*言えない想い*
「ただいま~」
木枯らしが吹いている風に当てられて、冷たくなった手をこすりながら、五階建てのマンションの中にある螺旋階段をグルグル上って501号室と書いてあるプレートの下についている桃色のドアを開けた。
辞書や教科書。友達から借りた少年系の雑誌やらと、多種多様なものが入った大きい学生鞄を廊下にドスンと置いて、学生靴からスリッパに履き替えようとしていたオレ。
「サクラ、お帰り。ちょうど良かったわ。雅くんのところにオカズを持って行ってあげて~」
雅さんのことを考えていたちょうどその矢先、廊下の行き止まりにある台所から言われた母さんからの命令で、心臓が跳ねる。
「ええ~?」
とっさに言ってしまった言葉。だけど本当は、今すぐ雅さんに会いたいって思っていた、トクン、トクンと跳ねる心臓をなんとかしたくて照れ隠しで言っただけ……。
「『ええ~?』じゃないわよ。今日から一週間、雅くんのご両親は旅行に行ってるでしょう? しっかりものの雅くんだから大丈夫だとは思うけれど、学校が終わってからご飯を作ったり大変だものね。ウダウダ文句言わずに行ってきて」
そんな感じで抗議するオレの内心を当然知らない母さんは、怒り口調でそう言うと、スタスタと足早にやって来る。
ズイっと前に出された片手鍋からはクリームシチューの匂いがした。
「今日、シチュー?」
くんくん匂いを嗅いで尋ねると、腰に手を当てて母さんが頷く。
「雅くん、大好物だから。ついでにアンタもだったわね」
ついでにってひどいな。
オレがシチューを好きになったのも、もちろん雅さんの影響だったりする。
――オレって、それだけ雅さんが好きなんだ……。
そう思うと、勝手に口元に笑みがあふれてくる。
……ほんと、どうしようもない。――今までよく雅さんへの想いに気づかなかったよな、オレ。
なんて思いながら、差し出された片手鍋を学生カバンの代わりに受け取って、学ランの上にコートを羽織ったままの、いわゆる学校から帰ってきたままの格好でドアノブに手をかける。
ガチャリ。
あたたかい蒸気があった家から一歩外へ出ると、枯葉をひとつ運んだ木枯らしが、まるで標的を見つけたみたいにオレめがけて吹いてくる。
「さむっ!!」
ヒラヒラと舞う枯葉を横目で見ながら、502号室と書いたプレートの下にあるインターホンを鳴らすと、乾燥している空気に機械音が虚しく響いた。
だけど、今のオレにとっては幸せの鐘の音のように思える。
……ちょっと大げさだけど。
「はい」
澄んだテノールの声が機械越しから聞こえると、それだけで心臓は早鐘を打つ。
「みやび、だれ?」
雅さんが好きなシチューを持ってきたと伝えようと、口を開けた直後、インターホン越しから聞こえる女性の声に、木枯らしは容赦なくオレの体を突き抜けていった。
彼女さん、居たんだ……。
手にしていた鍋がなぜだろう、ものすごくちっぽけなものに見えて、開きかけた唇を噛み締める。オレの脳裏には、街中で見かけた時の――ふたりが笑い合う姿が脳裏に過ぎった。
体が冷たくなって、凍っていく……。
「……っつ!!」
悲しくて、悲しくて……苦しくて。――胸が、張り裂けそうなくらい痛い。
オレは何も言わずにその場から去った。