ミルと慶子~二人旅~・・・fantastic travel
山陰鉄道は片側通行で一つの線路を両方向から列車が行き来する。そこを上っていく一つの列車があった。車窓には、どこまでも続く日本海。ここに、疲れた心を癒す旅をする二人の女性がいた。二人が出会ったのは咲陽高等学校。彼らは、はまさきめーるが執筆する二つの小説『ヤンキー桃太郎』と『Three persons & a dog』それぞれのヒロインたちである。
この街にも夏が来た。天神の街のあちらこちらには、飾り山が飾られている。
この日、この町で二つの小説のヒロイン二人が出会う。
木下慶子、22歳の介護職員。
杉谷ミル、27歳の英語教師。
二人は、天神のロフトで待ち合わせしている。
介護職と女教師。二人にどんなつながりがあるのか?
この物語は、二人のヒロインの立場を超えた絆の上にあり、そしてその絆は二人の価値観や人生観で共感できるものによって強く強くなっていくのである。
慶子は、時計を眺めている。午後一時を指したときにやや長身の細身の女性が歩いてきて慶子のほうを見た。間違いない。ミル先生だ。あのころは、真っ黒なサラサラのロングヘアにスカート姿だったが、今日のショートカットにスラックスはとても似合っている。
「慶子さん?ずいぶん綺麗になったのね。」
「ミル先生も、なんかボーイッシュになって。でも、綺麗です。」
「ご飯はまだよね?」
「はい。」
「大丸のレストランでいいかしら?」
ミルは慶子の前を歩いた。ミルはとても歩くのが速く、慶子は息を切らしながら付いていった。
「イタリアンでいいかな?」
ミルは慶子と一緒にアルレッキーノというレストランに入った。
メニューを見ながら、慶子は言った。
「先生は実習に来ているとき、いつも食堂でスパゲティを食べてました。私たちは見てたんですよ。」
と、慶子が笑う。
「えっ?そうなの!なんか恥ずかしいわ。」
とミル。
二人は、シーフードスパゲッティーとコーヒーを注文する。
「あのときも、先生とコーヒーを飲みに行きましたね。」
あのときとは、ミルが教育実習で母校である咲陽高校に行ったときのことである。実習最後の日、ミルが担任をした、そして、慶子が在籍したクラスの生徒がバンドのライブをしたのである。生徒たちはミルを慕っていたので、ミルを誘った。生徒と一緒にライブに行くことに抵抗はあったが、初めて担任を持った生徒たちのことだと思い、行ってみたのである。
ミルは少し渋い顔をした。
「メタルとかね、あまり興味なかったし私はジャズやフュージョンを好むから乗り気じゃなかったのよね。そして、クラスの子に先生も脇の掃除して薄着で来てください。とか言われたから、断ろうと思ったんだけど・・・実習の思い出にって気持ちのほうが勝って行ってしまったのよ。」
「それがあったから、今もこうして私と会える。」
ライブのあと、バンドの生徒は打ち上げをしてそれ以外の生徒はミル先生と一緒にモスバーガーへ行ったのである。そこで、ミルと慶子はコーヒーを飲んだ。そして、その仲間と連絡先を交換したミルは実習が終わってからも手紙のやり取りをした。
「芙由子さんが2年前に引きこもりになったって話を聞いたけど、その後どうなったか知ってる?」
ミル先生は気になっていたことを聞いた。
「あ、それがもう立ち直ってます。」
「そうなの。良かった。」
慶子は続ける。
「夏美も熊本にいて震災に遭ってしまったんです。で、避難所に行ったもののすごく居心地が悪かったから芙由子にライン送って芙由子の家に転がり込んだらしいです。そしたら、否応なく外との接点ができてバイトを始めるきっかけになったらしいです。」
「そうなの!何があるかわからないわね。」
そう言って、二人は笑った。
「先生、仕事のほうはどうですか?悪そうとか、ヤンキーとかいるんでしょう?先生の行っている中学校って相当悪いって評判ですよ。ヤンキーの桃太郎だったかな?」
慶子が心配そうに言う。
「そういう生徒について理解することは、慶子さんが高校生のときにしっかり学ばせてもらいましたからね。」
ミル先生が、実習に行ったとき慶子はよく後ろを向く生徒だった。おしゃべりをしているのではなく、授業がわからないから自信がなく後ろの人に聞いてしまうのである。そして、先生の話がわからなくなる。そういう生徒だった。
「先生は、目立たない私のこともよく見てくれていた。プリントを出したら必ず一言コメントをしてあったし。一人ひとりのことをよく見てるんだなと思いました。今でもそのときのノートを取っています。」
「えー?そうなの?なんか嬉しいけど恥ずかしい。」
と赤面するミルに慶子は言う。
「先生が最後の授業で言った言葉。外国語を学ぶことは必要。受験に必要なのは言うまでもない。でも、外国語を学ぶ意味は、他者を理解することだって。英語じゃなくてもいい。日本語以外の言葉を学ぶことで自分と違った人を知ろうとすることにつながるし、言葉や考え方を比べることで、自分自身を知ることができるって。私は、英語が苦手だったけど頑張ろうと思いました。」
「これは、参りました・・・」
「慶子さんの仕事はどんな?」
とミルが尋ねる。
「なかなか厳しいです。介護が作業になって殺伐とした部分もあります。同僚はみんな私のことを認めてくれています。でも、利用者は二の次になっています。尿意を感じて、トイレに行く力がある利用者をトイレに座らせずにオムツをつけたり、歩ける利用者を歩かせずにどんどん体が衰えて自分でご飯を食べられなくなるのが早くなったり・・・悲しくなることもあります。」
「聞いたことある。私の学生のときのサークルの友達も東京で介護してるけどそんな話聞く。慶子さんが、それがストレスっていうならその職場を辞めることもありかもね。」
ミル先生、よくわかっているな・・・私の気持ちを手に取るようにわかってくれてる。
「はい。私もそう考えていたところでした。」
「でも、こちらの関わり方でなんとかなることもあるかもしれないね。」
慶子も、そう考えていたのであった。
「関わり方と言えば、私は今年の春からフロアーの利用者と一緒に壁に貼る大きな絵をつくっています。月ごとに季節の風物を取り入れて、利用者が登場人物で・・・」
ミル先生は目を輝かせた。
「それはいいね。慶子さんには、現実を変える力があるみたい。大丈夫だね。私にもその絵を写メって見せて。」
「あ、スマホの中に写真があります。・・・これです。」
慶子は、バックからスマホを取り出した。
「わー!かわいいねえ。これ、利用者さんが貼り絵したの?」
ミル先生はまたまた感動した。
「はい。図案は私が描いたオリジナルです。」
「すごいねえ。スタッフの人はなんて言ってる?」
慶子は答える。
「絵を見ていろいろとお話のイメージを膨らませてくれています。だんだんとほかのスタッフが絵のことを話題にするようになって、昨日はフロアーリーダーが貼り絵を手伝ってくれました。ただ、他のスタッフに私がこれをすることで迷惑にならないように気をつけています。きちんとやるべきことをやった上でするとか、片づけを確実にするとか。でも、どうしても時間外にしか利用者と関われず、不快感を与えてしまってるんじゃないかと思って。そんなときにごめんね・・・って言うんですけど。」
ミル先生はにっこりした。
「それは、“ごめんね”ではなく、“ありがとう”というべきだね。そのほうが相手は気持ちいいと思うよ。」
「そうか、“ありがとう”ですね。」
二人はにっこり笑って顔を見合わせた。
教育実習のときに、ミルが教えた印象的な言葉に、「ありがとう」がある。ミルは英語という“ことば”を教える先生だが、世界中の言語でもっとも美しい言葉は感謝の意味を伝える言葉だと。そこには、“人と人が支えあう存在だ”というミル先生の強い思いがあるのだと慶子は知っていた。
そこへ、店員がスパゲッティを持ってきた。スパゲッティはほどよいこしがあり二人の胃袋を満たした。そして、ミルが言う。
「まだ、食べられそうだね。デザートも食べていい?」
「私も食べます。」
と慶子が言ったので、ソフトクリームを注文することにした。
慶子は、少し向こうの方を見ながら言う。
「先生が実習から帰ったあと、母と離婚した父親が養育費を払えなくなって母が思い悩んで・・・そのときのうちでの空気と授業中のシンとした空気が似てて、学校に行けなくなってしまって。」
「あのとき、慶子さんが学校に来てないってあのライブ仲間の朋子さんが連絡をくれてね。ちょうど私も教員採用試験に失敗して、気晴らしをしたいと思ってたときだったから慶子さんを誘ってみたのよ。」
9月の終わり、二人は博多駅で待ち合わせて山陰線を北のほうへ上っていった。ミルは、来年の教員採用試験に向けて英気を養うため。慶子は、心の風邪の療養のため。
「あのとき、慶子さんと山陰に行ったことを私は誇りに思ってる。そして、その子が今現実とこんなに果敢に向き合っていることも私の自慢の一つよ。」
とミルが言う。
「私も、先生と山陰に行ったことは貴重な体験だと思います。あのときがあったから、自分というものをゆっくりと見つめることができ、ゆっくりと生活を取り戻すことができました。」
「人生は、長いから焦る必要はないんだよね。」
ソフトクリームを食べながら、二人は話す。
「山陰と言えば、奥野寿久商店の鱧の天ぷらが近所のスーパーに売ってたのを見て、思わず買ってしまいました。」
「そうなの?あの天ぷら美味しかったよね。」
「先生が、一袋買ってきた天ぷらを私がほとんど食べてしまいましたね。」
「ずっと、塞ぎ込んでいた慶子さんが元気を出して食べてくれたから嬉しかった。」
奥野寿久商店は、山陰線の吉見駅から歩いて5分ぐらいのところにある。そこからまた歩いて吉見駅に戻った。そこで慶子は天ぷらをパクパクと食べたのである。
そして、再び山陰線で長門市まで向かった。窓の外に広がる海は、広々としていて水面はちゃぽん、ちゃぽんと音を立てて波打っているかのようだ。電車は、カタンコトン、カタンコトンと悠久の時を刻んでいるかのようだ。
道中、実習中の楽しかった出来事を話していた。ライヴのこと。昼休みのバレーボールのこと。査定授業の前に当てる順番を、打合せしてお互いに恥をかかないようにしたこと。
山陰線は長く長く続いた。
「長門市に着きます。」
アナウンスがあった。二人は電車から駆け降り改札を出た。
腹時計は昼を過ぎていたので、持参したおにぎりを食べ、お腹を満たした二人は船乗り場へと歩いて行った。青海島観光汽船の渡船場までは仙崎線に乗っていけば一駅だが、沿線の様子を見ながら歩いていった。仙崎駅から渡船場までもまた穏やかな海が広がっていた。
穏やかな海の中を、観光汽船はゆったりと進んでいった。小さな船が日本海の沖へと進んでいく。海には小さな島がたくさん浮かんでいる。船は岩でできた海の中の峡谷を抜けていく。そして洞窟へと差し掛かった。
「今日は、水位もちょうどよいのでこの洞窟へも入ることができます。それでは入っていきます。」
ガイドさんが案内する。船は洞窟の中へ入っていく。
「わー、こんなところによく入れますねえ。」
「うん、ぶつかったりしないんだろうか。でも、運転上手だから大丈夫そうだね。」
洞窟の奥には女性観音というさらに小さな穴や小さな洞窟があった。そして光が差し洞窟の出口が見えた。その先には男性観音というトーテンポールのような岩が立っている。その男性観音の様子を見てミルは慶子に対して少しばつが悪そうにする。慶子がみミルに聞く。
「先生は、彼氏はいないんですか?」
ミルは答える。
「大学一年のときから付き合っている人がいるんだけど・・・」
「結婚するんですか?」
と慶子。
「彼は秋田県の人で卒業したら実家に帰って家業を継がないといけないって言ってるのよね。私は、そのまま東京に残って私立の中学校の講師をしたいと思ってる。遠距離になるかもね。」
とミルは答える。慶子は言う。
「彼氏のところに新幹線に乗っていくミル先生の姿、かわいいだろうな。」
「こら!人をからかわない。」
そんな会話が弾む。
陽は西に傾き、二人はまた山陰線の長い長い岐路につく。朝が早かったのと船に揺られたのも手伝ってちょっと疲れていた。長門市駅を出ると、キラキラと輝く海が波打っているのが見える。
「先生は、なぜ先生になろうと思ったんですか?あんなに嫌われる職業、私だったらやりたくない。」
慶子の素朴な疑問だ。
「うん。
私にはね、知的障害を持つ兄がいる。小さい頃から母の苦労を見てきた。兄が、友達の中で普通に接してもらえないときの母はとても辛そうだった。そして、弟が友達の中で不自由していたとき、私もそこに出て行ってけんかしたこともある。だからかな・・・私がこんなに気が強いのは。」
「先生も苦労してきたんだね。」
ミルは続ける。
「そして、兄が成人するとき母は兄のために知的障害の母の会の友達数人と共同で作業所を立ち上げたの。そこで、やはり自分の子どもしか見えていないお母さんとの関係で悩んでいた・・・
・・・だからね。一人でも多くの人に人と人が支えあって生きているってことを教えたいと思った。自分は一人で生きているって思っている人に限って、実は人に寄りかかりすぎてたりする。人に支えられているって知っている人こそ自立している人なんだよね。」
「それで、教師を続けたいんだ。」
そういいながら慶子はすうっと眠りに落ちていった。
そして、油谷港に見る夕日も水平線に落ちていった。
下関で乗り換え、関門海峡を通過するときには、車窓を宵闇が包んでいた。トンネルを通るたびに二人の顔に影が差し光が差し、ただ静かにカタンゴトンという列車がきしむ音だけがしている。小倉を過ぎるあたりから乗客が増え始めた。慶子とミルは老夫婦に席を譲り壁際に立っていた。
「今度は泊まりで行きたいですね。」
「うん。今度はもっといろんなところへ行こう。」
そう言って二人は別れた。
場面は、七年後の天神に戻った。
「ミル先生のあのときの彼は?」
「別れた。というか自然消滅した。」
「そうなんですか。残念です。」
「うん。お互いに違う道を進むと思った時点で接点がなくなって。彼は、それを何とかしようと私の身体を求めてきたんだけど・・・私はそれに答えられなくて・・・
・・・ほんとうに一人になったんだなって、毎晩毎晩、寂しくて寂しくて、ベットの中で震えてた。
あのとき、彼についていけば違った人生になってただろうけど。
結局、人間の関係って、生き方と生き方なんだよね。そして、その人の中での生き方と価値観っていう二人の人はとても堅く結ばれてる。なかなか崩せるものじゃない。」
慶子は、また聞いてしまった。
「結婚はされないのですか?」
「うーん。3年後。今の中一が卒業したら結婚しようと思う。」
「仕事熱心ですね。」
「お互いにね。」
そして、
「また二人旅しましょうか。」
と、二人は笑った。
ミルの信念と慶子の信念。どちらも現実とのギャップがある。
これから、二人の信念を
ミル先生は古典のパロディーの世界で
慶子はファンタジーの世界で
貫いていって欲しいと思う。