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「先生、302号室の平井さんなんですけど」
「……」
「川田先生?」
「ん? あ、ああ。何だったかな?」
「平井さんの事なんですけど」
「ああ、平井さんか」
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。すまない。ちょっと考え事をね」
いけない。集中しなければ。
そう思うのだが、どうしても考えてしまう。
――なんなんだ、あれは……。
黒い影。
二週間前の白川さん。気のせいかと思った矢先に杉原に呼ばれ向かった先で彼は既に呼吸を止めていた。
そして一週間前の水無月さん。この時は坂井さんが彼女の容態に気付いた。
部屋に入った瞬間に凄まじい悪寒に見舞われた。
見間違いなどではなかった。水無月さんの横に、完璧に黒い人影が立っていた。その影は水無月さんの姿をじっと見下ろしていた。
詳しいわけではないが、よく怖い話でこういった影のような存在が現れるものがある。その影に憑かれた者は怪我をしたり、命を落としたりと不幸に見舞われるパターンが多い。実際、立て続けに二人の人間の傍に影は現れ、そして二人とも亡くなった。
偶然か。死んだ二人は共に高齢だ。言い方は悪いが死ぬ確率は若い人間に比べればもちろん高い。偶然に死が続いただけの可能性も十分にある。
だが本当に偶然か?
じゃあ、あの影は一体なんだ?
――しかも。
影に関して気になる事がもう一つあった。
「川田先生」
顔を上げると坂井がいつもの表情のない顔でこちらを見ていた。
どうした? そう私が声を掛ける前に、
「お時間少しいいですか?」
続けてそういった坂井はそのまま歩いて行ってしまう。ついて来い、そういう事だろう。私は彼女の後について行った。
暗く静かな廊下で坂井は足を止め、こちらを振り向いた。そしてじっと私の顔を見た。どこか値踏みするような訝し気な視線だった。
「川田先生、率直に聞きます」
静かだが真っ直ぐで淀みはなく、芯の通った声だった。
「見えてますよね? 先生にも」
全身を電流が走るような感覚に囚われた。
質問でありながら、その言葉は答えだった。彼女が言わんとしている事が直感的に一つしかない事を私は分かっている。
「それは、あの影の事だな?」
坂井はゆっくりと頷いた。
やはりあれは、幻覚などではない。
“先生にも”
それはすなわち――。
「白川さんと水無月さん。二人の死は、おそらくただの偶然ではありません」
坂井はぴたりと私の見た影に見られていた患者達の名前を口に出した。
「君も、見えてるんだな?」
「はい。昔からなので慣れてはいますが」
いわゆる霊感というやつか。失礼な言い方だが、彼女の見た目と雰囲気にはぴったりのイメージだ。
「あれは、なんなんだ?」
馬鹿らしいと一蹴出来れば、気のせいだと割り切れれば。
そう思いたかったが、そう思うにはあまりにもあの影ははっきりとしすぎていた。いくら激務とはいえ、疲れが見せた幻覚と呼ぶには難しい存在だった。
「まあ、死者ですね」
シンプルで分かりやすい答えだった。
「死神とか、そういうものではないのか?」
影が現れた患者が死ぬ。死に導かれるイメージから私は何度か死神を連想した。
しかし、私のその言葉に坂井は何とも言えない小難しい表情を見せた。普段はあまり見せる事のない表情に新鮮さを覚えた。
「そういうものでは、なさそうです。視覚で感じ取る力は強いんですけど、彼らが何を言っているのか、思っているのか、そこまでを把握するほどの力はないみたいなので」
「そうか……」
生きた存在ではない者。分かるのはそれだけか。
死んだ者は通常あの世へ行くものだが、彼らは現世に留まっている。
留まるにはそれなりの理由がある、と考えるのは生きている者の勝手な理屈だろうか。
「でも」
「ん?」
坂井は顎に手を添えて難しい顔をしている。何か頭の中でまとまらない考えをなんとか言葉にしようとしているようだった。
「死ぬ前に見えている事に、意味があるような気がするんです」
どういう意味だろう。考えを巡らせようとした時、坂井は私が気になっていた疑問を口に出した。
「水無月さんの横に、影は二人いました。あまり、こういったものは見た事がありません。一人ならまだしも。そこに、すごく違和感があるです」
そうだ。私が気になっていた事はまさにそれだった。
正確には、白川さんの時は一人だった影が、水無月さんの時には二人に増えていたことだ。
――待てよ。
坂井は影が増えているという事は知っているのだろうか。
私が見たもの、そして気付いた事を坂井に話すと、彼女が見た影は水無月さんの二体が初めてだったと言う。影が増えているであろう事を彼女は知らなかったようだ。
それを聞いた坂井は再び考え込んだ。表情は相変わらず渋いものだった。しばらく考え込んだ後、坂井が口を開いた。
「二人が死んだ時の状況を教えてくれませんか」
「え?」
「先生が影を見たその後、二人は容態が悪化し死んでいます。そこまでの流れと現場の状況を、先生からの視点で」
そう言われ私は当時の状況を思い返し、なるべくそのままを伝えた。坂井はずっと真剣な顔で私の話を聞いていた。
私が話し終えると、坂井は考えをまとめるように片方のこめかみをこつこつと指で叩いた。
「……そういう事なの?」
小さく独り言のように彼女は呟いた。ただ確実に何かに思い当たったような言葉だった。
坂井に説明しながら私自身も改めて状況を考えなおした。
何か二人の死に繋がる事。影が現れた事の理由。どこかにヒントというか、答えそのものがあるのかもしれない。
「川田先生」
すっと坂井が私に目を向けた。
「影に注意してください。影はやはり、死の予兆だと思われます」