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十二話-休戦

 少年はしばらく彼女の指さす方向を見つめていた。持つべき感情もわからず、無機質な木々を目に焼き付ける。

 そんな少年を紅南は様子を窺うように見つめていた。少年は絶えず情報を整理ながら、足元の小動物のような獣に視線を移す。


「……やっぱり何か知ってるんじゃないの」

「本当に知らないんだってば!」

「ふーん」


 本当に本当なの! と叫ぶ紅南を、少年は冷たく見下ろす。

 発言とは裏腹に、少年はもうさほど彼女を疑ってはいなかった。この焦り様が演技なら、今すぐにでも女優になったほうがいい。

 少年の冷めた視線は懐疑というよりも呆れによるものなのだが、そのことに気づけるほど紅南に余裕はなかった。


「本当に色々ありすぎて、私ももう何がなんだか……」

「わかったから落ち着いてよ。話にならない」


 すっかり少年とは比にならないくらい混乱していそうな紅南を見かねて、少年は目を逸らしてやる。


 現実が見えていない飄々とした楽観主義者に見えていた。虎視眈々とした侵略者の卵である可能性もあった。

 しかし、蓋を開ければなんのことはない、少しの刺激で崩れてしまう一人の子供である。

 その平凡さに、少年は嘆息した。


 紅南は「落ち着いて」という少年の言葉に従うため、大きな腹式呼吸を行った。わざとらしく体の空気を入れ替える中で、目に見えて冷静さを取り戻していく。


「とりあえず、これまでの状況とは矛盾してない」


 紅南が落ち着いたのを見て、少年は口を開いた。


 化物が現れたのは、確かに大宮家の近くと紅南の家の近くだった。

 入口が2箇所に限られているなら、その2箇所を監視しておけばいい。場所が場所なだけに挟み撃ちにされる危険はあるが、制限なく現れるよりはいい。

 少年は希望が潰えなかったことに安堵した。


「もっと具体的な場所はわからないの」

「わかんない……けど、アスカは大宮さんの方から来たんだって。それで、他の人たちは私の家の方から来るって言ってた」

「そう」


 ならば、注意すべきは神下家か。もちろん、あのアスカの言葉を信じるなら、ということになるが。


(あれ?)


 少年の思考が止まる。否、急速に回転する。


 化物は数多く存在する。そのほとんどが、神下家からやってくる。

 少年は抹消が急激に冷やされる感覚を知った。


 今、神下家近くに、一人でいる人物。

 楽多が危ない。


「……どうしたの?」


 突然黙った少年に、紅南は上目遣いに声をかける。


 少年は紅南に答えることができない。深く冷たい息を吸い込んで、呼気を制御できないままに声帯を働かせる。


「――話は後にしよう。その……楽多、のところに行かなきゃ」

「楽多?」


 人の名前を呼ぶことは、最初は躊躇うものなのだと少年は学んだ。その発見を冷静に吟味する時間はなかった。


 紅南は彼の発言の真意には気づかず、ポンと手を打った。

 彼から連絡が来ていたのをすっかり忘れていた。彼の名前を聞いて思い出した。


 カバンなどを破ってしまってはいけないので一度人間の姿に戻って、スマートフォンを取り出した。一瞬で姿が変わったことに、少年が怯える余裕はなかった。


「それ……魔法」

「魔法? スマートフォンのこと?」


 少年の言葉に首を傾げながら、紅南は電源を点ける。

 案の定、通知が数件溜まっている。すべて楽多からのものだ。返信しなきゃ、とつぶやきつつ、紅南は少年に向き合った。


「楽多がどうかしたの?」

「彼は、君の家の方に行ってる」


 紅南は首を傾げた。少年が何に焦っているのか、まだ理解できていないようだった。


「君の家の灯りがついてた。多分、もうすでに相当な数が来てる。君の家に」

「え? ――あ」

「そういう状況」

「で、でも、別に敵とは限らないんじゃない? 楽多とも話せば仲良くしてくれるかも」

「本気で言ってる?」


 いつかのような問答を再現したあと、2人は示し合わせたように同じ方向を見た。


 そもそも楽多の方も、決して化物に対して友好的ではなかった。少年は決して救いにならない記憶を呼び起こす。化物も楽多も、互いに話し合いに持ち込むとは思えない。

 戦うにしても、巻物の力はあれど先程のコテツのように簡単に避けられる可能性も考えられる。数の面では楽多が圧倒的に不利だ。


 紅南はもう一度スマホに向き直って、しばらく操作したあと耳に当てた。


「……何してるの」

「電話してみる」

「『デンワ』?」

「うん。遠くでもお話できるの。移動しながらにしよっか」


 十分な説明が得られず不服ながら、少年は紅南の後についていった。

 彼女のスマートフォンを持つ手はかすかに震えている。落ち着いて振る舞っているようではあるが、その瞳の中に映る動揺は隠しきれていない。少年にかまっている暇もないようだ。

 少年は諦めの感情を懐きながら、紅南が持つスマートフォンとやらの画面を注視した。


 程なくして、画面の動きが変わる。


「もしもし、楽多!」


 モシモシ? 質問する隙を見つけられないまま、紅南の減速に合わせて少年は立ち止まる。

 紅南は独り言をブツブツと呟いた。どこからか――おそらく板の中から、楽多のような少しくぐもった声が聞こえていた。


 紅南は少年を置いてきぼりにしたまましばらく話して、膝から崩れ落ちる。


「ちょっと」


 意図せぬ動きに警戒し声をかけた少年に、紅南はやっと目を向けた。

 久しぶりに見た彼女の笑顔は力の抜けた、曇りない笑顔だった。




「先に目宮さんのおうちに行ってるって!」


 紅南からそう聞いたとき、崩れ落ちこそしなかったものの、少年は心臓が一気に仕事をやめたのを感じた。

 紅南は表情筋を崩して笑った後、声を出さずに泣き出きだした。それでもなお笑顔だったので、支離滅裂な表情に少年は思わず後退りする。


「確かに、『目宮さん家で集合』って連絡入ってたかも!」


 少年は紅南の確認不足を責めることはしなかった。ただ彼女の様子を、その向こうにある彼女の内面を、食い入るように見つめた。

 焦りと警戒がスゥっと引いたことで、心の空いたところが自由になって彼の思考を手助けする。


 友人の無事を聞いてこれほどまでに安堵する彼女に、不信感を抱くことはもはや不可能に近かった。数刻前の感情が嘘のように、今や少年は「彼女のことを信じなくてはならない」という第六感の提訴さえ聞いていた。

 それでも彼は彼女を信じるという決断を未だ拒んだ。彼女の正体のこともあるし、彼女の言うことはしばしば理解できない。


 物珍しい生命体を見るような少年の視線の先で、当の本人は画面を確認して「ほんとに連絡入ってた!」と頭を抱えている。

 誤魔化しようのないその挙動に、本当に嘘がないか、無意識に期待もしながら少年は紅南から目を離さずにいた。答えは、わかっている。


 少年は息をついた。

 時間の無駄だ。


「僕はまだ君を受け入れるわけじゃない」


 それは、紅南に対してというよりは自分に言い聞かせるための言葉だった。素直になれない気持ちをどう処理したらいいか知らない少年は、淡々と話すように意識しながらも、自然に語気は強くなる。


 今さらまた怒っているようにも見える少年に、紅南は戸惑っていた。その悪意のない表情が、かえって少年の語気を荒らげさせる。


「君のことは一度保留にする。今は楽多と合流するべきだ。何か情報を持っているかもしれない」


 紅南はコクコクと頷いた。少年は一層強く、紅南のことも、自身の心も抑えつけるような声になって続ける。


「君のことはまだ受け入れない。でも、今は信用する」

「あ、ありがと!」

「……別に」


 少年は彼女から背を向ける。2人が来た方、目宮家の方へ。

 紅南が改めて少年の背に目を向けた気配がした。少年は気づいていないふりをする。

 程なくして、紅南が少年の横に並んだ。


「行こう」


 2人の声が重なる。顔を見合わせる。お互いの意思が、少なくとも今はもう一度重なったことを確認して、2人は前へ踏み出す。

 日は傾き、木々の隙間から視覚には暖かい光が森の中を照らしていた。

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