直に横になっていたせいで腕の半分には跡がつき、布団を被っていなかったせいで肌表面は氷のように冷えていた。頭はスッキリしても、体の方はさほど休められていなさそうだ。
ただ紅南は人並み以上に丈夫なので、これらで不調をきたすことはないだろう。紅南は一時的な苦痛に嘆息した。
「起きた?」
背後から声が聞こえて、紅南は慌てて振り返る。見知った顔だ。膝を立てて座る空が不機嫌そうに彼女を睨みつけていた。
「様子を見に来たら倒れてたから、僕ずっとここにいるしかなかったんだよね」
「え、えっと……?」
「何も覚えてない? 『寝オチ』ってやつだって大宮仁奈は言ってたけど」
紅南は首を傾げた。寝てしまったときの記憶は出てこない。一方、空の顔を見たことで昨晩の2人の妙な動きは思い起こされた。
紅南が何も言わないでいると、空は朝特有の不機嫌を隠そうともせず深く深くため息をついた。とりあえず謝罪しようとした紅南の言葉は、もう一人の人間の言葉によって遮られた。
「いいのよ、疲れていたのよね。しっかり休めたかしら? 簡単なお粥を作ったから、一緒に食べましょう」
ドアから現れたのは穏やかな笑みを浮かべる大宮仁奈だ。お盆に3つの椀を乗せて部屋に入ってくる。お湯に浸かった米の上にピンクの鮭と鮮やかな青ネギがちんまりと乗せられていて、白い煙を吹いている。仁奈は一人一つずつそれを手渡して、空いた場所に正座した。
「ぐっすり寝ちゃったぁ。お粥ありがと。いただきます」
紅南は手のひらを合わせて食前の挨拶を述べた。
本当は、わざわざ今ここで粥を食する必要はない。三度の飯より一度例の薬を服用する方がよっぽど効果的だ。
しかし楽多のことやアスカとの会話を思い起こすと正体を明かすのは躊躇われてしまって、紅南は用意された食事を返却するタイミングを失った。誰にも言えない想いを抱えながら、さして栄養にならない体積だけのそれを胃袋へと運んでいく。
「さっき連絡があったんだけど、おじいちゃんが目宮さんを迎えに来るって。私たちはまた見回りに出かけるけど、紅南はどうする?」
行儀よくお椀の中身を口に運びながら、仁奈が紅南に尋ねる。紅南はお粥を喉に流し込み、しばらく頭を働かせて、舌足らずに返答する。
「えっとね、仁奈のおじいちゃんが来るまではここにいようかなぁ。その後は……どうしよ」
「あぁ、いいのよ。もし紅南もすぐ外に行くようなら、一緒に行こうと思っただけだから。それじゃ、私たちはもう行こうかしら」
気がつけば、仁奈は粥をきれいに食べきっていた。それを見て嫌々ながら残りの粥を掻き込んだ空は、舌を火傷して犬のようになった。
「……氷を持ってきましょうか」
最後の言葉は空に向けられたものだ。空は舌を半分出しながら「いらない」とだけ言って部屋を立ち去った。仁奈も彼に続く。あっという間の出来事だ。
紅南は嵐のように去っていく2人を呆然と見つめて、音が過ぎ去ればまた天を仰いで一人現状を嘆くつもりでいた。
――しかし、今回は紅南が一人になることはなかった。
「……行きましたか?」
「うぉあ!」
仁奈と空が出ていくや否や窓の方からひょっこりと顔を出したのは、例によってアスカだ。飛び退いた紅南の頭の中を様々な思考が巡る。
「今回は紅南一人の方が都合がいいもので、身を潜めさせていただきました」
「え、えっと? どうゆうこと?」
「裏邸――私たちのアジトにご案内いたします」
「ほぇ?」
変な返答になってしまったことを自覚して、紅南は少し頬を赤らめた。しかしそれも一瞬のことで、それどころではないと気づいて慌ててまともな返答をする。
「あ、案内って? アジトってどういうこと?」
「そのままの意味ですよ。紅南もいつまでも人間側にいるわけにもいかないでしょう? 私たちの内部を知って損はないはずです」
「……どういうこと?」
「おや、怒らないでくださいよ。悪いようにはしませんから」
ピリッとしたオーラを纏った紅南を意に介することもなく、アスカはヘラヘラと話を締めた。紅南がアジト――裏邸に行くことが決定事項として片付けられつつある。紅南は気持ちを切り替えて早まるアスカを制した。
「ねぇ待って。私、今はここを離れられないの。もう少しで仁奈のおじいちゃんがここに来るらしいから、それまで待って」
「もう少しというのは、どれくらいでしょう?」
「そう言われても……」
わからないよ、と答えようとして紅南は止まった。アスカは意味深な笑みを浮かべている。――笑みを浮かべるのは今に限った話ではなく、常にニヤけているのだが。普段よりわかりやすく腹に一物あるような笑みである。
アスカはフムと言って頭の中で計算式を叩き出した。
「3秒後ですかね」
何でもないことのような言い方だった。紅南がその言葉を理解するのに2秒、次の行動を判断するのに1秒かかった。アスカに隠れてもらわなければならないと気づいたのは、扉が静かに重々しく開かれた後だった。
「に、仁奈のおじいちゃん……」
紅南の笑顔は引きつってしまった。大宮仁志の背筋は相変わらず伸びきっていて、そのくせに杖を右について、抜け目なく不機嫌な眼差しで周囲を睨んでいる。
「あ、あのね! これはね、えっと……」
「……わけは後で聞こう。君は下がりたまえ」
「あぁ! ちょっと待って!」
紅南は大の字になって大宮仁志の行く手を阻んだ。部屋の歪んだ空気は誰にも悟られることがないまま均される。
「アスカは悪い人じゃないの! ……多分。あのね、色々なことをお話してくれてて」
「えぇ、そうです! 色々と紅南に伝えたいことがありまして」
アスカが紅南の背後からヤジを入れる。「下がってて」と無言で圧をかける紅南には気づかないふりをして、アスカは仁志の目の前まで移動した。
「今から、彼女を私たちのアジトへとお送りしようと思っていたんです。いえ、もちろん危害は加えません。無事に帰すと約束しますよ。その後、お望みならば彼女から情報を聞くとよろしいかと」
大宮仁志はその言葉を聞いて快諾するような人物ではなかった。不機嫌な眼差しに最大限の警戒と敵意を込めて、アスカの笑顔を睨みつぶす。
「何が目的だ」
アスカはそれを聞いて戸惑うような人物ではなかった。むしろ面白いように一層声を弾ませる。
「私の目的は紅南です。あなた方にとっても悪い話ではないでしょう? 私たちの情報を得るまたとない機会ですよ」
「そんな戯れ言で見逃してやると思うか」
「心外ですね。あなたを殺さずに済む方法を提案しておりますのに」
遠い世界の大戦について語るように、淡々と物騒な言葉が並べられる。そうして2人は膠着状態に入った。両者動かず、笑顔と怒り顔が対峙している。
紅南がハラハラと見守る中、数秒後、2人の表情がわずかに変化した。アスカが振り返る。
「後でしっかり話は聞かせてもらう」
「だそうです。さぁ紅南、行きましょう」
満面の笑みを浮かべるアスカの後ろで、「さっさと出ていけ」と言わんばかりに仁志は手を振った。紅南は戸惑いつつも導かれるようにして、アスカに付いて部屋から出ていった。




