十七話-大宮家
「ようやく2人になれましたね、紅南」
紅南の視野を遮って、アスカは笑った。紅南の不安げな面持ちはそのままアスカに向けられる。
「彼らのことは置いておいて、私とお話ししましょう」
「……『置いておいて』?」
「おや、怒らないでください」
アスカが一層微笑むのと対照的に、紅南は眉を寄せた。
内心「怒ってるわけじゃないけど」とぼやき、紅南はアスカの背後で起こっている出来事を見ようとする。大きな体越しに見えるものはほとんどなく、混沌がかすかに聞こえるだけだ。
アスカは丁寧に紅南の目の前に体重移動する。右に左に動きながら、咎めるような視線をものともせず躍る声で話を持ちかける。
「行きたいのなら行ってもいいのですよ? ただ、おすすめはしませんけどねぇ」
「ここを離れたら、目宮さんが一人になっちゃうから。行けないの」
「ふむ? まぁどちらでも構いません。ただ、ここに残るなら私とお話ししませんか?」
申し訳なさなど微塵もなく、アスカは屈託のない笑みを向ける。紅南は覗き込むのを諦めてアスカと対峙することにした。真剣な眼差しを目の前の赤眼に向ける。
「お話しする気分にはなれないの」
「そう怒らずに。何でもお答えいたしますよ」
「怒るとかじゃ……」
絶えず口角の上がった顔を見て、紅南は視線をそらした。大きく深呼吸してまた顔を上げても、目の笑っていない彼の笑顔は変わらない。
「……じゃあ、楽多が無事か教えて」
「それはあの少年が確認していますから、いいじゃありませんか。もっと有意義に時間を使いましょう!」
紅南の不審がる目つきは、アスカにはまったく効果がなかった。ニコニコと、彼は語らいが開始されるのを待っている。せめてもの反抗として、紅南は無言に徹することにした。
2人とも沈黙して、辺りの音がより鮮明になる。パチパチという炎の音と人々の喧騒が空間を満たす。
新たな音として、エンジンの音。そして、薄霧と溶け合う砂煙が視界を茶色くする。
「何をしておる!」
不意の怒声に、紅南はまた肩を縮こまらせた。決して近くで叫ばれていないのに、すぐ隣で罵られたような圧がある。しゃがれた声は、聞き馴染みのある声だ。
「用意のある者はバケツに水を汲んでこい! ……おい、君は水を操るんじゃないのか。とっとと――」
「見てわからない? 今やってるでしょ」
ドスの利いた怒鳴り声に挑戦的な返答をするのは、空だ。炎の麓から沸き起こる水蒸気がさらに増加する。周囲の人たちも働き蟻のように動き始め、瞬く間にバケツリレーが完成した。
「彼、すごいですね。何者です?」
アスカが興味津々といった様子で大宮仁志の挙動を眺める。紅南は簡単に、「この村の棟梁さんだよ」とだけ説明した。
茶色と黒と白の煙が混ざる。紅南は動けずにただその状況を眺めていた。アスカも紅南の方を折々確認しながら、村の様子を観察する。
「あ」
ふと、アスカが声をあげた。しばらくたまげたような表情で固まったあと、地上に向かってよそ行きの笑みを浮かべる。
何か悪いことが起きたと直感して、紅南は尋ねたくないと思いながら仕方なく声をかける。
「どしたの?」
「ふふ。見つかってしまいました」
ぎょっとして紅南が下を盗み見ると、大宮仁志が恐ろしい形相で睨んでいる。「おい水使い。やつを至急始末したまえ!」などという指令も聞こえてくる。
「長居はできそうにないですねぇ。それでは、私はそろそろお暇します。仕事も残してきてしまいましたし」
地上では仁志と空の怒号が飛び飛び交っている。当惑する紅南の視野は、再びアスカに遮られた。
「紅南。別れの挨拶代わりに、一つアドバイスです。彼らを心配するのもいいですが、近くの騒ぎを聞き逃してはいませんか? 例えば、この下で起きていることとか」
「え?」
「それではまた」
「ちょっと待――!」
紅南は屋根の縁まで行きそうになって慌てて定位置に戻った。見つかってしまうのは面倒である。
「この下……」
代わりに、紅南は反対側まで移動する。人目につかないようにしながら目宮さんが眠っている部屋へと駆けた。そして、部屋の状態が見えるや否や、床が抜けるほどの力を解き放つ。
「お前は……!?」
紅南は、そう言った化物と目宮さんの間に陣取る。
――この部屋は、血の匂いしてない。
そう判断できてしまうくらいには、紅南はこの情勢に慣れつつあった。
警戒を緩めず腹式呼吸を完了させて、紅南は目の前の見知らぬ化物に尋問した。
「何しにここに来たの? お話なら私が聞く」
「話だぁ? バカ言うんじゃねーよ嬢ちゃん。わかってるだろ? 厄介な危険因子は始末するって」
紅南は返答に衝撃を受けることができなかった。同時に、理解することも尚できない。
微動だにしない紅南に、化物は苛つきを見せる。
「そこどけ嬢ちゃん」
「どかない。帰って。お願い」
「なぁ、俺は手柄を立てなきゃならない。ぼすのお気に入りの嬢ちゃんにはわかんないかもしれないけどな。さぁどけ」
「……お気に入りって、何?」
「俺が知るか。小賢しい手を使って取り入ったんだろ? 俺は愚直に手柄で成り上がるのさ」
紅南の動きが鈍る。加えて、廊下から足音が近づいてきた。それで紅南は姿を戻さなければならなかった。
化物はそれを見逃さなかった。一瞬の好機で前に飛び出す。
足音が部屋に到達する。通り過ぎる影に冷たい液体が当てられ、動きが鈍る。
それは本当に「当てられる」といった程度のもので、化物がこれで動きを緩めたのは驚いたからに過ぎなかった。この機を見逃さず、紅南はまた化物の進行先に割り込む。
「空!」
紅南は廊下を走ってきたらしい空と顔を見合わせた。空はすぐ化物へと目を向ける。呼吸と連動して上下する肩が、外の騒動の大変さを示している。
「チッ」
化物は勢いよく空の方へと飛び出した。そして、身構えた空の横を通り越し、廊下を駆け抜ける。
小さく聞こえていたトタトタといった足音が、ピタリと止まる。
空は何か叫ぼうとした。叫ぶよりも構えるのが早いと判断して、構えようとした。しかしいずれも間に合わなかったようで、廊下の一点を睨み付ける。
「攻撃すんなよ。俺を逃がしさえすればいいんだ」
今度は空が舌打ちをした。こわごわ廊下に出た紅南は、空が動かない訳を知った。
「彼女をどうするつもり」
冷たい声で空が尋ねる。空の視線の先では、化物に捕らえられて首筋に爪を当てられた――仁奈がいた。
「贄にする」
「そう。つまりどうせ死ぬんだ」
「おっと、こいつごと殺そうって? んじゃ、人質ってことにしよう。お前が俺を逃がすなら解放する」
空の顔が険しくなる。それに対して、化物は勝ち誇ったように笑ってみせた。
「よし、それでいい。そのまま……」
余裕綽々とした化物がふと黙り込む。仁奈が首もとの手をつかんだためだ。
化物は視線を落として彼女を見つめる。それは空や紅南も例外ではなく、仁奈は3人の注意を浴びる。
「えぇ、それで大丈夫よ」
紅南は背筋に冷たいものが伝うのを感じた。仁奈の表情も声も、見知ったものよりずっと冷徹に見えた。
「こんなところで死ぬのは嫌だもの。少しでも生きる可能性に賭けさせてちょうだい」
「……なんだ、命乞いか?」
「それじゃ生きる可能性ないじゃない。私そんなにバカじゃないわ」
化物の返答は聞こえなかった。ただ、空の耳には空気が断裂するような重い音が聞こえた気がした。そして、歪みが廊下中を埋め尽くす。
このとき、廊下に立つのは紅南、空、仁奈の3人。
「……は?」
化物の姿は前触れもなく消えた。廊下の歪みが溶けた頃、液体の滴り落ちる音が時間の経過を告げる。
化物の痕跡といえば、仁奈の手に握られる手首と、光に反射する数本の白髪のみ。
「消した、の」
空のつぶやきに、仁奈は遠慮がちに微笑んだ。
そして、持ち主のいなくなった手首を適当に放りやって、足元から静かに崩れていった。




