第4色
第4色
連日相次ぐ原因不明の病気に、近隣の学校は休校を余儀なくされた。例に漏れず、優季の通う学校も臨時休校だ。
というのに、優季は大学に来ていた。無論、用も無いのに足繁く出向くほど大学が好きなわけではない。休校の通知を見るより先に、何かと好かれている教授から呼び出されたからだった。
「やぁやぁ、今日も相変わらず気だる可愛いね」
陽気な挨拶で出迎え、苦笑混じりの優季に紅茶を出す。なお、当の教授は瓶ビールを呑んでいた。まだ日が昇ったばかりだというのに。いや、彼女からしたらようやく夜が明けたという感覚なのかもしれないが。どちらにしろろくでなしなのは見た通りだ。
「クラウスさん、今日休校なのに来ても大丈夫なんですか?」
「ノンノン。友人を家に招いただけだよ? 何も問題は無いでしょ」
その発想がアウトだということに本人は気付かないのだろうか。優季も名状しがたい表情を浮かべる。この女は思考も行動もネジが飛んでいるとしか思えない。ある意味で稀有な、興味を持ちたくない人間である。
それが影響しているのか、この教授室も特殊だった。
まずは場所。地上にあるものの、大学の設計上地下二階という意味のわからない場所に位置するため日当たりは極悪。というより、窓を開けても崖しか見えない。
また、L字廊下の突き当たりにあり、廊下を共有する部屋が軒並み閉鎖されていることも手伝って、異様に静かだ。静かで、閑散として、じっとりと嫌なものを感じる。もっとも、これらの部屋は優季の目の前にいるクラウス・バルトリオによって私物化されているのだが。
そして室内は無駄に小綺麗なものの、机とその奥は奇妙に乱雑としている。書類や書籍は種類がバラバラながらキチンと積み上がり、モニターが数台、天井に吊られたり、アームに繋がれたりしている。無造作に置かれた数個のゴミ箱の中身はしっかり分別され、大小様々な箱が色別に重ねられていた。
極めつけはその容姿。タイトなデニムに淡いピンク色をしたバタフライスリーブのトップス。その上に煤けた薄緑の白衣擬きを羽織っている。顔には妖艶で無邪気な笑みを浮かべ、その艶肌は赤子のそれすら凌駕している。サイドテールに結ばれた金色の絹髪は、それそのものが光を放っているようにさえ見えた。
清廉な不気味さ。整然とした歪さ。まるで机が境界となっているかのように印象が違う。もはや向こう側は秩序の違う異世界だ。やつは異世界の住人で間違いないだろう。そうでないと、理解できない理由が分からない。自然、優季もこいつの思考からは目を逸らしてしまう。というか、何歳なんだこいつは。
「あぁそうだ、ハルちゃんは元気かな? こう見えてちゃんと心配してるんだよー。あ、もちろん優ちゃんもね」
「はい、おかげさまでこの通り。いまいち意思疎通が難しいですけど、仲良くやってます。多分」
取って付けたような優季への心配はさておき、懐に隠れていたハルが顔を出す。相変わらず何種なのか優季は分かっていないのだが、クラウス曰く一応ネズミということらしい。モフモフして気持ちが良いとは優季の評だ。
「それで、あの、呼び出しは何のために……?」
「んー? 暇してたから?」
優季が頭を抱える。実際、休校になるくらいの騒ぎの最中なのだから一応の理由くらいは考えていて欲しかった。
「あーそうそう、コンタクト。この前失くしただとか壊れただとか言ってたから新しいのあげるね。予備は今ので打ち止めでしょ?」
と、本当に今思い出したかのように声を上げる。差し出されたのはコンタクトケースにしては大きめの小箱。中には綺麗に密封されたコンタクトレンズが三セット並べられていた。これで一ヶ月は持つだろう。正直、優季はコンタクトも苦手ではあるのだが、裸眼よりはましだ。
ましてや、横に添えられたこのあからさまな眼鏡ケースの中身を掛ける事など絶対ない。
「えー。似合うと思うんだけどなー。守りたい系黒髪小柄眼鏡っ子とか絶対受けると思うんだけどなー。うん、絶対可愛い」
カナエと同じ事言ってる。どの層の需要を狙っているんだ、お前達は。
そんなハイテンションになりつつあるクラウスにテンションを吸われたのか、優季の表情に陰りが落ちる。やはり、ここに来ても可愛いという呪詛は優季の心を削っていく。柔らかなはずの言の葉が、その薄い断面で削いでいく。
それを表に出さぬよう、愛想笑いをするので精いっぱいだった。
けれど、大丈夫。自分に嘘を吐くことなど、もう慣れきっているのだから。そう己に言い聞かせる。無色であることが当たり前だと。
ハルが小さく鳴いた。
クラウスは愉しそうに虚空へ眼をやっている。無論、優季の心情を知った上での発言だ。思い通りの反応を堪能した後、何処とも無く視線を向けていた。
そこから一拍。気乗りしなさそうな顔で優季に向き直る。
「えーと。まぁ、一応? 巷もといこの近辺での話題に乗っておこーか。あれ。あの病魔」
こちらに勘付いてか、はたまたいつものきまぐれか、クラウスが優季の懸念を口にする。そこには一切の興味もなさげだったが、放り投げるわけにもいかないものだった。クラウスが、ではなく、優季が、だ。
病魔。確かにあれは、病と呼ぶには些か不気味だ。いや、魔的と言うべきだろうか。魔術的、魔物的。……悪魔的。人界とは一線を画す存在によるもの。
「あれは、病気、なんですよね……?」
怖々と優季が訊ねる。優季が以前垣間見たもの。昏い感情の奔流。それでいて妖艶で、蜜壺のような甘美さを持った異物。それが、引っ掛かったまま無くならない。
「あれねー。ほんと、なんだろうね。病巣、魔の巣とでも言うべきなのかな? いや、巣とか作らないんだけどさ。これまた在り方が随分とねじ曲がってるのが不思議なんだよねー。裏返しというか、とうさくてきというか。そんな感じー」
ころころとクラウスは無邪気に笑う。まるで新しいおもちゃを与えられた幼子のように。
実際、本人はそのような感覚なのだろう。面白おかしく、その正体を知りたがる。
だが、そんなものクラウスはとっくに知っているのだ。知っていて、知らない風を装う。知りたいと言いながら、既に余すところなく知っている。タネを知っていても、実際に見るのは面白いと言わんばかりに。
それには同意する。まったくもって同じ意見だ。知識と経験は別のものだ。理解と実践は同一ではない。
だからこそ分からない。
分からないのに、興味が無い。
理解出来ないのを理解する。
クラウスが楽しそうに笑む。優季にでも、ハルにでもない、どこかに向けて。高らかに。
「まぁ、理解らないことも楽しまなくっちゃね!」