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「ほんと困りますよ、井口さん」
「何またセクハラでもされたの?」
「いくつになっても元気なもんだね。彼氏いるの? なんて質問、何の意味があるんだか」
「南さんの事好きだもんなー井口さん」
「勘弁してよー」
看護師達の他愛もない会話が耳を通り抜けながら、私はあれから坂井の言葉を頭に置きながら業務に勤めた。
“影に注意してください。影はやはり、死の予兆だと思われます”
坂井が改めて出した答えは、聞いた瞬間は自分が影を見た時に思った答えと一緒で真新しい見解が含まれているとは思わなかった。いわゆる、影=死神説と捉えたものかと思った。
だが、彼女がその後に続けた内容はこの言葉の意味をがらっと変えた。
“ただ死ぬ事に対してではなく、通常ならざる死に対しての予兆だと思われます”
通常ならざる。彼女はそう言った。
影を死神説と考えた時、影は死に寄り添うものという仮定に置く事になる。
だがここは病院だ。死が常に隣接している空間だ。そうなれば、病院という空間なんて影だらけになるはずだ。たまたま二人についている影しか見えなかったのかもしれないが、それでも違和感を覚える。それに、坂井も今回の影については水無月さんしか今の所見ていないという。
ちなみに興味本位で、他にも何か見えているのかと聞いたが、なかなかに色々なものを彼女は日常的に見ているそうだ。だが共通しているのは、どれも生前の姿を残しており、性別や容姿などはっきり見えている事がほとんどで、今回のような影を見る事はなかったそうだ。
「また井口さんに何かされたの?」
「あ、杉原さん。いやもう慣れっこなんですけど、正直めんどくさくて」
「あんまりひどかったら言って。私からも言ってあげる」
「まあ大丈夫ですけど、その時は頼らせてもらいます。ありがとうございます!」
だからこそ通常ならざるものだと言う。
二人の死は、通常の死ではない。
坂井から言われたもう一つの言葉とその意味を考えた時に、違う意味で私は心底ゾッとした。
――まさか、そんな……。
だとすれば最悪だ。影の正体が何かは分からないが、死の正体がそれであれば、事態は思っている以上に深刻だ。
影に注意する。ともかく今出来る事はそれだ。
私はあれから注意深く患者を観察するようになった。影がいないかどうか。影を見つけたら互いに報告するように坂井とは話していた。時間帯によっては両方が揃っていない時ももちろんあるが、なるだけ情報を共有しておいた方がいいだろうと思っての事だった。
ここ二週間ほどで亡くなられた方はいたが、影を見る事はなかった。影を見ずに終わった日は自然とほっとしている自分がいた。今日もこつこつと患者達を見て回った。
――今日も大丈夫か。
残り二部屋を残して、今日も影とは遭遇していなかった。
部屋の中を覗いた。何も、いない。
後、一部屋。
すっと部屋の中を覗いた。
――えっ……。
一瞬何がどうなっているのか分からなかった。だがすぐに今自分が見ているものの意味に気付いた時全身の毛が一気に逆立ち、血の気が引いた。
四人部屋の手前側の左ベッド。まず入った瞬間にそのベッドが見えなかった。
黒い霧がベッドを覆っているような状態だった。部屋全体が暗いわけではなく、そのベッドの周りだけ更に黒い闇が纏わりついている、そんな状態だった。
だがよく見ればそれは黒い霧ではなく、三体の影がベッドを取り囲んでいる事に気が付いた。
――まずい!
今日は坂井がいない日だった。
とりあえず坂井にラインだけ入れたものの、結局の所どうしたらいいか分からない。影は死の予兆というだけであって、何がどうなって死ぬかなんて何も分からない。ただ今まで見てきた流れからすれば、このベッドの患者は間もなく死ぬという事だ。
「ぐっ……」
患者の状態をとりあえず確認しよう。私が出来る事はどこまでいっても医者としての仕事だけだ。しかし、その為にはこの影を通り抜けなければならない。
触れて大丈夫なのだろうか。しかし、触れなければ患者を見殺しにしてしまうかもしれない。
――いくしかない……。
私は意を決して影に向かって歩き出した。いっそ一気に通り抜けてしまおう。
ざっと足を踏み出し、影を突き破るようにして進んだ。影に触れる瞬間、怖さで思わず目を閉じた。
触れている、という感覚はまるでなかった。ただ、恐ろしいまでに影の中は冷気で満ちていた。全身に鳥肌がたった。やはりこの影は普通の存在ではないという事を肌で感じ取った。
『ア……ダ』
――え……?
通り過ぎた瞬間、何かが聞こえた。
いや、音として聞こえたのか、頭の中に入り込んできたのか判別はつかなかった。ただその瞬間、途轍もない不快感に襲われた。私は何故か直感的にそれが影の抱える感情を共有したように思った。
おかしな事ばかり起きている。こんな事本当にあり得るのか。ただベッドへ数歩歩いただけなのに、気付けば自然と肩で息をしていた。とにかく患者の状態を確認しなければ。
寝ているのは三竹さんという患者で年齢は五十代。やせ細った身体は体質のようだが、風が吹けば飛ばされそうな体型だ。寝ている患者を急に無理矢理起こすわけにもいかず、見るにしてもどうしたものかと思ったが、三竹さんは穏やかな顔で眠りについている。およそ死ぬような顔色ではない。
本当に、死んでしまうのか?
そう思った時、ふと影の気配がないように感じ後ろを振り向いた。そしてやはりそこにはもう影はいなかった。
――消えた?
改めて三竹さんの顔を見る。静かな寝息を立て、心地よさそうな眠りに入っていたが、すっと彼はその目を開いた。
「あれ、先生? どうしました?」
「あ、ああ。患者達を見て回っていたんだ。気持ちよく寝ていた所すまないね」
「いえいえ、何もなければ別にいいんですけど」
結局起こしてしまった。せっかくだから少し彼の状態を確認しようかとも思ったが、夜に医者が来て自分の容態を確認されたら不安を煽るだけだ。私は病室を後にした。
――今日も大丈夫だったか。
そう思った矢先、遠くの方で不吉なコール音が聞こえた。そしてバタバタと看護師達の慌てたような足音が響いた。
私は三竹さんのベッドをもう一度振り返った。影はやはりいない。
なんだ。今度は。影とは無関係の急変か。ともかく慌てて私は看護師達の元へ急いだ。
「大丈夫ですかー」
看護師が患者に呼びかける声がする。遅れて私も部屋に入った。
――嘘だろ?
私は再び凍り付いた。
これは、どういう事だ?
視線の先のベッドに、あの影がいた。三竹さんの時と同じく三体の影。
「川田先生!」
呆然とする私に杉原の声が飛んだ。
「あ、ああ」
何がどうなってるのか、もう訳が分からなかった。
結局、井口さんという影に囲われた患者は、そのまま亡くなった。