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1.高校生活の始まり

 高校生としての生活が始まる初日。


 寝返りを打ってうつ伏せになったヨミ・ナオトは枕に顔を押しつけながら、耳元で鳴り響くアラームを探りそのスイッチを切った。


 それから少し間を置いて、寝癖で一回り大きく膨らんだ髪の毛を撫でつけながら起き上がる。


 彼はベッドを下り、取り立てて特徴のない平均的な顔をクシャッとゆがめてあくびを一つ漏らした。


 眠気を引きずる瞼の下から現れた三白眼が眼孔のゆりかごの中で左右に揺れている。


 彼はぼんやりとした仕草で顎に手をやり、ひげ剃りが必要かどうかを確かめた。指先に鋭い感覚はほとんどなかった。


 ナオトはもう一度あくびを漏らし、スウェット姿のままダイニングへ向かう。


 寝室から廊下に出ると、かすかにパンの焼ける香りが漂ってきた。


 幼い頃に両親を亡くした彼は2LDKのマンションに一人で暮らしている。


 ちなみに巷で流行のメイドロボットは所有していない。


 ならばどうして起きる前からトーストの香りがするのかといえば……ダイニングと対面するキッチンに朝食を作る少女が居るからである。


「おはよ……」


「おはようございます、ナオ。今日くらいは早く起きると思ったんですけど、やっぱりいつも通りでしたね」


「まぁな。サクラこそ、今日も朝からありがとな」


「高校生活が始まる最初の一日だって言うのに遅刻するわけにはいきませんから」


 そう言って袖をまくった腕を九十度に曲げてやる気をアピールする彼女は、名前をアキハ・サクラという。


 秋なのに桜なのかというツッコミはしない方がいい。何百回と言われてきたことで本人も耳タコなのだ。眼鏡の薄ガラス越しに冷たい視線を向けられたいと言うのなら止めはしないが。


 量の多い黒髪を高い位置で結わえた彼女は一見すると大人しい文学少女のようであり、他人の家で朝から料理の腕を振るう姿は夫の影を踏まず三歩後ろを歩く妻のように慎み深く、ともすると地味な印象を与える。


 眼鏡のフレーム上部にかかるやや長めの前髪、いつも柔らかく微笑んでいるように見える目元、丁寧な言葉を紡ぐ小さな口、高すぎず低すぎず落ち着いた調子の声。


 それらは総じていつも、サクラを引っ込み思案で物静かな……言ってしまえば根暗な人物であるかのように見せた。


 しかしながらその実体は、こうして幼なじみの住まいに毎日朝食を作りに来る押し掛け女房的な強引さを──もとい面倒見の良さを持つ甲斐々々しい少女なのであった。


「遅刻すると言っても、放っとかれて遅刻するのは俺だけじゃないか?」


「ああ、訂正しますね。遅刻させるわけにはいかないから、です」


「お前ってホント律儀というか難儀というか……」


 それは彼女の行動がナオトにとって重荷だという意味ではなく、大変なことを毎日よくやってくれる……という感謝の気持ちが込められた言葉だった。


「ささっと作ってしまうので、顔を洗って身支度も整えてきてください。早くしないと本当に遅れちゃいますよ」


「だな……んじゃとりあえず俺は自分のことやってくるわ……」


「はい。いってらっしゃい」


 ダイニング側に身を乗り出すサクラに見送られ、ナオトはまだ眠気の残る足取りで洗面所へ歩いていく。


 彼はいつも通りに顔を洗い、口の中を濯ぎ、髪をとかして軽く整え、自室へと引き返して真新しい制服に袖を通す。


 最後にクローゼットの扉にひっかけてあるネクタイを手に取り立てた襟に沿って首に掛け、正面で結ぼうとして……ナオトは結び方を忘れてしまっていることに気づいた。


 さてどうしたものかと足先で床を叩いてしばらく思案し、そのままダイニングへと戻ることにした。


 サクラにやってもらおうという魂胆である。


「なぁ、お前って人のネクタイも結べる?」


 ナオトがひょっこりと顔を出すと、食卓の上には既に朝食が並べられていた。今朝は目玉焼きと温野菜、バターを塗ったトーストに卵スープが並んでいた。


 サクラは一人分の箸を置くと、ナオトを振り返った。


「後ろからならできると思いますけど……というか私、昨日ナオに教えませんでしたっけ?」


「忘れた」


「……仕方のない人ですね、貴方は」


 サクラは嫌な顔ひとつせず、椅子に座ったナオトの背後に回ってネクタイをプレーンノットの形に結び上げる。


 そして正面に戻ってきて、ネクタイの顔である大剣と横並びになっている小剣を裏手のループに通して形を整えた。


「さすが私です。完璧ですね!」


「ありがとさん」


「今はいいですけど、ちゃんと自分で出来るようになってくださいね。ナオは男子なんですから、これからネクタイのお世話になることは多いはずですよ」


「うーん……考えとく。というか、サクラは本当にその格好で登校するのか?」


「もちろん。きっちり三年間この制服で通うつもりです。さぁさぁ、そしたら可及的速やかにしかしよく噛んでゆっくりと食べてしまってください」


 そう言ってナオトに朝食を促すサクラは彼と同じ制服を着ていた。女子の制服にスラックスを合わせたものではなく、ジャケットもシャツも男子のそれだ。


 これから二人が通う高校は今年度から共学化された元男子校であり、女子の入学にあわせて制服の組み合わせも自由に出来るよう校則が改められていた。


 だからサクラの服装は校則違反には当たらず、合法な男装なのだが……実を言うと彼女のそれは性別を偽るためのものではなかった。


 サクラにはナオト以外に知られたくないある秘密があった。彼女はそれを隠すためのに男子制服を選ばざるを得なかったのだ。


「お前は……強いな」


「ふふん。カッコいいでしょう?」


 サクラはその場で一回りしてみせ、長い髪を揺らし綺麗な円を描いてクルリと元の向きに直る手前で少しバランスを崩した。慌てたナオトが箸を投げ出して彼女の手を掴む。


「っぶな……気をつけろよ」


「……ごめんなさい、調子に乗りました」


 彼女は回転の軸にした右足をかばい、心底申し訳なさそうに小さくなった。ナオトは先ほどとは別の意味で慌てて言い直す。


「アーいや、責めてるわけじゃなくて。むしろそうやって動けるようになったのはすごいことだと思うから、俺としてはどんどん調子に乗るべきだと思うんだが……」


 彼女の足はその片方が義足だ。科学技術が発達した現代において、義肢の動きや見かけは限りなく生身に近いものを再現するに至っている。


 なのでストッキングをはくなどすればサクラもスカートで登校することが可能である。


 しかし彼女は頑なにそれを拒んだ。コンプレックスや周囲への気遣いといった複雑な感情が混ざり合い、さらには努力をひけらかさない性格が手伝って、彼女は義足であることをナオト以外には隠すのだ。


「……ありがとう。ナオは優しいですね」


 サクラは気を取り直し、表情を明るくして微笑む。それを見てナオトも笑みを浮かべる。


「うん。やっぱサクラはカッコいいな」


「フフ、よく分かってるじゃないですか。さすが私の幼なじみです」


「それ自分で言うか? そういうところ可愛いぞ」


「──ぅなっ!?」


「うな……? うなぎ??」


「な……何でもないです」


 サクラは顔を赤くしながら笑う口元をひきつらせた。「まったくこれで無自覚なんだから困ります」と呟きながら、ナオトが投げた箸を新しいものに変えてキッチンの方に戻っていく。


「どうかしたか?」


「だから何でもないですってば。いいから早くご飯食べてください。このままじゃ私も遅刻しちゃいます」


「お、おう……それはマズいな。了解した……」


 噛みつくほどの剣幕ではないが、それなりに強い口調で言われたナオトはサクラが用意してくれた新しい箸を握り、大人しく食事を再開した。

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