俺の一番、大切なひと。
抱きしめたヒナの身体は、生きている人間だと本気で思うくらい暖かかった。今まで触れることを忌避していたのが、馬鹿らしくなるくらいに。
ヒナはいまここにいるのに、俺はその手を離さなきゃいけない。
最初は動揺していたヒナだったけれど、急に動揺が消えたのを察した。ああそうか、自分が死んだことを受け入れたんだ。それとも、事故のことを思い出したのか。
彼女が俺の背を押してくれようとしているのは、すごく分かる。多分、ヒナの言うとおりにするのが最善なんだろう。
でもさ、それはちょっと酷だよ。無理だよ。俺はほんとにヒナのことが好きだったんだ。突然目の前で失って、かと思ったら実体を持って俺の前に現れて、「別の女を探せ」と。無理な相談だよ。少なくとも、今は。
男のほうが未練がましいというじゃないか。ぱっと切り替えられないよ。
ヒナ、何か勘違いをしている。俺はヒナが初恋の相手で、最初の恋人なんだ。結婚まで真剣に考えていた。その気持ちを『思い出』にして、リセットするには時間がかかる。
俺はヒナが思っているほど要領も良くないし、情けないし、うじうじするタイプだ。
それでも、ヒナに言われた通り前に進んでいきたいから――俺はお前とお別れする。
「ヒナ……手を出して」
抱きしめていた手を緩めると、ヒナが見上げてくる。
左のポケットには、指輪が入っている。事故以来、渡すことができなかった指輪を、俺はずっと持ち歩いていた。葬式で冷たいヒナの指に指輪をはめてやることも、骨壺に納めてやることもできなかった、俺の未練の象徴。
右腕のギプスがもどかしい。なんとかヒナの左手を持ち上げ、無事な左手で薬指に指輪をはめる。俺とヒナのイニシャルの入った、銀色のリング――。
これをはめて、ヒナのご両親に挨拶に行くつもりだった。俺の両親にはもう話をつけてある。正式に、婚約を申し込もうと思っていた。
籍を入れることは勿論、婚約さえできなかった、恋人のままの俺たち。
もう二度と会えない。けれども、確かに陽南子という人間がいたことの、せめてもの証として。
君に、遅くなったけれど指輪を贈る。
「指輪……!」
自分の指にはめられた指輪を、ヒナはきらきらと輝いた目で見つめる。俺の左手薬指にも、もちろん同じものが光っている。
「誕生日おめでとう。本当は、これを渡して婚約を申し込もうと思ってたんだ。……渡せなくて、ごめんな」
「そんなことないっ……私、指輪もらうのが夢だったんだぁ……ありがとう、ありがとう」
嬉し涙、というのかな。ヒナは微笑みながら、泣いている。その表情は、とても綺麗だ。
俺の強い後悔のせいで、この世のこの公園に縛り付けてしまったヒナ。
俺もヒナの死を受け入れ、前に進もうと思う。
ヒナが守ってくれた命を大切にして、明日を生きる。
会うのは――これが最後。
そっとヒナの顎を持ち上げ、キスをした。それはまるで、時間が止まってしまったかのようで。
深く深くキスをして、ヒナのことを抱きしめる。これが最後だと思うと、名残惜しくて、辛くて。
君と過ごした日々。君がいなかったら、俺はどんな風に生きていただろう。
そう思うほど、君と過ごした時間は密度が濃くて。いつだって君は、俺の生活の真ん中にいた。
だからいま、こんなにも辛い。
君がくれた思い出が綺麗すぎて楽しすぎて、辛いんだ。
それをいつか『過去のことだ』と割り切ってしまう日が来るかもしれないと思うと、怖い。
それでも生きる。君のためにも。
楽しかった。幸せだった。
君はどう思っているだろう。
俺が君と再会できるのは、一体何年後になるだろう。
その時まで待っていてくれ。
また会えたら、君に俺が体験してきたことを教えるから。
君も、いろんな話をしてくれよ。
それまで、ばいばい。
「大好きだよ。ケイくん」
耳元でそんな声が聞こえた。
目を開けてみれば、もうそこにヒナの姿はなかった。ヒナの身体を抱き寄せた感覚や、キスをした柔らかい唇の感覚は確かに残っているのに、忽然と彼女の姿はない。
夕暮れ時の、いつもの公園だ。
もう俺が、ここのベンチでヒナを待つことはない。
それでもたまに来て、君を思い出すことくらい許してくれるだろうか。
左薬指の指輪に、そっと触れる。ヒナに渡した指輪は、彼女と一緒に消えてしまった。持って行ってくれたんだな。
明日は日曜日。
ヒナの家に行こう。俺は自然とそう決意していた。
葬式の日以来、なんとなく行くことを忌避していた、ヒナの家。
そこにはまだ、墓に納められる前のヒナがいるんだ。
ご両親とも、面と向かって話をしていない。あんなに世話になったのに、何やってるんだろうな、俺は。
ちゃんと、別れを告げて来よう。
最愛の人へ。
ありがとう。