〇話-邂逅
人口500人程度のごく小さな村。
村を囲む山々は、冬に入って葉の一部を落とし、その無数の細い枝を天高く伸ばす。
まだ日が上がりきっていない冬の外気で鼻先は赤くなる。
色のない無機質な世界の中に、住民の一人、神下紅南がたたずんでいた。
その視線の先には見知らぬ人間――、否、化物。
「なんで?」
それが、紅南が最初に発した言葉だった。
化物は紅南を見て少し考え込んだようだった。少し考えて、軽く微笑み、紅南に近づく。
「んんん? お話があるのかなぁ」
どうやらそうではないらしいことをわかっていながら、紅南はケラケラと笑ってみせた。さすがにまずそうだなぁと危機感を抱き、軽く後ずさりする。
しかし化物はそんな紅南を逃がしはしない。落葉で足場の悪い地面を軽く蹴った化物は、一瞬にして紅南の目の前に現れた。
ヒュン
軽い音とともに、紅南の毛先が舞い散る。
化物がその鋭い爪で、空を切ったのである。
紅南が避けなければ、きっと紅南の顔、いや、首を、掻き切っていただろう。
紅南はしばしケラケラと笑い続けた。状況の把握に時間を要したためだ。しばしの後に、
「なんで攻撃するの!?」
と、精一杯の大声を上げる。
化物はと言えば、紅南に避けられた手をまじまじと見つめていた。紅南の叫びには気が付いていないようでさえある。
だがそれも一瞬のことで、すぐに紅南に向き直った。
「ちょっと待って! 話せばわかるって! ね!?」
紅南の問いかけに対して、化物は応じる様子がない。次こそはと、紅南に連撃を試みる。
まだ状況を把握しきれない紅南は、雄叫びを上げて森の中を逃げ惑うほかなかった。
化物の追跡と攻撃を何とかかわしていると、気が付けば目の前に見知らぬ鳥居が立ちはだかる。
「ねぇ何!? これ何!?」
こんなものがここにあったの? そもそもここどこ? どこまで走ってきたの?
連続する予想外の出来事に、紅南は半ば無意識に質問を繰り返した。
もちろん応える声はない。後ろから音もなく追跡者が近づいてくるだけだ。
もう未開の地だろうが行くしかないと紅南が足を踏み出しかけたそのとき、ふと過去の記憶が頭をよぎる。
「あれ、もしかしてここ立ち入り禁止のとこ?」
思わず立ち止まる紅南。その背後に、いよいよ化物が迫る。
やばっ。気配を察して化物に向き直る紅南だが、もう遅い。
今背を向けて走り出す訳にはいかない。目を逸らすのはだめだ。
化物は紅南のすぐ目の前で止まり、様子を見ている。
身動きをとれなくなった紅南は、どうしたものかと使い慣れない頭を必死に働かせた。
どうしたものか、次も避けられるか、今さら話し合えたりはしないか。
頭がショートしてしまいそうになる中で、その脳は視界の隅にまた新たなものを知覚した。
青い物体。
決して鮮やかではない、そして自然には存在しない青。
さっきまではなかったはずだ。突如発生したか、あるいは背後から現れたのか。
――もう勘弁してよぉ
涙目になる紅南の隣で、青い色のそれは、もごもごとうごめく。
最初は間違って踏んでしまいそうな大きさだったのに、それは徐々に高くなって、最終的には紅南を少し見下ろすくらいに大きくなった。
紅南は警戒を強めたが、特に何をされるわけでもない。紅南にも化物にも干渉せず、紅南の隣にフラリとそびえ立っている。
紅南は、青の中に一瞬暖色が見えることに気が付いた。
あれは、肌色。
――人間?
紅南は恐る恐るその青の方に顔を向けた。
見たところ化物ではなく人間のようである。青い和服を纏い、長い髪は乱れもせずに肩にかかっている。
その恰好が普通の人間じゃなさそうなことや、500人の村人の中にそれらしい人がいないことは置いておいて、とりあえず紅南は安堵のため息をついた。
「お前、一体……?」
その言葉は、化物のものである。紅南の隣に投げかけられた。
自分の問いかけには応答しないくせに、やっぱりちゃんと話せるんじゃんか。紅南は少しばかりへそを曲げる。
「僕……?」
青い服の人間は、弱々しくそう応答した。その声と容姿から、紅南と同世代の少年のようだ。
少年は質問には答えずにぽけぇと辺りを見渡す。
「まぁいい」
化物の、腹の底を撫でるような声が響く。
紅南の本能が警鐘を鳴らし、彼女は少年の前に立って化物の行く手を阻んだ。
「餌がひとつ増えただけだ」
「……餌?」
気味悪い笑みが化物の顔いっぱいに広がる。応答はない。
どうしたものかと頭を悩ます紅南に、化物は容赦なく襲い掛かる。
「は?」
化物の攻撃を避けきれなかった紅南の頬に血がにじんだ。
その匂いに少年はたった今目を覚ましたようにして、目の前の理解しがたい状況に目を丸くする。
「は、何これ」
少年が慌てふためく声を上げようが、化物の攻撃は止まらない。紅南は避けるのに精一杯で少年に答える余裕はない。
このままでは紅南が化物の"餌"にされ、次いで少年が狙われるだけだ。
ほどなくして、ついに紅南が膝をつく。
疲労と、落葉のせいで滑りやすい足場と、背後の少年を守らなければならない状況が重なって、これ以上は避けられない。
間髪入れずに放たれた化物の攻撃はしかし、紅南まで到達することはなかった。
水だ。
直径がメートル単位の巨大な水鉄砲から放たれたように、大量の水が化物を襲う。
濁りのないきれいな水。雨は長らく降っていないし、大きな川や海も、近くにはない。
化物はあっけなく突如現れた水に飲まれ、水の中でもがきながら何度も木々にぶつかって山の下まで落ちていった。
水は途中で霧のように消え去り、乾燥した森が残される。
「――どゆこと」
呆然とする紅南の後ろで、少年が尻もちをつく。彼は、ただ驚いたにしてはひどく息を切らしていた。
「あなた何者?」
紅南の問いかけに対して、少年は戸惑う視線を返すばかりだった。