第1色
第1色
暗い愛に満ち満ちた濁流の渦。清閑な夜の森、病院の裏手にはよく似合う闇。その中から、少女が一人飛び出て来る。猫のような跳躍と着地を経て、凶器を握り締めた手の力を少女は緩めた。
……まだまだ子供か、私も。
小雨が月明かりを弾く中、なおも渦巻くそれの向こうを見つめ、自嘲する。情が湧いたわけではない。殺意が失せたわけではない。ただ、ただ一瞬。ほんの一瞬、思い出してしまった。封の中の、もう亡いモノを。
『まま、まま。" "をうんでよ、まま』
発生機能の未熟な音が束になって押し寄せる。渦から我先にと這い出るモノが、やがて人の子を模していく。溢れるアイが、赤子のように成っていく。
だが、それだけだ。それまでだ。それ以上は望めない。望むべきではない。それは、それで完結した話なのだから。
やがて、それらはそうであるのを思い出したかのように、当たり前の様に、そう成った。
―――裂かれた腹から全ての愛が溢れる。母性愛。そう呼ばれていたもの。そう呼んでいたはずのもの。もはや、見る影もないもの。裏返ったもの。愛しさで満ちていたはずなのに、どうして私は憎悪を吐き出しているのだろう。
女にとって、ただただそれが不思議で疑問で不可解で、自然なものだった。
濁流のような愛憎の中で、優しく抱きしめる。我が子を。我が子だと信じているものを。
それが、自分自身であることすら理解らずに……。
"羊"。胎内から成り、胎内から出られなかったもの。胎内で全てを終えたもの。或いは、胎内そのもの。迷いに迷い、迷えずに、己すら救えず、母すら愛せず、何もかもを裏返してしまった、魔の巣窟。名は体を表し、化け物はバケモノらしく、姿を見せた。
―――浦河愛理。……なるほど、皮肉なくらいにお似合いだ。
少女はその姿に、その出来損ないに、そう思わずにはいられなかった。
乳幼児が体表を守る、倒錯的な羊。本来ある筈の頭部は無い。代わりのように、腰には角の生えた人間の、浦河愛理の上半身が在った。
否、逆だ。本来言い表すならば、こう言うべきだ。
浦河愛理の下半身が羊と化した、と。
それを錯覚させるのは、大きさ。等身大、本来と変わらぬ浦河愛理が小さく見えるほどの、羊の体高。それは、木と大差が無い。
大きければ良いと言うものでは無い。無いのだが、やはり大きさというものはそのまま威圧へと繋がる。小さきを圧倒する。視える人間がいれば、腰が砕け、ひざが笑うだろう。同じ土俵に立つことすら許さぬ、そして、土俵から降りることを許す母性愛が、カタチを作り、立っていた。
立っていた。
悪魔そのものが。
『まま、まま。" "をうんでよ、まま!!』
声に鳴り損ねた声が反響する。木霊のように、胎動のように。少女は再度凶器を、狂気を、紅い刃を握り締める。昂ぶる感情と、震える心を鎮め、深い呼吸をし、一言、心の封を紡ぐ。
―――罪を断て。
躍動、跳躍。瞬間の出来事は認知を超え、少女はバケモノ全ての視界から須く外れる。どちらが先だったか、羊の後ろ足が跳ね飛び、紅刃が月光を反射した。
『いたい、いたいよ、まま……』
絶叫。いや、そうかどうかも分からない音響。電子音にも劣る不協和音が月の下で鳴り響く。膝から下を失った巨体はぐらりと傾き、地面に倒れ伏す、筈だった。
綺麗な切断面から、鮮血の代わりのようにアイが溢れる。アイは子と成り、子は、母を支える足へと変わる。ごぼり、と今までより遥かに現実じみた音が無くなる頃には、非現実が不格好な足を引きずり、なおも立っていた。
自覚も無く、浦河愛理の表情が笑みに変わる。優しい優しいその笑みは、何を思っていたのだろうか。そして、その笑みを守るかのように、体表の乳幼児達は少女に向かって手を延ばす。
イビツなカタチが、イシをモって。
――――――。
少女の一瞬の逡巡は、恐らく無意味なモノだ。それでも、考えてしまう。封をしたはずの何かに問いかけるように。
そうして少女はまた、紅く光る刃を翻す。