二十一話-水面下
アスカが立ち去ってすぐに、紅南は彼の言った意味を咀嚼するより早く錠剤を1つ服用した。
普段は1日3粒服していたが、今は1粒のみ。急事以外では服用数を減らすなというのが母親の言いつけだが、今は間違いなく急事であろう。その薬丸の真の効用は定かではないが、切らしてしまうのは避けたかった。
紅南はハンカチに包まれた数少ない粒を見てため息をつく。
「どうなってるのぉ」
わざとらしく困ってみても、彼女の声に答える人はいない。
日が沈みかけた頃に、仁奈と空は一緒に戻ってきた。戻るなり、空は頬を膨らませるようにして文句を垂れる。
「大変だったよ。楽多はよくわからないし、急にいなくなるし、周囲を探そうにも鬼たちが襲撃してきて」
「あら、そうだった?」
水を差したのは仁奈だった。けろっとした様子で空の神経を逆撫でしていく。
「拍子抜けするくらい、あの鬼たちには会わなかったわ。てっきり村の方には来ていないのかと思ったけれど」
「何それ。僕が嘘ついてるって?」
「そうは言ってないわ。ただ、不思議だと思っただけよ」
仁奈は持ち前の微笑みで話を終わらせた。空は若干青筋を立てかけただけで、華麗にスルーしてみせた。仁奈の微妙につかみにくい態度にも慣れつつある。
仁奈は蚊帳の外に置きっぱなしにされた紅南の方に向き直った。可愛らしく手を打って声を躍らせる。
「さ、休息を取らなきゃいけないわ。ご飯を食べてお風呂に入ったら、交代で仮眠でも取りましょう」
そう言った仁奈は、変わらず笑顔だった。
家にある食材を拝借して最低限の夕飯とし、幸い生きていたガス水道に感謝してシャワーを浴びた。
それら全て済んだ頃には立派な夜が訪れていた。
紅南は相変わらず目宮さんのいる部屋に入って、横になるための領地を確保した。夕食後の話し合いで紅南が最初に仮眠を取ることになったのだ。もう1日半ほど寝ていないのでさすがに瞼が重くなる。
「今いい?」
紅南がいよいよ床につこうかとしたとき、扉が開かれた。空だ。暗い廊下に溶け込んで、薄暗い部屋の明かりにわずかに照らされている。その立ち姿はさながら亡霊のようだ。
「スマホとやらの使い方を聞こうと思って」
「あーいいよぉ」
紅南はノロノロと動き出した。彼を部屋に招き入れて、充電が不十分なそれを手渡した。ご丁寧に暗証番号まで教えてやる。
「何から教えよっか」
「色々なことができるんでしょ。何ができる?」
「えっとねぇ。遠くの人と話したり、いろんなこと調べたり、景色を保存したり……」
「世界を切り取れる?」
「切り取る?」とつい紅南は聞き返した。思わぬ表現に、顎に手をやってしばし考える。
「切り取るっていうか、保存できるっていう方がいいかな……」
「何が起こったのか残せるってこと?」
「あーうん、そうそう!」
「それを知りたい」
空はまっすぐ睨むような瞳で紅南を見据えた。必要以上に鬼気迫るような様子に首をかしげながらも、紅南は動画の撮り方を教えてやった。
「はい! ほかには?」
「……これを借りたい」
「いいよぉ。それだけでいいの?」
「うん。しばらく借りるかもしれないけど」
「はぁい」
有無を言わせず突き放すような態度に、紅南はまた首をかしげた。空はどこか暗いオーラを放ちながら部屋を立ち去ってしまう。
釈然とせぬまま、紅南は分厚い羽毛布団を引っ張り出して身を包んだ。防犯上、深く眠りすぎてはならないと考えていたが、羊を数えるまでもなく紅南は夢の世界へと誘われてしまった。
「……今何時?」
ふと紅南は起き上がる。体感としてはほんの5分も経っていないが、しっかり目は冴えている。時計を確認すると、30分ほど経っていた。
(そういえば、仁奈は今何してるんだろ)
目を擦って、紅南はぼんやりと記憶を掘り起こす。心配な点はただ一つ。
「……空、大丈夫だよね?」
昨晩の彼の様子が脳裏に浮かぶ。仁奈と空が同じ場所にいるのなら、彼が昨晩の状態になっていたら、あるいは危険かもしれない。
紅南は周囲を確認して、近くに脅威が迫っていないことを注意深く確かめた。「すぐ戻るから」と自分に言い聞かせ、目宮さんを1人残して部屋を出る。
まずは一番近くの部屋を覗こうとして、紅南は動きを止めた。
息を殺すと、どこかで物音が聞こえてくる。
――声も聞こえる
紅南はさらに神経を尖らせた。内容を聞き取ろうとしたが、すぐに声は聞こえなくなってしまった。
ただ一つ確かなこととして、声も物音も家の中から聞こえてきた。
紅南は床を軋ませないよう慎重に足を運ぶ。すでに物音も消えている。人の気配で場所を特定するほかない。
――そう、考えていた。
「――あ」
ある部屋の扉の前に、一人の人物が立っていた。仁奈だ。
「何してるの?」と紅南が尋ねる前に、仁奈は「おやすみ」と微笑んで紅南の横を通りすぎていった。
「お、おやすみぃ……?」
紅南は見えなくなった仁奈の後ろ姿に、挨拶を返した。まとまらない考えが頭の上をフヨフヨと回っている。
しばらく呆然としていたが、一つの気づきが彼女の足を再び動かした。仁奈が立っていた部屋の前まで歩いていく。
(さっき聞こえた声は、仁奈じゃなかった)
まだ誰かいる。もしかしたら、この部屋の中に。紅南は部屋の中へと意識を集中させる。ちょうどそのとき、わずかな物音が再開した。
意を決した紅南が手を伸ばしかけたとき、その扉は内側からゆっくりと開かれた。
「――空?」
紅南はすっとんきょうな声をあげる。その姿は、どう見ても半刻前まで話していた空であった。
険しい表情で出てきた空は、紅南に気づいて顔をひきつらせた。紅南の頭上で雑多な思いが再びフヨフヨと回り始める。
「ねぇ、さっきこの辺で声が聞こえたんだけど、何か知ってる? ――あ、もしかして空の声だった?」
空は険しい表情のまま紅南を見つめた。不動の様は昨晩のようであり、紅南は若干たじろいだ。
空は眉を寄せたまま、やがて視線をそらして「そうだね」と曖昧に返答する。普段と同じように不機嫌で、かつ裏表のないまっすぐな瞳をしていた。
「一人にさせて」
「ふぇ? あぁ、うん」
空はどこか遠いところを見て廊下を歩いていってしまった。置いていかれた紅南の返事が、黒い廊下に情けなく反響する。
紅南は一人、もとの部屋に戻ってきた。
「ただいまぁ」
返答は期待せず、小さく挨拶をする。
特に変化は見られない。一応部屋全体を歩いて回って、何も事件が起こっていないことに安堵し適当に鎮座する。
「……一人?」
「うぉ!?」
紅南は思わず飛び上がった。変化がないなんてとんでもない。とんでもない変化が一つ起こっている。
目宮さんが暗闇の中、大雑把に紅南の方向を向いて口を開いている。
「目を覚ましたんだね!」
「一人か?」
紅南は喜びの声をあげるが、目宮さんは冷静だった。否、恐怖により感情がシャットオフしているようでもある。紅南は浮きかけていた腰を戻し、相手に合わせて冷静になった。
「うん、一人だよ」
「あの謎の少年もいないのか」
「空のこと? うん、今はいないよぉ」
「彼は何者なんだ」
紅南に問う形式を取ってはいるが、その言葉は紅南に向けられてる風ではなかった。余裕なく、紅南を壁として思いつくままに言葉をぶつけているようである。
「彼はダメだ。あいつは危険だ。ダメだよ、紅南ちゃん。あいつと一緒にいたらダメだ。逃げなきゃダメだ。あいつはおかしい――」
「ちょ、ちょっと待って。何を言ってるの? 空は別に悪い人じゃないよぉ」
「ダメだよ。ダメだ。みんな殺られる。逃げなくちゃダメだ」
「ねぇ、落ち着いて。ねぇ!」
ふらつきながら外へ行こうとする目宮さんを紅南は制止した。目宮さんは震えながら夢うつつの状態で外界へと手を伸ばしたが、少しして力なく夢の世界に落ちる。
「えぇ……」
紅南はへたりこんで、一人寂しく嘆きの声をあげた。
「ど、どうなってるのぉ……」
答える者はいない。




