999本の薔薇の愛
フェノン国には昔から、こんな言い伝えがあった。
『999本の薔薇を贈った相手とは、来世でも結ばれることができる』
誰もが馬鹿だと笑ったそれ。
しかしそれを、実行した者がいたのだ。
夫の名をカルディール。
妻の名を、ルクサーヌと言った――
***
『ねぇ、カルディール。わたしたち、ずっと一緒よね』
『そうだよ。君と俺はずっと一緒だ』
カルディールがルクサーヌにそう言った日、彼は999本目の薔薇を渡した。
そしてそのあと、彼は直ぐに死んだ。
病死だった。
サクストン公爵家令嬢、ルクサーヌには、前世の記憶というものがあった。
前世、と言っても、同じ世界の記憶だ。彼女はそこでは、市民のひとりだった。
彼女がそのような記憶を持って生まれたのは言わば、薔薇の持つ魔力だろう。
前世と同じ『ルクサーヌ』という名を両親からもらった彼女は、物心ついた頃から直ぐに、前世の夫を探し始めた。
ルクサーヌと同じ条件下なら、夫も『カルディール』という名を持ってこの世界にいるはずだ。市民の記憶を持ち合わせていた彼女は、貴族社会での陰鬱な気持ちを押し潰すかのように、必死になって彼を探した。
そんな夫と同じ名を持つ者と出会ったのは、ルクサーヌが夜会デビューを果たした十三歳の頃だ。
カルディールは、すぐに見つけられた。
彼は、第二王子という立場だったのだから。
ルクサーヌは公爵家令嬢という立場から、彼に挨拶をする。
このとき、少しばかり期待していたのは仕方のないことだった。あれだけ探し求めた相手にようやく会えたのだ。ルクサーヌは震える手を抑えつけ、作法通りの礼を取る。
「お初にお目にかかります、カルディール様。ルクサーヌ・サクストンと申しますわ」
しかし一瞬の沈黙の後返ってきたのは。
「左様か」
そんな、突き放したような一言だった。
ルクサーヌはその日から一週間、熱にうなされ伏すことになる。
枕を濡らしながら考えたことは、ただひとつ。
999本の薔薇の言い伝えは、嘘だった。
それだけだった。
それからルクサーヌは、感情を排して過ごすようになった。
その頃の唯一の救いといえば、妹であるアミルメルとの茶会だけ。
アミルメルは不安そうに、姉を見た。
「……お姉様。お顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「あ……え、ええ、アミルメル。大丈夫よ」
アミルメルは、市民と言われても差し支えのないほど平凡な顔をした娘だった。しかし中身は公爵家の娘らしく、所作や作法がしっかりとしていた。
ルクサーヌにとって彼女は、自慢の妹だ。むしろ自分より、よっぽど貴族の心得を知っている。
ルクサーヌは情けなくなった。どうして私は、ここまで彼のことを引きずっているのだろう、と。
カルディールの顔にそっくりの彼が、他の誰かと結婚する。
それを考えるだけで、ルクサーヌの胸は張り裂けそうなほど痛くなった。
そこでふと気付く。
(そういえばカルディールは、昔のままの姿だったわ。でもわたしは、昔より綺麗な見目になってる。……もしかしてカルディールは、わたしのことを気付けなかったのかしら?)
そう考えると、胸が楽になる気がした。
そうだ、おそらくカルディールは、ルクサーヌに気付けなかったに違いない。ルクサーヌという名前は残念なことに、先代の王妃の名前だったのだ。
さらに先代王妃は、かなりの美姫だったと言われている。そのため貴族の間では、その名にあやかろうとルクサーヌという名を娘に付ける傾向にあった。
「……そうよ、そうだわ。気付いてくれないなら、気付いてくれるよう努力すればいいのよ」
「……お姉様? どうかなさいましたか?」
「いいえ、なんでもないわ、アミルメル。大事なことに気付いただけよ」
「そ、そうですか」
疑問符を浮かべながらも笑顔で聞き流してくれた妹に、ルクサーヌは笑う。そうだ。努力もしないで嘆いているなど、前世のルクサーヌにはありえない話だった。ならば振り向いてもらえるよう、努力すればいい。なんせルクサーヌの心は、前世からまるで変わっていないのだ。彼が贈ってくれた999本の薔薇の花は、今も彼女の胸にひっそりと咲き誇っている。
拳を握り締め、ルクサーヌはカルディールに振り向いてもらえるように、今まで以上の努力を重ねた。
まず、その美貌を生かすために手入れをした。王子の嫁としての教養を身につけるために、嫌いだった授業も真面目に受けるようになった。
公爵家の娘として、彼女はよりいっそう魅力的で輝かしい美姫になったのだ。
そして必ず、カルディールの誕生日には薔薇の花を贈った。昔彼が贈ってくれたのと同じ、深紅の薔薇の花を。その花が枯れないように、最近貴族内で流行っている、魔術で花を永遠に綺麗に見せる技術『プリザーブド』を使って、十輪ずつ贈った。彼もそうしてくれていたからだ。
そんな彼女の想いが通じたのか、ルクサーヌはカルディールによく呼ばれるようになる。
今日はふたりで、茶を飲むことになっていた。
「カルディール様。本日は素敵な茶会を開いていただき、ありがとうございますわ」
「構わない。さ、座ってくれ、ルクサーヌ」
ふたりの距離は、なんとも言えなかった。
ここで「あなたは前世の記憶がありますか?」ということが訊けたなら、どれだけ楽だったか。
しかしここでそれを訊けば、本当にカルディールでなかった場合、ルクサーヌの頭がおかしいという噂がたつ可能性がある。それは公爵家の娘として、一番してはいけないことだ。公爵家の顔に泥を塗ることになるからだ。
だからルクサーヌは、遠回しなやり方でしかカルディールにアプローチができずにいる。
他にもカルディールという名の男はいた。しかしルクサーヌの直感では、彼が前世で約束したカルディールだった。もしそうでなくても、ルクサーヌは構わない。最近そう思う。彼が幸せになれば、それでいいような気がしてきたのだ。
それほどまでに、ふたりだけの茶会はとても優しく暖かかった。
それから数年後。
ルクサーヌは既に十八になり、とても美しい娘になっていた。
この頃から縁談話も持ち上がり、その中には第二王子であるカルディールの名も含まれていた。あれだけ茶会をしていれば、候補に上がるのは必然だろう。
そんなある日のことだ。ルクサーヌはカルディールに呼ばれ、城へ向かった。
既に顔馴染みとなった門番の横を通り過ぎ、彼女は案内人とともに進む。
そこでカルディールが現れた。
「これは殿下。お久し振りにございますわ」
「ああ、ルクサーヌ。久しぶりだ」
ここ数ヶ月は互いに忙しかったため、茶会を開いている暇がなかったのだ。
作法通りの美しい礼をしたルクサーヌに、カルディールは疲れた顔で笑む。それを見て、彼女は心配になった。
(皇太子殿下の補佐役に本格的に抜擢されてしまったから、本当に忙しかったんだわ。それなのにカルディール様は、本当にお優しい)
ルクサーヌは彼の疲れを労わるように微笑んだ。せめてこの茶会でリフレッシュして欲しいと、そう思ったのだ。
案内人が消え、ふたりは肩を並べて歩く。
するとぽつりと、カルディールが声を漏らした。
「……ルクサーヌ」
「はい、カルディール様。なんでしょう?」
「少し、昔話をしても良いか?」
ルクサーヌは目を瞬かせた。しかし断る理由がなかったため、こくりと頷く。
それを見たカルディールは、歩幅を合わせたままさらに言葉を重ねた。
「昔。本当に昔、わたしはとある女性と約束をしたのだ。誰も信じないような、そんな言い伝えに沿った」
「……はい」
「そなたも知っているであろう。『999本の薔薇を贈った相手とは、来世でも結ばれる』。この言い伝えだ」
「存じて、おりますわ」
ルクサーヌは、心臓が高鳴りが止まらなくなった。
どきどきとうるさいくらいに鳴る音は、ひどく緊張している証だ。そして何より彼女が気にしたのは、ささやかながらも希望を抱いてしまったからだろう。
彼はやはり、前世から愛し続けたカルディールなのだと。
「そこでルクサーヌ。君に聞きたい」
そう締めくくり、カルディールはようやく着いた部屋の前で振り返る。その目をルクサーヌは見ていた。
「今から見る光景を見て。わたしの言葉を聞いて。君は答えを出してくれ。それがわたしの唯一の願いだ」
この先に一体何が待っているのだろう。そう思い、ルクサーヌは首を傾げた。
そして扉が開かれたとき、彼女は目を見開いた。
「これ、は……」
その部屋には。
その部屋には……。
999本もの深紅の薔薇で埋まっていた。
むせ返るような香りの中、ルクサーヌは足を踏み入れる。そしてカルディールのほうに体を向けた。
彼の一句一言を聞き逃すまいと、その目は唇を見つめている。
彼は震えそうな唇を抑え、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「『ルクサーヌ。たとえ来世を迎えたとしても、俺とともにいることを誓ってくれるか?』」
そう、それは、前世でも聞いたプロポーズの言葉。999本の薔薇の言い伝えに沿った、彼の告白だ。
ルクサーヌは、大粒の涙をこぼしながら頷く。
「『はい。薔薇の魔法が解けない限り、わたしはあなたとともにいる道を選ぶわ』」
薔薇の言い伝えは本当だった。
ふたりは弾かれたように抱き着いた。
「ルクサーヌ、ルクサーヌ……ああ、とても綺麗だ。昔と何も変わらないな」
「カルディールこそ、何も変わらないわ。まさか、こんなに薔薇を用意するなんて、思ってなかった」
部屋いっぱいに敷かれた薔薇を見て、ルクサーヌは笑う。その顔は泣き笑いのように歪んでいたが、決して悲しそうには見えなかった。
するとカルディールは頬を掻きながら言う。
「さすがに今日中には無理だった。だからプリザーブドフラワーにして、ここに置いておいたんだ。この案は、ルクサーヌが俺の誕生日に薔薇を贈ってくれたときに気がついた」
毎日一回、ルクサーヌのことを考えながら、この部屋に来ていたんだ。
そう言われ、ルクサーヌは顔を真っ赤にする。
「も、もう……! いつからそんな、キザなことが言えるようになったの、カルディールっ」
「ルクサーヌの触れ合えない日々だけ、だな。君のことを考えると、夜も眠れなくなった」
「……わたしだって、初見のとき、傷付いたのよ? カルディールが気付いてくれなかったから」
「なんせ君は昔より、さらに綺麗になっていたからな。確かめるのに時間がかかった。すまない」
「……いいわ。この薔薇たちに免じて、許してあげる」
ふたりはそっとキスを交わした。今まで離れていた距離を縮めるかのように抱擁を強め、笑みを浮かべる。
そしてふと、カルディールがこう言う。
「今世でも999本の薔薇を贈ったから、来世でもまた一緒だな、ルクサーヌ」
「……飽きたとか言わないでね。撤回なんて、絶対に聞かないんだから」
「当たり前だろう? 君はずっと、俺だけの妻でいてくれ」
その言葉にまた泣き始めた花嫁を引き寄せ、花婿は唇に優しく口付けを落とした。
それから早五年。
ルクサーヌは我が子を抱きながら、妹の悩みを聞いた。その可愛らしい悩みに、彼女はくすくすと微笑む。
「あの子ったらほんと、そういうところは奥手なんだから」
「なんだ、アミルメルが来ていたのか?」
「あら、カルディール」
ひとりで笑っていると、カルディールが入ってきた。それを見て、ルクサーヌは頷く。
「政略結婚の悩みかしらね。でも大丈夫よ。ルクスフィルト様はとても良い方だもの。アミルメルのことをしっかり支えてくれるわ」
「なら俺は、ルクサーヌのことをしっかりと捕まえていないとな」
「そうしていただけると嬉しいわ」
どちらからともなく口付けをしたふたりは、幸せそうに微笑んでいた。
新年明け短編祭り第五弾。
「政略結婚の末」を読んでくださった方なら分かりますが、ルクサーヌのお話です。
Twitterで薔薇は本数によって意味が変わる、というのを見まして、やってみたくなりました(笑)
こんな二人のように、ずっと素敵な夫婦で要られたらいいですよね。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました!