理想の王国
6月14日土曜日 午後11時24分
「トウチャクイタシマシタ。」
ハヤテはジェームズの声で目を覚ました。どうやらハヤテは車の中で眠っていたようだ。今日一日分の疲れが出たのだろう。ハヤテはまだまともな治療を受けていない。したがって、ヒカルから受けた左腕の刀傷は生々しいままだ。
ただ、出血量は格段に少なくなっている。ハヤテの驚異的な回復力によるものか、もしくは人が誰もが身に着けている自然治癒力なのかはわからないが少なくとも昨日のこの時間よりも傷は癒えていた。
ハヤテは目を覚ますと同時に空腹を感じた。しかし、ここにいる人に頼めるはずもなく我慢する以外に選択肢は浮かばなかった。
ハヤテは車を降りた。その目の前には頂上が見えないほど高いビルが建っていた。朝野医院とは比べものにはならない高さだ。ハヤテはそのビルに圧倒された。その真下に立っているから余計にそれが高く思える。このビルでおそらく500mはあるだろう。ハヤテがあっけにとられているとカレンが後ろから降りてきて声をかけた。
「このビルは地上100階立てのビルよ。あなたも聞いたことあるでしょ?ISROという機関の建物よ。」
国際科学研究機関(International Science Research Organization)略してISRO。世界で最も有名な科学研究所だ。
数年前にスーパーコンピュータ『溝』が開発されたことでも有名だ。このスーパーコンピュータは世界のスーパーコンピュータの中で断トツの性能と処理速度を示しここ3年、これに勝るスーパーコンピュータは開発されていない。そしてISROはこのスパコンで世界の天気予報を算出している。今までに『溝』が出した予報結果が外れたことは一度もない。今、世界ではISROは知らないものはいないほどどの国際機関なのだ。
しかし、ハヤテは知らなかった。ISROという単語を生まれて初めて聞いた。そういう風に感じた。
「ごめん。初めて聞いた。」
ハヤテは正直に答えた。カレンは少し驚いたようだが「まあいいわ。」と言ってそのビルに入っていった。
「ワタシ、クルマヲチュウシャジョウニカタヅケテキマス。」
ジェームズはカレンの背中にそういうと頭を深く下げた。
「ありがとう。ジェームズ。行きましょう。」
カレンは言うと先を歩き出した。ハヤテはカレンの後ろについてISROのビルに入った。自動ドアを超えてすぐに警備員が5名ほど待ち構えていた。しかし、カレンの顔を確認すると背筋をぴんと伸ばして敬礼をした。
カレンがゲートを通すと警備員はハヤテのことをどうすればよいのかわからずにおどおどして見せた。
「その子も通してあげて。」
カレンは優しい声でそういった。カレンの言い方にはどこか色っぽさがありそれが余計に警備員の判断力を鈍らせる。
若い警備員の対応を見かねた30代後半くらいの先輩警備員が横からやってきた。この時間帯には通行ゲートを利用する人も少ないのだろう。
「カレン様。失礼ですがこちらの方は?」
先輩警備員はカレンに臆せずはきはきと訊ねる。
「彼は照夫さんへのプレゼントを持ってきたのよ。」
カレンの言う照夫さんとはこの機関の最高責任者、小嶋照夫のことである。警備員はひどく混乱した。ハヤテのようなよくわからぬものをISROの最高責任者に会わせてもよいのだろうか。もしものことがあってはならない。
「失礼ですが、小嶋様に連絡させていただきます。」
警備員はカレンの反応を待たず、携帯電話を取出し電話を始めた。照夫はすぐに電話に出たようだ。警備員はハヤテに背を向け小声で何やら説明している。
カレンはその警備員の背後に近づくと何の前触れもなく警備員の携帯を取り上げた。
「もしもし。あたしよ。」
カレンは携帯を取り上げると数歩、歩いて金属の柵の所まで行き、そこにもたれかかって少し話をした。そしてすぐに携帯をもとの警備員に渡すと肩をポンと一つたたいて歩き出した。
警備員は慌てて電話を耳に当てそしてすぐに電話を切った。
「入れろ。とのことです。」
警備員はそういうとハヤテを中へ案内した。その時はすでにカレンは先を歩いていた。ハヤテは少し早足になりカレンの後を追った。
カレンはエレベーターホールで待っていた。ハヤテが追いついたころにはカレンはボタンを押して待っていた。そして10秒もたたないうちにエレベーターがやってきてカレンはそこに乗り込んだ。ハヤテも黙ってそれに倣った。
カレンはエレベターの5階を押した。エレベーターはそこから外の様子が見えるようになっていて、ハヤテはそこから見える夜景に目を奪われていた。今までに見たことのないような夜景がそこに広がっていた。
この街は詩音たちのいた街とは別の街の様だ。朝野医院から見た景色にこんなに大きなビルはなかったはずだ。もしこんなに高いビルがあれば一瞬で見つけてしまう。それを見たことがないということは、詩音たちのいる街からだいぶ離れた証拠だ。
詩音たちの街はどっちの方角だろうか。一体車でどのくらい移動したのだろうか。ハヤテは外の景色を眺めながらそんなことを考えた。そうしているとすぐにエレベーターの扉が開きカレンはすたすたと降りていった。
しばらく広い廊下を歩いていった。カレンはためらうことなく廊下の突き当りの両開きの扉を開けて中へ入っていった。その先にはまたエレベーターホールがあった。
そこに一人の男が待ち構えていた。
「よく来たね。ハヤテ。」
男はハヤテの姿を確認すると声をかけた。ハヤテはその男に見覚えがあった。
「あんたは…」
ハヤテは彼の姿に戸惑いを隠せないようだ。
「永久の昏睡。シデン。」
彼はハヤテが暗殺四天王になるまで四天王を務めていた男だ。シデンの暗殺方法は毒殺だ。外傷をほぼつけずにまるで眠っているように殺すのだ。
2年ほど前にシデンはあるミッションに行ったきり行方不明になっていたのだ。シデンが行方不明になって一週間で耶麻はシデンの四天王の称号を剥奪しハヤテにその称号を与えたのだ。
ハヤテは一週間でそれを受け取るのには少々気が引けたが、それも最初のうちだけで帰ってこないことがわかると勝手に死んだものだと思い込んで暗殺四天王の称号を背負っていたのだ。
「君の噂は前々からよく聞いているよ。」
シデンは何事もないようにハヤテの目の前でケロッとしている。
「どうして?どうしてあんたがここに?」
ハヤテの表情は混乱であふれている。それとは対照的にシデンは楽しそうな表情を浮かべている。
「俺は2年前アンダーを抜け出し、ここに来た。俺はここで俺の夢をかなえる。」
「夢?」
「ここなら出来る。」
シデンの表情は自信に満ち溢れていた。
「そんな話は後にしましょ。」
シデンとハヤテの仲裁に入ったカレンがその先にあるエレベーターに乗り込んだ。続いてシデン、ハヤテと続きエレベーターは上昇を始めた。
今度のエレベーターは先ほどのものとは違い外の景色を見ることはできなかった。
「どこに向かっているの?」
ハヤテはエレベターの中で目的地を訊ねた。
「照夫さんの所よ。」
「誰?」
ハヤテは率直に答える。
「ここのトップの人よ。」
そんな会話をしているとエレベーターは100階に到着した。このビルの最上階である。エレベターを中心に360度ガラス張りの窓が広がっていた。
「来よったか。」
ハヤテがその部屋に足を踏み入れると老人の声がした。ハヤテが声のした方を振り返るとそこには小柄な老人がいた。小柄ながらその風格からはどこか凄味があふれ出していた。
しかしハヤテは一目見た時からどうしても目についてしまう場所があった。
頭だ。
小柄だからか、その様子がはっきりわかってしまう。彼の頭には毛が全くなかったのだ。顔には白いひげを生やしているのにも関わらず頭には白髪一本だって見当たらないのだ。ハヤテはそこに目を奪われていた。
「おい。小僧。どこを見ておる。」
照夫はハヤテの目線に気が付き訊ねる。
「どこって…」
ハヤテは目線をずらし、言葉を濁した。流石に初対面の相手にハゲというわけにもいかない。ハヤテは言いたい気持ちをぐっとこらえた。
「まあ良い。それで例のものは…」
照夫の言う例のものは時空の剣で間違いないはずだ。ハヤテは腰にぶら下がっている時空の剣を照夫に見せた。
「ほぉー。少し抜いて見せてくれ。」
照夫は嬉しそうな表情を浮かべた。ハヤテは照夫に言われた通り鞘から抜いて見せた。
「素晴らしい。」
照夫はそれをまじまじと眺めて呟いた。シデンとカレンもそれに見入っているようだ。時空の剣はそこにあるだけで時間が止まったと錯覚してしまうほど美しかった。
「これで、夢がかなうぞ。」
照夫の表情ははちきれんばかりの笑顔となっていた。その言葉からも心から喜んでいることが理解できた。
「はい。やっと、叶いますね。」
シデンも嬉しそうな表情を浮かべ照夫に相槌を打った。その隣にいるカレンも言葉には出さなかったものの時空の剣を手に入れたことがうれしいようだ。
「ねえ。」
ハヤテは彼らの喜びを断ち切るように話に割って入った。照夫は緩ませていた表情をもとに戻した。
「この剣は一体何なんだ?」
ハヤテは目線を手元の剣に向けて疑問を唱えた。
「おぬし。本当に何も知らないのか?」
「うん。」
ハヤテは照夫の問いに即答した。
「それなら説明しよう。」
「俺が説明します。」
照夫の前にシデンが割って入った。
「え?今、説明しようとしてたよね?」
照夫は自分の方に指を向けシデンに訴えかける。
「はい。」
シデンはうなずく。
「じゃあ説明するよ?」
「いや。それは俺から。」
「え?どうして?不満?」
「いえ。決して不満ではございません。しかし、少々照夫様のことが気に食わないと言いますか、うざくてうざくて仕方ないと言いますか…」
「それを不満って言うんじゃないの?」
照夫のキャラが崩壊している。ハヤテはその様子を口を開けて眺めている。
「決して不満ではございません。ただ、俺は照夫様が嫌いなだけです。」
「え?嫌いなの?初めて聞いたよ。そんなこと。ちょっと泣きそうなんだけど。泣いていい?」
「どうぞご自由に。」
「もう知らない。シデンなんて知らない。」
照夫は子供のような口調になっていた。ちっちゃくてハゲでキャラがおかしいとなるともうこの人の話はまともに聞けないなとハヤテは感じた。
「それじゃあ、時空の剣について俺から説明するよ。」
シデンは爽やかにハヤテにそう告げた。さっきのやり取りで敗北した照夫は窓の外に目を向け外の雨の夜景を眺めていた。
「その剣には不思議な力があるんだ。」
それはアンダーやここのISROの人たちの反応を見てわかっていた。大切なことはその力が何かということだ。
「それは色々あるみたいなんだが、俺たちISROが求める理由は、この剣で世界を創ることだ。」
「世界を創る?」
ハヤテは繰り返した。シデンの言ったことを理解しようとしてみたが1㎜だって理解することなんてできなかった。
「この剣はある条件を満たすと時空を自在に操ることができるんだ。」
「時空を操る?」
「そう。それで俺たちが目指しているものはこれを使って新しい地球を作る計画なんだ。」
話が飛躍しすぐていてハヤテには理解できないようだ。
「もう一つ地球を創るの?この剣で。」
ハヤテは頭の中を整理しながら訊ねた。
「その通りだよ。時空の剣で新たな宇宙空間を創りだし、そこにもう一つの地球を創りだすんだ。」
シデンはとても嬉しそうにそれを語った。
「ちょっと待って。どうしてもう一つの地球が必要なの?この地球があるだけじゃダメなの?」
ハヤテは疑問を口にした。
「この星は、じきに人が住めなくなるわ。」
ハヤテの問いに答えたのはカレンだ。カレンは椅子に腰かけ長い足を組んでいる。
「住めなくなる?どうして?」
「人間が環境を破壊しすぎたのよ。」
カレンは首の向きを外へ向け雨の降っている夜の空を見た。
「科学の進化。それは生態系を狂わせ気候を狂わせ地球温暖化や異常気象などを引き起こした。様々な問題を抱えすぎてこの星は限界を迎えたの。」
カレンのその言葉はどこかせつなく、悲しく聞こえた。
「ISROの創ったスーパーコンピュータは10年後の気象まで予測可能なの。10年後どうなっていると思う?」
カレンは問うてみたがハヤテは答えられない。明日の天気がどうなるのかも知らない男が、10年後の気象なんてわかるはずもないからだ。
カレンはもとからハヤテに答えは求めていなかった。
「10年後、この星に人が住める土地はなくなるわ。」
カレンの言葉にハヤテは衝撃を受けた。そんなわけない。こんなにも平和な星が10年後誰も住めないなんてありえない。ハヤテはカレンの言っていることを頭の中で否定した。
「来年にも地球温暖化の影響で北極南極の氷はすべて溶け、海面が上昇する。そして、世界各国で台風、竜巻、ゲリラ豪雨などが起き続ける。これにより建物は倒壊したり、海に沈んだりで人類の1割は滅びる。
5年後には氷河期のような気温となり海が凍り付く。建物を失った人は寒さをしのげずに凍死。建物があっても電気がなかったり食料がなかったりで人類の半分は滅びる。運よく生き残れたとしても、食料の備蓄は長くはもたない。
そして地球上のすべての生命体は10年以内に滅亡するわ。」
カレンの言葉は信じられないものだった。しかし、それがもし本当だとするならばもう一つの地球を創らなければならない。ハヤテはシデンの言っていたことを少し理解した。この地球がもう少しでダメになるから新しい地球に乗り換えるという単純な話だ。そんな夢物語をこの剣で現実に出来るというのだろうか?
「初めにおぬしに聞いておかなければならんことがある。」
先程、シデンに立ち位置を取られたはずのハゲでチビの照夫がキャラを取り戻し堂々とした振る舞いで立ち尽くしていた。ハヤテは自然とそちらに目を向けた。
「鍵は持っておるか?」
カギ。
ハヤテはまたもや訳のわからない言葉に混乱した。
「鍵って、どこの鍵?」
「時空の剣のに決まっているではないか。」
照夫の返答はハヤテをさらに混乱させた。
剣の鍵?
この剣に鍵穴なんてあっただろうか?そんなものはなかったはずだ。そもそも、鍵で何を開けるのだろう?
「そんなもの俺は知らないよ。」
ハヤテは照夫に答えた。
「それなら適合者なのか?」
照夫は続けて質問をした。適合者。これはカレンが言っていた単語だ。しかし、これもハヤテ自身には身に覚えがなかった。
「それはまだ、わかりません。本人に自覚は無いようですが。」
横からカレンが答えた。ハヤテは自分の頭の上で訳のわからない会話が繰り広げられているようで少し嫌な気分になった。
「それなら、お主はなぜ時空の剣を持っておったのだ?」
「それは…」
ハヤテの頭に辰郎や詩音の事が浮かんだ。しかしそれを直ぐに断ち切り沈黙を貫いた。
「言えないようだね。」
見かねたシデンが口を挟んだ。ハヤテは俯きただ、一点を見つめていた。
「鍵がないなら仕方がない。強行手段に出るしかないの。」
照夫はゆっくりした口調で言った。
「強行手段?」
ハヤテは聞き返す。
「時空の剣を利用するためには、それを使う適合者と鍵が必要となるんだけど今はそんなことを言っている場合じゃないんだ。」
横からシデンが説明した。
「ちょっと。説明部分とらないでくれる?シデン君。」
シデンは照夫を無視して続ける。
「鍵がないのなら無理やりこじ開けるしかない。というわけで膨大なエネルギーを利用してこじ開けるんだ。」
「エネルギー?」
ハヤテは一つ一つの単語をしっかりと自分の中で処理してゆく。
「ちょっと待って。それは言わせて。お願いシデン君。」
もはや照夫の言葉は誰の耳にも届いていない。
「太陽のエネルギーを利用するんだ。」
「ああああああああ!!!」
シデンの言葉とともに照夫が悲鳴をあげた。
「うるさいですよ。チビハゲテルテル照夫さん。」
シデンは爽やかに言う。
「てってってってってっ!!!テっテルテル?シデン君?ちょっと言い過ぎやしないか?」
「太陽を利用するってどういうことですか?」
ついにはハヤテすら照夫の存在を無視して話を続けようとした。
「ひどい!ここのトップだよ?一番偉いんだよ?」
照夫は涙目だ。
「照夫さん。少しあっちに行ってましょうか。」
カレンは照夫を連れてどこかへ行ってしまった。
「静かになったところで話を戻そうか。」
相変わらずの爽やかさでシデンは言った。
「太陽には膨大なエネルギーがある。それを吸い取って時空の剣を発動させもう一つの地球を創る。簡単に言うとそういうことだ。」
ハヤテは大まかに理解した。しかし少し疑問が残った。
「鍵がなくても時空の剣が使えることはわかったけど、さっきの話では適合者が必要なんじゃないの?」
ハヤテの質問は核心を突いたようでシデンを困らせた。
「それは…まぁ。」
シデンは愛想笑いを浮かべる。しかしそんな事でハヤテは納得できる筈がない。
「大丈夫なの?」
「問題はない。まぁ、説明するのが少し厄介なだけだ。」
シデンは明らかに動揺しているように思えた。何か、言いたくないことを隠しているような風に思えた。しかし、シデンが言わない以上それを問いただしても無意味なことだと感じたハヤテはそれ以上の追求はしなかった。
「適合者については問題はないのだけど鍵がないのはちょっと問題なんだよね。」
シデンは話をそらすかのように話題を戻した。
「どうして?太陽エネルギーを使うのじゃないの?」
「そうなんだけど、太陽エネルギーは無限じゃあないからね。」
シデンは腕組をして険しい表情をする。
「無限じゃないって、無くなるってこと?」
ハヤテはシデンの言葉から次の言葉を連想させた。
「そういう事だ。」
シデンは険しい顔のまま頷いた。
「でも、みんながもうひとつの地球に移動できればたとえ太陽が無くなっても大丈夫じゃないの?」
「あぁ。その通りだ。」
シデンの返事にハヤテは安堵の表情を浮かべた。しかしシデンはそうではなく険しい顔のままだ。
「太陽エネルギーの吸収は一瞬で行う。電磁波を送りエネルギーを塊にしてこちらに送り出すんだ。そしてエネルギーを吸収した瞬間に時空の剣でもうひとつの地球を創りそこに我々を送り込むわけだ。」
「だから、その一瞬にその場にいない人間に関しては太陽のない地球に残って貰うしかない。」
シデンは言い切った。
「それって…つまり…」
ハヤテの表情が青ざめてゆく。ハヤテは次に来るシデンの言葉がわかっている。どんな単語が来るかはわかっていないがどんなニュアンスの言葉かはわかる。だから聞きたくない。でも、ハヤテはそれを聞く以外に選択肢はなかった。
「他の人間は見捨てるしかないんだ。」
シデンはその残酷な一言を言い放った。ハヤテは何がなんだかわからない状態だ。つい先日までアンダーから抜け出せれば普通の生活が出来ると思っていたのに。
今は普通の人ですら普通の生活が送れないかもしれない。
辰郎や詩音の生活すら危ういのだ。ハヤテは自分がどうなろうと詩音たちの生活だけは守りたい。いや、守らなければならないと感じた。
「ハヤテ。そんなことは俺だってしたくない。知っていることがあるなら教えてくれ。」
シデンはまっすぐハヤテを見つめた。ハヤテの心が大きく揺れ動いた。
鍵のことをハヤテ自身は知らないけれどもしかしたら辰郎が知っているかもしれない。
でも、シデン達を信用したかというとそうでもない。カレンやシデンの言っていることはでまかせだということもなきにしもあらずだ。戸惑いながらも場を繋ぐためハヤテは喉を震わせた。
「鍵があれば世界中の人達の命を助けられる?」
「それは不可能かな。」
シデンは答えた。ハヤテは「え?」っと呟きシデンをしっかりと見つめた。
「しょうがないよ。すべての人間を連れていけば同じことの繰り返しになってしまう。だから厳選して連れていく人間を決めるんだ。」
「厳選?」
ハヤテはシデンが言わんとすることが理解できないでいた。というより理解したくなかった。
「ISROのスーパーコンピュータで人間に順位を付けその上位の人間のみを連れていくんだ。」
「人間に順位をつけるの?」
ハヤテはその言葉を聞いていつの日かに聞いた歌を思い出した。そうだ。あれは詩音の歌だ。螺鈿という歌だ。
『この世に生まれたものはすべて
上も下もなく平等で
たとえそれが理想だとしても
私は追い求める』
ハヤテの頭の中にメロディーが流れた。詩音の美しい声だ。たった一、二回聞いただけの曲なのにはっきりと思い出せた。それは詩音の声もまたそうだが歌詞が心に残っていたからだ。
そうだ。人間は平等なんだ。時には人間に順位をつけることもあるだろう。スポーツや勉強はその典型的な例だ。
しかし、人間の価値はそれだけでは決まらない。誰にだって長所があり、誰にだって誰にも負けない魅力がある。誰だって死んでいい人間なんていない。
誰だって誰かにとって必要なんだ。ハヤテは詩音と出会ってそのことを学んだ。
だから今、目の前で行われようとしていることにどうしても同意できなかった。
「そうだ。人間に順位をつけるんだ。そうすることで理想の王国をつくるんだよ。」
シデンは爽やかな笑顔で言った。しかしシデンの表情とは逆にハヤテの表情は曇って行った。
「俺は…地球が滅びるまで待つのは嫌だ。」
ハヤテはうつむきながら呟く。
「でも…誰かを見捨てなければならないのはもっといやだ。」
「そんなわがままは通用しない!」
シデンはさっきまでの爽やかな笑顔とは打って変わって力強い眼差しでハヤテに言った。
「このまま全員で沈む船に乗り続けるのか?違うだろ?それなら船を乗り換えなければならない。でも船を壊すような奴は乗せることができない。新しい船も壊れたら元も子もないだろ?」
「そうだけど…」
ハヤテは力なく呟く。シデンの言うことはごもっともだ。言っていることも分かる。でも納得ができない。ハヤテにはたとえどんな人でも見捨てることができない。
「だったら知っていることを教えてくれよ。」
シデンはハヤテに詰め寄った。
「ごめん。」
ハヤテは呟く。
「俺はここの考えに賛同できない。」
「そんなことはどうでもよい。」
いつからいたのか―元々どこにもいかなかったのか―照夫が現れた。
「ただお主にはその時空の剣をどこで手に入れたのか、誰から受け取ったのかを言ってもらえればよいのだ。」
照夫はゆっくりと歩きながら寄ってきた。シデンは心なしか不快の表情を浮かべる。
「ごめんなさい!」
ハヤテは言いながら時空の剣を抜いた。
「何をするきだ!?」
照夫が叫ぶと同時にハヤテは時空の剣を窓ガラスに向かって投げた。そして投げた方向へ全速力で駆け出す。
『パリン!』
窓ガラスは音をたててひび割れた。そしてそこめがけてハヤテはダイブした。
ハヤテは地上500mの空に飛びだした。
「おい!このガラス高いんだぞ!」
照夫の声が虚しく空に響いた。
「突っ込みどころ、そこじゃねーだろ。てるちゃん。」
シデンの声は風の音に消され誰の耳にも届かなかった。
ビルの最上階から飛び降りたハヤテは所々でブレーキを掛けながら地上に降り立った。ハヤテの降りた後は、ビルに縦の傷が入っていた。
それでもすべての衝撃を吸収できるはずもなく地面にたたきつけられたハヤテは相当のダメージを受けたようだ。
地上に降りて少し痛みに悶えていると数名の警備員や従業員のような人が外に出てくるのがわかった。ハヤテはすぐさま近くの茂みに身をひそめた。
「コノアタリノハズデス。サガシマショウ。」
ジェームズの声がした。どうやら上の照夫が下にこのことを伝えすぐさまハヤテの捜索に出たのだろう。ハヤテは痛むからでに鞭打って逃走を試みた。それは想像より楽にことが進んだ。
ハヤテはすぐにISROの敷地を出ると当てもなく走り回った。行く当てもなくここがどこかも分からぬままひたすら走り回った。山を超え川を越えただひたすらに逃げ回った。
六月の夜の雨はハヤテの体力を大きくそぎ落としハヤテはフラフラになっていた。もうほとんど意識もはっきりしていない。
薄れゆく意識の中でハヤテは考えた。もしかしたらこのまま死ぬのではないだろうか。ハヤテが死んでしまったらこの時空の剣で救える命も救えなくなるのだろうか。こんなことなら剣だけでもISROにおいてこればよかったな。
ついにハヤテは力尽きた。ハヤテは雨に打たれコンクリートの地面に横たわった。
ああ、最後にもう一度詩音の歌が聞きたいな。