触れるのが、怖い。
高校一年生のときに付き合い始めた陽南子と会うのは、決まってこの公園だった。進学した大学が違うため、生活リズムはまるで違う。だから決めたのだ、この公園で会おうと。俺とヒナの家の近所で、高校生のころからよく帰りに立ち寄った小さな公園で。時間があればここにきて、ヒナが来るのを待った。ヒナが俺を待っていてくれることもあった。ふたりで映画を見に行ったり食事に行ったりすることもあったけれど、この静かな公園でふたり喋っているのが一番楽しいと思えたのは、きっと俺だけじゃないと思う。
ふたりだけでいられたんだ。周りの目を気にすることもなく、ヒナとふたりだけで。
だから、その日だって普通に。ごくごく普通に。俺がその公園に行って、ヒナがやってくるのを待っていたんだ。
夕方の四時半頃に公園に入ってきたヒナは、俺を見つけてにっこり笑った。小走りでベンチに座っている俺のところまでやってきて、白い息をはあっと吐き出して言う。急いできたんだろうか、少し頬が紅潮しているのは寒さだけではないだろう。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「大丈夫だよ。お疲れさん」
すとんと俺の右隣に腰を下ろしたヒナは、両手をこすり合わせて息を吐き、温めている。手袋もしていなかった細い指は真っ赤になっていて、見るからに冷たそうだ。
俺は無言でヒナの左手を掴み、着ているコートのポケットに俺の手ごと突っ込んだ。驚いた顔をしたヒナだったが、すぐに「あったかい」と笑う。
ヒナは、よく笑う。何でもないと思うようなことでも、すぐに。陽南子という名前の通り、この凍てつく寒さの中でも、それを溶かすような太陽の笑みを見せてくれる。俺はそれが好きで、好きで――。
他愛無い話をしばらく続けたのち、ヒナは俺の顔を覗き込んできた。人と目を合わせて喋るのは好きだ。相手の想いが真っ直ぐこちらを向いているのが分かるし、目は嘘を吐かないから。そう思うようになったのはヒナのおかげでもある。彼女の瞳は、真っ直ぐで綺麗だ。
「ケイくん。今日が何の日か覚えてる?」
「ん?」
――勿論。今日はヒナの誕生日。自分で言うけど、俺は記念日の類を忘れたためしがない。
前々からヒナは指輪が欲しいと言っていた。いま通っている専門学校で、よく男子に絡まれるんだそうだ。そりゃヒナは可愛いし、気持ちは分からんでもない。ヒナはたいそう言い寄られるのが嫌みたいで、虫除けのために指輪がほしいと――俺とのペアリングをつけたいんだと。
いま、一度もポケットから出していない俺の左手の薬指に、そのペアリングがある。そしてヒナに贈るイニシャル入りの指輪が、小さな箱に入ってポケットに収まっている。しきりにその箱の感触を左手で確かめ、俺は決意を新たにする。
専門学校に通っているヒナのほうが、俺より一年早く社会に出る。
だからこう言うんだ。「一年だけ待っていてくれ」と。
俺が大学を卒業したその時には、君に結婚を申し込むから――と。
「――何の日だったかなあ。特別なことあったっけ?」
普通に言うのも芸がなくて、俺のちょっとした意地悪心が鎌首をもたげた。使い古したとぼけ方だ。実際、ヒナは笑っている。
「……もうっ、信じられない! 私、帰る!」
本気じゃないくせに、ヒナはぱっと立ち上がって速足に公園の出口へ向かう。俺も走って追いかけ、歩道を歩きはじめたヒナの後姿を見て足を止める。
「ヒナ!」
ぴたりと歩を止め、公園脇の歩道上で向かい合う、俺とヒナ。
すっかりと日も短くなったせいか、もう街灯が点きはじめている。うすらぼんやりとした闇の中で、俺はやっと左手をポケットから出す。指輪の入った小箱を掴んで。
「誕生日、おめでとう」
そう告げると、ヒナは優しく微笑む。
「これを受け取ってほしいんだ」
掌に乗せた小箱の正体が分からないのか、ヒナはゆっくりこちらへ歩み寄ってくる。彼女の柔らかくて長い髪が、ふわりと風に揺れた。
急に目が眩む。ヒナの後ろから差した強い光の刺激が、真正面にいる俺の目を直撃した。
なんの光だろう。そう思った直後に聞こえたのは、爆音。クラクションの音と、凄まじいブレーキ音が、夕暮れ時の住宅街に響き渡った。
それを認識する間もなく、俺に歩み寄ってきていたヒナの身体がふわりと浮いた。訳の分からないといった表情のヒナは、真っ直ぐ俺の元へと飛び込んできた。
……ヒナの匂いがする。
そう思って束の間失っていた意識を取り戻してみれば、すぐ傍にヒナの綺麗な黒髪があった。いつの間にか俺たちは地面に倒れていたらしい。そう思って身体を起こしてみれば、右腕が激痛を発した。今までに経験したことのない痛みに喘ぎつつ、なんとか顔をあげる。
「ヒナ……」
かすれた声でヒナの名を呼んでも、ヒナはぴくりとも動かない。
街灯以外に俺たちを照らす光がひとつ。酷く眩しくて……あれは車のライト? 車の外に出て慌てた様子で携帯電話を取り出している男の人がひとり。
急に鼻の奥にツンと来たのは、むせるような血の匂い。
ヒナは、血まみれだった。
「……ヒナ? おい、ヒナ……」
まったく機能しない右腕を庇いながら、ヒナの傍に這って移動する。くそ、どうして俺の身体は思うように動かないんだ。
横向きに倒れたヒナは、血の池の中に沈んでいた。手首は妙な方向へ曲がり、身につけていた白いマフラーは鮮血色に染まっていて。目を固く閉じて微動だにしないその姿は、赤一色で。
どこからか悲鳴が聞こえてきた。音を聞きつけた近所の人だろう。そりゃあ……血まみれの現場を見れば、悲鳴の一つも出るだろう。
そんな音は耳にも入らず、俺は夢中でヒナを抱き起した。右腕の痛みなど忘れた。ぼろぼろになったヒナを起こして、必死に声をかけるだけなんだ。
「ヒナ……なあ、陽南子……なんで、何も、言わない……っ」
俺が、あのとき。
「ヒナ、目を開けてくれ」
素直に指輪をあげていれば。
「ヒナ」
ヒナが公園の外に出ることもなくて。
「ヒナ……あ、ああああぁ――ッ!」
赤い海の中に、銀色に光る指輪が落ちていて。
箱から飛び出したそれには、俺のイニシャル「K」と、ヒナのイニシャル「H」が彫られていて。
片手でヒナを抱きしめたまま、感覚の失せた右腕を伸ばして固くその指輪を握りしめた。
遠くに、救急車のサイレンが鳴り響いていた。
★☆
交通事故。エンジントラブルだかなんだか知らないが、制御不能になった車が暴走。背後からヒナにぶつかり、俺はそんなヒナに弾き飛ばされる形で、命拾いをした。俺の怪我は打撲と、右腕を骨折した程度だ。
けれどヒナは死んだ。自分の身に何が起こったのかを、知る間もなく。
俺のせいで。
俺のせいで。
俺の、せいで。
ヒナの葬儀が終わってしばらくすれば、周囲は落ち着いてきた。ヒナの家族や専門学校の同級生たち、中高の旧友。近所の人や、先生たち。誰もが哀しんだけれど、みんな時間と共にそれを乗り越えようとしていく。俺とヒナの仲を知っている彼女の両親は、「啓太くんが無事でよかった」とそう言って、泣きながら俺を抱きしめてくれたんだ。一人娘を亡くしたショックは俺の比じゃないだろうに、ヒナを守れなかった俺を責めることもしなかった。
あれから俺は、ヒナに渡せなかった指輪を握りしめて、いつまで待ってもヒナが来るはずのない公園で、彼女を待っている。俺は未練がましくて、自分を責めることしかできなくて、散々泣いて枯れ果てた涙はもう出ないけれど、代わりに言いようのない絶望が襲ってくる。
そんな俺のどうしようもない気持ちが、彼女を呼んだのだと思う。
「ケイくん」
いつものように、ヒナの声が俺を呼ぶ。最初は幻聴かと思った。ヒナと会いたくて会いたくて、その想いが幻聴を呼んだんだと。それでも名前を呼ばれるから顔をあげてみれば、そこにヒナがいる。記憶の中の鮮明なヒナとまったく同じ姿で、ブランコに座る俺の目の前にいるんだ。不思議そうに、俺を見つめて笑うその顔も、ヒナのままで。
「ぼうっとしちゃって、どうしたの?」
幻覚の訳が、ない。
明らかにおかしいのは俺にも分かっている。彼女を見て、何も考えずにその存在を受け入れた俺自身も、おかしいんだ。
だってヒナは、あの日の事故のことをまったく知らない。俺の右腕のギプスを見ても何も反応しなくて、今もヒナのなかで「ヒナは普通に生活をしている」。ヒナは普通に家で寝起きして、学校に通って、友達と会って、夕方ここに来ていると思っている。
けれど彼女が生きているのはこの公園の中でのみ――。
その証拠に、夕方になるとヒナは突如として公園に現れる。そして夜になると俺に「またね」と言って公園の出口へ向かい、公園を出た瞬間唐突に消えてしまう。
死後に俺の前に現れるヒナは何なのか。俺の幻であるという認識は端からない。彼女は確かにここにいるのだから。
霊だろうかと真っ先に思ったけれど、俺は別に霊感などない。それに事故のことを何も知らないのはおかしいし、俺の怪我に疑問を抱かないのも妙だ。
ヒナの話によく登場する、同じ高校出身の加藤さんという女子に会いに行ってみた。彼女はヒナと同じ専門学校に進んで、今もとても仲がいい。俺も、ヒナを通じてそれなりに親しかった。
そして加藤さんに聞いてみた。『ヒナの姿を見たか』と――我ながら馬鹿げた質問だというのは分かっている。ヒナはもう、この世にいないというのに。
加藤さんは悲しそうに笑って首を振る。
「会えたらいいのにね。……啓太くんのところには、陽南子が来たの? 羨ましいな……陽南子、啓太くんのこと大好きだったもんね」
――今日、志乃ちゃんと遊んだんだよ。そう言っていたヒナの言葉の裏は、加藤さんから取れなかった。当たり前、だよな。
試しにヒナに「加藤さんは元気だったのか」と聞いてみると、「元気だった」と返ってきた。……そんなはずはないんだ。加藤さんはヒナの葬儀の時から、かなり憔悴してしまっている。あの姿を見て元気だなんて、とても言えない。俺とヒナでは、会った加藤さんの認識が違う。
ヒナは俺にしか見えなくて、彼女の中には事故以前の記憶しかない。会えるのは公園の中で限られた時間のみ。
だから俺の出した結論はこうだ。
俺の強い後悔の念が、ヒナをあの公園の中に縛り付けているんだ。
幻でも霊でもなく、あのヒナは俺の想いの塊。俺の記憶そのもの。俺がヒナに本当のことを話さない限り、ヒナは永遠にあの公園の切り取られた時間の中で存在し続けるんだ。
――けれど俺は、ヒナに何も言えなかった。何もなかったかのように、当たり前にそこにいるヒナが嬉しくて。彼女が死んだなんて信じたくなくて。俺はヒナを消したくなかった。
だから俺は――相変わらず、ヒナの話を聞いて相槌を打つことを続けている。ヒナのその笑顔を曇らせたくない、その一心で。
「ケイくん。あのね、今日ね」
楽しそうに話すヒナの言葉を遮ることなんてできなくて、俺も笑顔で頷いた。そして時々忘れるのだ、彼女が実在しない人間であるということを。
こんなことをいつまで続けるのだろうかと自分に問いかけてみても、答えはない。
ただ――ヒナに触れることが怖くなった。触ったら、壊れてしまいそうで。もし彼女の肌が異様に冷たかったら? もし俺の手をすり抜けさせてしまったら? それを思うと、怖くて仕方がない。
「ねえケイくん、来週の日曜日、映画観に行かない? ケイくんが観たいって言ってたやつ、公開されてるよ」
ある日ヒナはそう言った。そういえば、前に映画を観たいなんて言ったな。日付の感覚だけは、ヒナも正常らしい。
でも、無理だよ。ヒナはこの公園の外では存在できないんだ。この公園の中でだって、俺以外には見えないのに。
「……ごめん、その日はちょっと用事入ってて」
「あ、そうなの……?」
気付いたら考えるよりも先に答えていた。明らかに不審そうなヒナの視線は痛いけれど、仕方がない。
その時、ベンチに置いていた俺の指先に何かが触れた。ヒナの指――そう思った瞬間に、俺は彼女の手を振り払ってしまっていた。
隣で呆然としているヒナを見て、ようやく俺は我に返る。なんてことをしたんだろう、俺は。
「あっ……ご、ごめん」
「……して?」
「ヒナ……?」
「どうして? そんなに私のこと嫌になったの? 私に触られるのも、私と出かけるのも嫌なくらい? ねえ、そんなんだったらフッてくれたほうがずっといいよ!」
大好きだったヒナが、泣いている。大粒の涙が零れ落ちて、後から後から涙は眦に滲んでいく。
ヒナを泣かせない。それはずっと前から誓っていたことだ。それなのに俺は、それを守れなかった。無意識に彼女を避け、傷つけた。
霊なのか、幻なのか、確かにここに存在するのか。もうそんなことはどれでもいい――このままでは駄目なんだ。俺も先に進めない。ヒナも悲しむだけ。
だから、伝えなきゃ。終わりにしなきゃ駄目だ。
そっと手を伸ばして、目に溜まる涙を弾いてやる。肌に触れるか触れないかといったぎりぎりのところ。ヒナは驚いたように顔を上げた。
「……ヒナは悪くないよ。俺が……俺が臆病で、弱いからいけないんだ」
「ケイくん……」
「ヒナに触ったら、ヒナが壊れちゃうんじゃないかって……それを思うと、怖くてさ。二回も目の前で失うのが、辛くて」
「何……言ってるの?」
分かんないか。でも、ちゃんと伝えるから。
久々に真正面から見たヒナの瞳は、相変わらず綺麗なままだ。それにどこか、ほっとした気分もある。
「ヒナ。俺の姿、ちゃんと見て」
「姿……?」
「そう。俺のこと、ちゃんと見て」
まずは俺の姿を。事故からまだそんなに経っていないから、俺の包帯もギプスも取れていない。今までは何も言わないでいたけれど、ヒナにはきちんと見てもらわないと。
見てと言って、ようやくヒナは俺の怪我に気付いたらしい。悲鳴をこらえながら、目だけを大きく見開いている。今の今まで健康体だった人間が急に大怪我しているんだ、そりゃ驚くよな。
「目を逸らさないで。ちゃんと見て。――俺も、ヒナと向き合うよ」
真実をヒナに伝えるということは――彼女の死の事実を、俺自身が受け入れるということだった。