十三話-空
行きは紅南が電話片手に移動していたから、帰りは走れば一瞬だった。少年は巻物の力で、紅南は本来の能力で。
紅南に案内された家は、確かに少年が寝ていたところの近くにあった。
玄関に着いて、紅南は躊躇なく引き戸を横に引いた。防犯の「ぼ」の字もない状態で、戸は抵抗なく2人を招き入れる。
中も、木造。左手にある棚には、帽子や防寒具に紛れて集会らしき写真が飾られている。足元には客用なのだろうスリッパが用意してあった。
軽く見渡してもさすがに部屋の様子などは見えてこない。茶色い廊下があるだけだ。
インターホンは靴を脱いで上がる手前の壁に取り付けてある。紅南はインターホンには見向きもせず「お邪魔しまーす!」と叫んで、迎えが来るのを待たずに靴を脱ぎ始めた。
少年が紅南に倣って脱ぐべきかと考えしゃがみ込もうとしたとき、木製の廊下に足音が響く。
急いではいるが、控えめな感じがする。軽い。乱雑ではない。
独特のリズムは、スリッパを履いた状態で小走りになっていることを示していた。
壁からその人の一部が見えて、少年はここには自分たちと楽多以外にも集まっていることを思い出す。
――目宮さんのところにいるって
確かに、楽多は言っていた。すっかり忘れていた。
少年と目があって、その人は一瞬意外そうな顔をして、間髪入れずに顔を綻ばせる。
「また会ったわね」
嫌味とも無関心とも取れそうなその言葉を純粋に好意的な挨拶として用いることができるのは、一重に彼女の柔らかい笑顔のお陰だ。
木漏れ日のような温もりを持ったその笑顔を、少年は少なからず苦手としていた。曖昧な返事を返しながら顔を背ける。
そう、彼女は仁奈。少年に服やらを運んできた住民だった。
紅南はもう靴を脱いで、スリッパに足を入れている。
「さぁ、上がって! 楽多も待っているわ」
仁奈に急かされて、少年はしゃがみ込んだ。慣れない現代の靴を何とか足から離してやり、代わりにスリッパを履く。さっき紅南がやったように。
「行きましょう」
仁奈の声で、3人の行進が始まる。床を叩く音と擦る音が、協奏曲のように木に響く。
仁奈の足が止まる。少年と初めて会ったときよりもナチュラルに、しかしやはり厳かにふすまを開ける。
その部屋は少年が寝ていたところによく類似していた。和室で、過ごしやすいくらいまで温められている。床に布団が広げられているところまでそっくりだ。
布団の中で、40代程度と思われる男性が仰向けになっている。
彼が目宮さん。少年は彼を見ると同時にそれを理解して、その隣にいる人物へと目を向けた。
その人物は、簡単に手を上げて歯を見せて笑った。
田中楽多。
心配した時間を返してほしい。ヘラヘラした顔を見て少年は怒りを覚えつつ、アイコンタクトで簡単に挨拶を返す。
「無事だったんだね」
「へ? 何が?」
「……いや、よかったよ」
状況を説明するためには、どこまで説明するべきだろうか。考えかけて、少年は口をつぐんだ。
端的に言って、面倒だ。
「何か、向こうで動きはあった?」
「なーんにも。こえぇくらいに何もなかった」
そうでなければ、今そこで呑気に座ったりはしていないだろうね。少年は独りごちつつ床に座った。
「でも、何もないわけないよ」
「は?」
「少なくとも一人、そっちから来てたみたいだから」
楽多の顔色が変わったが、少年は知らないふりをした。
「それで、持ち場を離れてまでここに来て、何してたの」と冷ややかに言い放つ。紅南が密かに制止したのも気づかないふりをした。
「あ、あぁ……名前、考えたり?」
「名前?」
楽多はわかりやすく動揺を示しながら、一応それを隠すように努力しているようであった。上ずった声は震えている。
少年は記憶を辿っていった。そして、数十分前の記憶に辿り着く。そういえばそんなことも言っていたかもしれない。
「そうそう、やっぱ仲良くするには必要だよなーって、仁奈と一緒に考えたり」
自然と、部屋にいる人物の視線が仁奈に集中する。仁奈は何も言わずはにかんだ。
少年は楽多と仁奈の顔を見比べて、最後に紅南に目配せをする。意図を理解していない紅南が名前について掘り下げようとして、今度は少年が制止する番だった。
「他に情報がないなら、僕たちは外に出る」
そう言って、紅南の裾を引き寄せる。紅南も今度は彼の言わんとするところを理解した。
しかし、立ち上がろうとした2人をさらに仁奈が止めた。その瞳はまっすぐ少年に向いている。曇りなき瞳に、少年は警戒をもって見つめ返した。
「おじいちゃんが、あなたと話したいって。もう少しで来ると思うの」
「は? なんで僕が君の家族と話さなきゃ――」
説明が大幅に省かれた申し出に、自然と文句が口をつく。
少年の言葉が止まったのは、紅南と楽多が、明らかに目を合わせたからだ。それも、焦りを含んだ表情で。
「……何」
不気味な状況に顔を強張らせる少年に、紅南と楽多も同じ表情を返した。
よく耳を澄ませると、床が軋む音と固い音が少しずつ少しずつ近づいている。
「何なの?」
声を潜めて少年が尋ねると同時に、扉の前で足音が止まった。
「ちょっと」
少年はなおも囁くが、誰も彼も曖昧な表情を返すばかりだ。
答えを得る前に扉が開かれた。
そこにいたのは、知らない人。70・80歳くらいの男性。背は比較的ピンと伸びていて、片手にはほとんど不要そうな杖が握られている。
彼が祖父なのかと仁奈に問う間もなく、心臓の奥に響くような威厳に満ちた声が響く。
「君か。水を操るというのは」
おそらくデフォルトとして有している険しさが、外気とともに室内を冷やしていく。
少年はおもむろに彼に近づいた。臆せずその老人に立ち向かおうという少年を、取り巻きは若干不安な表情で見つめる。
「なんでそんな顔をされなきゃいけないの」
質問を質問で返されて、老人のこめかみがピクリと動いた。
膠着状態が長引くにつれて両者の眉間のシワは深くなる。冷気と暖気の狭間で、息が詰まるくらいに空気は張り詰めていた。
「質問に答え給え」
その老爺は存外力強い足どりで少年の方へと足を踏み出した。深く刻みこまれたシワがすぐ近くまでやってきて、少年は思わず息を呑む。
「どうなんだ」
筋肉がそんなについているふうでもない、どちらかと言えば弱々しい体つきだが、その体から発せられる5文字には言葉にし難い威圧感があった。
少年が怯みとプライドの狭間で揺れる間に、老人は独り言に移る。
少年から目を背け、一歩一歩ゆっくりと、少年の横を通り過ぎていった。当然のように部屋の中央で立ち止まり、何もないところを見上げる。
ただ、少年に背中を向けながらも、彼は確かに少年を警戒していた。
「この村にはいずれ侵略者が現れると言い伝えがあった」
その言葉に驚いたのは、少年よりも他の3人だった。4人の視線を集めながらその老爺は180度振り返る。少年の瞳の奥を覗き込む眼差しは、さっきとはまた違って、真夜中の大海のように落ち着いていた。
「この村に恨みを持った者が、復讐のため、野望のために侵略するのだと。迷信だと信じたかったが、まさかワシの代でそれが来るとは」
驚きを口にしながら、老人の様子は淡々としていた。感情のない顔の中に、感情のない殺意が見え隠れする。
空間が歪み始めている。
「その侵略者が君か」
その眼差しは、少年の核を射抜く。
少年の気道が一度閉じられて、声が出るかわりに空気が喉を通る。
目を丸くする少年を空気の歪みが飲み込んだ。歪み、これは、巻物に見たのと同じような。
「おじいちゃん!」
歪みに気づいて飛び退く準備をしていた少年は、思わぬところから発せられた金切り声に肩を震わせた。
改めて息をつくとそこに歪みはもう存在していない。
「仁奈――彼は信用なると言えるのか」
「少しでも不審だからって消すのは良くないわ」
――消す?
物騒な単語が飛び交っている。少年に向けられるよりも温和な老人の声と、少年が知るよりも冷徹な女の声が対立している。
少年は警戒を強めた。彼が何か――おそらくは、少年の存在を消すような攻撃を試みたのだと推測される。この村の一部の人が持っているという能力だろうか。
(どうしたらいい?)
予兆として僅かな空間の歪みがあるとはいえ、能力の詳細もわからない。対処のしようがない。
「――ちがう」
何度も喉奥で堰き止められた言葉がようやく音となって発出される。
対処を考えるよりも、説得を試みるほうが現実的だ。そう考えて出たのは凍えたような声だった。
こんな弱々しい声は、当然説得には使えない。
少年はなるべく自然に深呼吸をして、喉の準備を行った。調子を取り戻すため、無意味に数センチ胸を張る。
「侵略者だとか、適当なこと言わないでほしいね」
「言い伝えは300年の歴史を誇るものだ。適当なはずがあるか」
「そんなの知らない。……だいたい何、消すだとか、何の筋合いがあってそんなことされなきゃならないの」
「十分な筋合いはある。違うか?」
「違う」
「決定権はワシにある。十分な筋合いがあるのだよ」
相変わらず淡々としている。そして、少年が少し黙るとまた辺りに空間の歪みが発生する。
「ワシは大宮仁志という。君なら知っているかもしらんな」
「知るわけないでしょ」
知るわけがない、知ったこっちゃない。他人の名前など。
大宮仁志――大宮。
大宮?
大宮家は、この村の多くを牛耳っている人だったはずだ。なるほど、それならば先の発言にも納得がいく。
つまり、仁奈も……と言っている余裕もないほどに、少年の周りの空間は溶媒が溶け込んだようになっていた。
目の前にいるのは大宮家当主。そうであっても。そうであればなおさら。
説得は続けなければならない。
できれば、早急に。視界を遮るほどに世界が歪んでいる。
少年は改めて当主の瞳を真っ直ぐに見つめ返してやる。それだけで、溶媒の広がりが少し緩くなった。
「わかってるでしょ。僕は君たちを助けた。彼らに攻撃もされた」
「それは侵略者でない確かな証拠にはならん」
部屋の隅で紅南が体を強張らせた。確かに、彼女も侵略者でない明確な証拠は出せていないが。
かと言って、どんな証拠が直接的に証明してくれるというのか。演技だと言われれば、すべてそれで説明できてしまう。
少年は理不尽を感じながら、極力論理的であろうと努めた。
「今朝より前のことは、何も覚えてない。僕にあるのは、彼らに攻撃されて、君たちを助けたっていう事実だけ」
「そんな適当な理屈で逃れようとするか」
「理屈も何も事実を並べてるだけだよ」
少年は圧に押されないように、手のひらに爪を食い込ませる。これを「適当な理屈」と言われてしまっては何も言えることがない。怒りはしまい込んで、最後の一言はなるべく力強く、冷静に。
「少なくとも、今の僕は侵略者じゃない。それ以外の事実はない」
力強く、遠回りにはなったが質問に返答する。大宮家当主の顔がほんの数ミリ無に戻った。
少年は少し顎を上げて、しっかり彼の目を睨み返す。緊張感のある沈黙が続く。
目を逸らしたのは当主の方だった。
(勝った)
少年は思い切り威張ってやりたいのを必死に堪え、気を引き締める。視界は良好になって彼の勝利を称えていた。
少年のかすかな期待に反して、当主は声の調子を変えずにあくまで淡々と統治者であり続けた。
「よかろう。君がその言葉が守る限り、ワシからは居場所を与えてもよい。この村には戦力が必要だ」
居場所を与える、というよりは、居場所を奪わないでやる、――さらに言えば、存在を消さないでおいてやる、と言った方が適切そうである。
恐ろしい村で目を覚ましてしまったものだと将来を案じる少年は、最後の言葉が気にかかった。
「……戦力ってどういう意味」
「ままだ。この村に命を懸け給え」
一切迷いのない物言いだ。
少年の緩みかけていた表情は、次第に険しくなる。
「――は?」
「さて、仁奈、一緒に来なさい」
「ちょっと」
当主はもう少年のことなど眼中になかった。申し訳なさそうな顔をした仁奈もろとも扉の向こうへ消える。
知らぬ土地に命を懸けることを求められる。従わなければ消される。
本当に恐ろしい村に来てしまったと、少年は絶望に近い感情さえ覚えた。
「あ、あぁー」
壊れかけたブリキのおもちゃのような動きで、楽多が何とか声を出す。
「あのさ、仁奈のじいちゃんも、別にお前を嫌うわけじゃねえんだ」
立ち尽くす少年はわかりやすく気を使われて、向けどころがなくなった不服な気持ちを彼に向ける。
「僕は彼に消されかけたみたいだけど」
「……それは、そうだな」
「しかも、道具としてしか見てないらしい」
「……おう」
弁護できないのか。紅南も少年と同じことを思ったようで、咎めるような視線を楽多に送る。
楽多はゴホンゴホンと咳払いして、晴れ渡る笑顔を作ってみせた。
「お互いさ、助けが必要なことはたくさんあると思うんだ。だから、お互い助け合おうってことだ! 戦力とか、そんな怖いこと考えねぇでさ!」
紅南は首を縦に振って、激しく同意を示す。少年は赤べこと化している彼女を一瞥して、すぐに楽多に向き合った。
「僕が村に命を懸ける代わりに、村は僕を守るために命を懸けてくれる?」
「そ! そんな感じ!」
「……どうかな」
あまりに何も考えていなさそうな返答は、信用に値するものではなかった。そもそもその村の当主が、まったく守ってくれそうな様子ではない。
「もういいよ。従いさえすれば彼からの攻撃は免れそうだ」
諦めをふんだんに含んだ吐息が、廊下から入ってきていた冷気と混ざって白く曇る。
少年がもう一度暖を取ろうと部屋の中央に足を踏み出すのが早いか、楽多が少年の方に向かってきた。
「仲間になるってことでさ! やっぱ必要だと思うんだよな!」
「は、何が――」
少年の顔を叩きつけそうな勢いで、白い壁が突きつけられる。そこには黒いシミで形が作られていて、嗅球を包み込むような独特の香りがした。
「何これ」
「名前だよ名前! ほら、考えたって言ったろ?」
少年は圧に仰け反りながら、黒と白のコントランストを眺めた。
見たことがあるような気もする。太さと、伸びと、時折現れる先の細り。平面に隠れた立体的な動き、線に隠れた不確かさの集合。
「『空』!」
キョトンとした少年は、一拍置いて、それがこの紙に書かれた内容であることを理解した。
「どう?」
どうもこうもない。少年は楽多の期待に満ちすぎた瞳を直視できなかった。視線を逸らした先で紙を見つめるが、そこに書かれているものを記憶から引き出すことはできない。
「そう呼びたいなら呼べばいい」
それ以上も以下も、返答する言葉が見当たらない。
視界の隅でも、楽多の顔が輝いたのがわかった。少年は面倒な顔を露骨にしてみせるが、楽多はそんなことお構いなしに笑顔を向けてくる。
「よろしくな! 空!」




