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『ログ・ホライズン 二次創作』

「アシュリン」と「ケーキ」と「憧憬の少女」(前編)

作者: トド

 橙乃ままれ先生の『ログ・ホライズン』のスピンオフ作品。松モトヤ先生の『ログ・ホライズン外伝 ハネムーン・ログズ』の二次創作SSです。

 内容はシリアスで、重めの話です。また、独自解釈やキャラ崩壊の恐れもありますのでご注意下さい。


 ――あの人の作るケーキには、きっと魔法がかかっている。



「……なんなんや、このケーキは! うち、いままでこないな旨いケーキ食べたことないで」

 瞬く間にケーキを食べ終えてから、マリエさんは驚きの声を上げた。


「……うっ、あまりの美味しさに一心不乱に食べちゃった。もっと味わって食べればよかった……」

 明日架さんもそう残念そうに呟く。


「……言葉も無い、とはこのことですわね……」

 普段は冷静なヘンリエッタさんまで、そう言って呆然としている。


 でも、それは少しの間だけ。ケーキの味を思い出して、すぐにみんな笑顔になる。


「美味しかった」って言って、みんな笑顔になる。



 ――そして、あの人のケーキにかかっている魔法は、この<エルダー・テイル>の魔法とは違う魔法だと私は思う。



「どうですか、にゃん太さん?」

「……いやはや、驚きましたにゃ。セララっちから『すごいケーキ』とは聞いていましたが、まさかこれほどとは。いや、素晴らしい経験をさせてもらいましたにゃ。ありがとうございますにゃ、セララっち」

「いっ、いえ。にゃん太さんが喜んでくれたら、私も嬉しいです」



 ――それは、みんなを幸せにする魔法。それは、みんなに幸せを運ぶ魔法。お伽話に出てくるような、不思議だけれど素敵な魔法。




 ――だけど、どうしてその魔法を使えるあの人は、いつも悲しい顔をするのだろう……。




「……美味しい。とっても、美味しいです」

 口いっぱいに広がる感動を、私は「美味しい」としか言い表すことができなかった。何度も食べたことのあるイチゴのショートケーキ。でも、このケーキは別格だった。


 今まで何かを食べてこんなに驚いたのは、この<エルダー・テイル>の世界に来て、初めて味のするアップルパイを口にした時くらいだったと思う。


「……そうかい。それはよかった」

 私の言葉足らずな感想にも、あの人は優しく微笑んで喜んでくれた。けれど、何故か私にはその目がとても悲しく見えた。


「あっ、あの……」

「んっ? なんだい?」

 私のために淹れてくれた紅茶を差し出しながら、あの人は、優しい、けれどやっぱり悲しい笑顔で聞き返す。


「こっ、こんなに美味しいケーキ、初めて食べました。その、きっとお店を開いたら、みんな喜んで買いに来てくれると思います……」

 上手くは言えないけれど、少しでも喜んで欲しくて、私は精一杯の言葉を紡ぐ。けれど、あの人は一層悲しそうに微笑むだけだった。


「……お店か。そうだね。僕も現実世界と同じように、この<アキバ>の街でもケーキ屋さんをやれたら嬉しいんだけどね。でも、その前に、僕にはやらなくちゃいけないことがあるから……」

「やらなくちゃいけないこと、ですか? ……あっ、ごっ、ごめんなさい」

 自分の返した言葉が、立ち入ったことを尋ねてしまっていることに気づき、私は慌てて謝る。


「ははっ、気にしなくていいよ。僕が口を滑らせただけだから」

 震える私の頭を優しく撫でるその手は、大きくて温かかった。


「それに、大したことじゃないんだよ。どうしても作りたい特別なケーキがあるだけなんだ。……僕にはそれしかできないからね。そのケーキを作って、僕は……」

 そう言ってあの人が浮かべたのは、悲しいを通り越した痛々しい笑顔だった。


「……ごめんね、アシュリン。あまり人と話す機会がなくてね。つい余計なことまで喋ってしまったみたいだ。気にしないでほしい。……ただ、その、もしも、君が良ければの話だけれども……」


 思いもかけない頼み事をされて、私は驚いた。けれど、その頼み事を引き受けることにした。あの人が悪い人には思えなかったから。そして何よりも、こんな悲しい顔をした人を放っておけないと思ったから。


 ……でも、私は分かっていなかった。自分が何もできない無力な子供だということを忘れていた。


 そしてそんな私の失敗が、多くの人に迷惑をかける事になるなんて、この時の私には想像も出来なかったんです……。





『「アシュリン」と「ケーキ」と「憧憬の少女」』





「……なぁ、梅子。たまにはギルマスに譲ってくれてもええんやない?」

 ぷくぅっと頬を膨らませ、恨みがましい視線を向けてくるマリエールの非難の言葉など意に介さず、ヘンリエッタは事務机の上でケーキのイラスト入りの小洒落た小さな箱を開ける。


「あなたはジャンケンに負けたのだから仕方ないでしょうが。あらあら、今回はいちごのミルフィーユですか」

 ヘンリエッタは丁重にミルフィーユを皿に移し、フォークで一口大に切って口に運ぶ。


「ふふふっ、やはりいつ食べても『アシュリンのケーキ』は格別ですわね。紅茶が進みますわ」

 満面の笑みを浮かべて上品に咀嚼するヘンリエッタとは対称的に、マリエールは「ううっ、半分でええからわけてぇな」「ああっ、一口でもええから」と忙しない。


「さてと、本当はもう少し時間を掛けて味わいたかったんですが、仕方ありませんわね」

 最期の一口を口に運び、ヘンリエッタは優雅に紅茶を飲み終える。


「ううっ……」

 この世の終わりのような悲哀の表情でガックリと机に突っ伏すマリエール。かと思うと次の瞬間には、「梅子のケチ!」「食いしん坊!」と子供の様な悪口を言って駄々をこね始める。


 だが、そんな困ったギルドマスターにも、ヘンリエッタは動じない。


「いいから、用件を言いなさい。私の至福のティータイムを中断させたのですから、つまらない事ではありませんわよね?」


 三時のティータイムはヘンリエッタの一番の楽しみである。仕事に忙殺される日々の中での唯一心を落ち着けられる時間。ましてや、今回は素晴らしいケーキも味わえたのだ。出来れば時間が許す範囲でじっくりと味わいたかったのだが、マリエールが用事があると急かすので不本意ながら早々に切り上げたのだ。それ相応の理由でなければ納得できない。


「うっ、そんな怖い顔せんでもええやんか。……それで、話ちゅうんは、その『アシュリンのケーキ』について何やけど……」

 マリエールはそう前置きをして話し始める。


『アシュリンのケーキ』と<三日月同盟>の女性陣が便宜上呼んでいるもの。言葉だけを聞くと、<三日月同盟>のメンバーの一人であるアシュリンが「作った」ケーキの様に思えるが、正確には、アシュリンが週に一度「買ってくる」ケーキの呼び名である。


 ふた月ほど前――ちょうど、シロエの策謀により、<ハーメルン>と言う名の悪徳ギルドが崩壊して、そのギルドに軟禁されていた多くの新人プレイヤーを<三日月同盟>が受け入れることとなり、居住空間の広い、このギルドホールに引っ越してきて、ようやくここでの生活に皆が慣れ始めた頃のこと。


 明日架と一緒に買い物に出かけたアシュリンが、マリエールとヘンリエッタ、そして明日架のためにとケーキを三個おみやげに買ってきてくれたのだ。


 それだけであれば、微笑ましくはあるものの別段珍しい話ではないが、問題はそのアシュリンの購入してきたケーキがこの上なく美味だったことにある。


 食事への欲求は数あれど、特に甘いもの、甘味に対する欲求は大きい。もちろん、甘いものが嫌いな人もいるだろうが、多くの人はやはりそれを欲する。


 果物や野菜の素材自身の甘み。それは当初、この<エルダー・テイル>というゲームに閉じ込められてしまった人間にとっては唯一の甘味で、食べ物の多くが湿気った煎餅のような味しかしない状況下でのそれは、味気ない食事におけるほぼ唯一の嗜好品だった。


 だが、調理方法が確立されると、甘味の追求は砂糖を主とした菓子へと変わっていった。無論、現実世界とは比べるべくもないが、今この<アキバ>の街では、以前とは異なり多種多様な甘みを味わうことができるようになって来た。


 そして、そんな欲求に裏打ちされて、日進月歩で発展してきた菓子の一つがケーキである。外見もよく華やかであり、その甘味は食する人の口角を上げるほどの多幸感をもたらしてくれる菓子だ。


 けれど、『アシュリンのケーキ』は、現在この<アキバ>の街で口にすることができるケーキとは一線を画すものだった。


 ヘンリエッタも初めてそれを口にした時には、思わず言葉を失ってしまった。味はもとより、食感も、その美しさも、香りも、ありとあらゆる全てのレベルが今まで口にしてきたケーキとは異なっていた。現実世界においても、こんな美味しいケーキを口にしたことはないと思ったほどである。


「『幻のケーキ』ですか……」

 マリエールの話を聞き、ヘンリエッタは興味深げに呟く。


「せや。うちらの家からはちょっと遠いんやけど、とある雑貨店に、週に何日かだけ並ぶ絶品のケーキがあるらしいんよ。もっとも、えらい人気ですぐに売り切れてしまうもんやから、陳列されているところを見たことがある人がほとんどいないんで、そないな風に呼ばれとるらしいんや」

 どこからどう仕入れてきたわからない情報を、マリエールは得意げに話す。


「……食い意地が張りすぎでしょう、マリエ。まったく、そんな事をわざわざ調べてまで『アシュリンのケーキ』が食べたかったんですの?」

「いっ、いいやん、別に! うちは梅子みたいにジャンケン強ないんやから!」


 『アシュリンのケーキ』は絶品であるのだが、アシュリンはいつも二、三個しか買ってこないため、必然的にそれを誰が食べるかを決める、『女性限定大ジャンケン大会』が毎回行われる。ちなみに、マリエールはジャンケンに勝つことができずに、最初のおみやげの時にしかケーキを口にできていない。対称的にヘンリエッタは七割以上の勝率だ。


「そんで、うちは何の気なしにその店の人に、どんな種類のケーキが入ってくるのか聞いてみたんよ。そしたらな、うちのうろ覚えの記憶だから確実とは言い切れんけど、アシュリンが買うてきてくれるケーキと同じだったんや。少なくとも、先週入ってきたケーキの種類なんかはまんま同じやった」


 マリエールの話に、ヘンリエッタは首をかしげる。


「それに何か問題でも? アシュリンがその店でケーキを購入している事が分かったのでしょう?」

 アシュリンは毎週ケーキを買ってきてくれるが、その購入した店の名前は何故か教えてはくれなかった。「ごめんなさい、約束したので、ごめんなさい」と何度も謝られては聞くこともできず、結局、店の名前はアシュリン以外誰も知らなかった。だが、それが分かったからといってなんの問題があるのかと、ヘンリエッタは疑問に思う。


「言ったやろ、その店はちょっと遠いって。アシュリンがケーキを買うて来るのはいつも誰かと近場で買い物をしに行った時やから、その店で買うことはできんはずなんや」

「他の店にも卸しているだけではないんですの?」

 ヘンリエッタの問に、マリエールは首を横に振る。


「その店に『幻のケーキ』と呼ばれるもんが並ぶようになったんは、自分の作ったケーキを置いてほしいちゅう売り込みが有ったかららしいんや。

 ほんでな、試しにそのケーキを味見した店の人達みんながその虜になってもうて、これならいくらでもうちの店で販売させてもらう言うたらしい。そしたら、その売り込みに来た人は、一人で作っているから数はあんまり出せへんけど、作ったケーキは全部この店に卸すということを約束したらしいんよ。念のため一応調べてみたけど、その店以外でそないなすごいケーキを売る店があるなんて噂はなかったしな」


 マリエールはそこまでいうと、飲むのを忘れていた冷めた紅茶を口にし、「妙な話やろ?」とヘンリエッタに同意を求める。


「……確かに妙な話ですわね」

「店でないとすると、アシュリンは誰かの家に行ってケーキを分けてもらっているんやないか、とも考えられるんよ。幸い今ん所は何の問題も起きとらんけど、もしもの事があってからでは遅いと思うんや。最低限、どこの誰の家にアシュリンが通っているのかも分かってへんのは不用心すぎるやろ?」


 ヘンリエッタもそれはもっともだと思う。事実上、マリエールと自分達がアシュリンの保護者なのだ。アシュリンが危険な目にあわない様に目を光らせて置かなければならない。


「ほんでな、さっきのジャンケンでうちが早々に負けてがっかりしとったら、アシュリンが「明日もケーキを買ってきますから」って、うちを励ましてくれたんよ。

 いつも週に一回だけやったのに、明日も買うてきてくれる言うたんが引っ掛かって、なんか不安になってきてもうたんや。だから梅子に相談したかったんよ」

「なるほど。確かにこれは早急に何らかの対応をしなければなりませんわね」

 たまにはマリエもいいことを言うとヘンリエッタは感心した。


「せやろ、せやろ! ほんでな、今は小竜や飛燕達が仕事で<アキバ>の街におらん。せやから、ここはうちが一肌脱いで探りを入れてこようと思うんよ。そういう訳やから、うちは部屋に戻って明日の計画を練ってくるんで、後は頼むで」


 そう言って、足早にマリエールが逃げ出そうとするまでは。


 マリエールが逃げるよりも早く、ヘンリエッタは彼女の襟首を捕まえる。


「マ・リ・エ。あなたの机にある書類の山が見えないんですの? 昨日から増えていく一方じゃありませんの!」

「ううっ、堪忍してや。毎日毎日そないな文字や数字が並んどるもんばかりを見とったら、うちはノイローゼになってまう」

 ジタバタと逃げようとするマリエールだが、ヘンリエッタはしっかりと襟首を握り逃さない。


「何を大げさな事を。一時期に比べたら十分の一にも満たない仕事量ですわ」

 数カ月前に軽食販売店を新たに立ち上げた時の激務に比べれば、今の仕事など微々たるものだ。

 ましてや帳簿や文書の作成はヘンリエッタが行っているのだ。マリエはそれを決裁するだけ。それでも、現実世界でそのような仕事を経験したことがない者には多少酷かもしれないとヘンリエッタも思うが、組織の長として、今の自分たちのギルドの現状――つまりは、人員数はもとより収支や行っている事業等の概要は分かっていてくれなければ困る。


「<クレセントムーン>を始めた時と比較するのが間違いやんか! 正直、もう一度あれをやれ言われたら、泣くで、ほんま」

「なるほど。それならこれくらいの量ならば、泣かないでできますわね」

 にべもなくヘンリエッタは言い、空いている方の手で机を指差し、そこに向かうように指示する。


「ううっ……。せやけど、アシュリンの事が心配なのは本当なんよ。それに、こんな話はあまり皆に広めたないから、やっぱりうちが行かな……」

 往生際が悪いマリエールが言い訳をするが、ヘンリエッタには通じるべくもない。


「それならば、アシュリンの件は私が責任をもって調べてみますわ。尾行することは気が咎めますが、可愛い私のアシュリンにもしものことがあっては行けませんし……」


 あの小さくて愛らしいアシュリンの事だ。良からぬ下心を持つ人間に目を付けられている可能性もある。ヘンリエッタは改めて事の重大さに気づき気合を入れる。


「いっ、いや、梅子。アシュリンは自分のやないやろ」

「……ええ。アシュリンは私が守りますわ!」


 そんなマリエールの的確なツッコミは、しかし使命感に燃えるヘンリエッタの耳には入らなかった。





「あの、ごめんなさい。リリアナさん……」

 申し訳なさそうに謝るアシュリンに、リリアナは「気にしなくていいわよ」と微笑んでくれる。


「いつものケーキのお店に行くんでしょう? 待ち合わせは、一時間後にこのお店でいいかな?」

「はい。大丈夫です」

 アシュリンが買い出しに出た際に、少しの間だけ一人でケーキを買いに行くのは、<三日月同盟>の女性陣の間では恒例となっていた。


 店の名前と場所を明かさないことに全く不満がないわけではないが、誰にでもプライベートはあるわけだし、その上、<三日月同盟>の最年少で、何事にも素直に一生懸命頑張るアシュリンを相手に無理に聞き出そうとする者はいない。


 また、<円卓会議>が設立されて、この<アキバ>の街の治安が格段に良くなったことも大きな要因だ。以前のような状態ならば、まだ中学生のアシュリンを一人にするなどとても出来なかった。


「ケーキ、楽しみにしているわね。今回は私も食べられるように頑張るから」

 冗談めかして両手をぐっと握って気合を入れるリリアナに、アシュリンは満面の笑顔を浮かべて「いってきます」と小走りで店と店の間の細い路地に入っていく。


「やっぱり、みんな、ケーキを楽しみにしてくれている」

 そう思うと、アシュリンは嬉しい気持ちでいっぱいになる。それは、あの人の作るケーキをみんなが喜んでくれている証だから。アシュリンはそれが自分のことのように嬉しかった。


「けれど、やっぱりもっとたくさんの人に食べて貰いたいな……。あんな美味しいケーキを食べたら、みんな喜んでくれる。美味しいって言ってくれる。そうしたら、きっと……」

 自分だけが知っているという優越感よりも、アシュリンはあの人の作るケーキをより多くの人に認めて欲しいと思う。

 そんなことを考えながらも、アシュリンは細い路地裏を迷うことなく歩いて行く。何度も通った道だ。迷うはずもない。


「……もう二ヶ月以上経つんだなぁ」

 初めてこの路地裏に入ってあの人に出会った時のことを思い出し、アシュリンは気恥ずかしい気持ちになる。


 あれは、明日架さんと買い物に出かけた時だった。


 近所のお店の売り出しの日で、たくさんのお客さんが買い物に来ていたため、手を繋いでいても人波にのまれてしまいそうだからと、近くの店の中で待つように言われていた。けれど、不意に路地裏から流れてきた甘い香りに気づき、それに誘われるようにこの路地裏に入ってしまったのだ。


 育ち盛りのアシュリンは歳相応に食欲はあるものの、決して食い意地が張っているわけではない。だが、思わずその匂いのもとを確かめたくなってしまうほど、それはあまりにも蠱惑的な甘い香りだった。


 匂いを辿って路地裏を進み、そしてその匂いのもとが、お世辞にも立派とはいえない小さな家だと分かり、アシュリンは目的を果たした。だが、そこで自分の失敗に気づく。


 鼻を頼りに匂いのする方に歩いてきたため、アシュリンは道を全く覚えていなかった。振り返ってすぐの左右に別れた道さえも、どちらから来たのか見当がつかない。そして、どうしたものかと泣き出しそうになりながらオロオロとしていたところで、突然背中から声をかけられた。


 最初はびっくりした。そして、その声に振り向いた時には、心臓が飛びでてしまいそうなくらい驚いた。振り返るとそこには、天をつくような大きな男の人が立っていたのだから。


 でも、それは最初の一回だけ。今は違う。目的の小さな家の窓が開かれていて、そこから白いコックコートが見えると、アシュリンは嬉しくなって少しだけ早足になる。すると足音に気づいたのか、コックコートの人物はその場を離れ、アシュリンが玄関に到着するよりも先に家のドアを開けてくれた。


「こんにちは、アシュリン。よく来てくれたね」

 ドアを開けて現れたのは、ニメートル近い身長の男性だった。筋肉もしっかり付いているため威圧感のある体躯だが、その顔には温和そうな優しい笑みを浮かべている。


「こんにちは、リオンさん」

 アシュリンが笑顔で挨拶を返すと、リオンと呼ばれた男性は笑みを深めてアシュリンの頭を撫でた。


「いつもすまないね。さぁ、入って。昨日言ったとおり、納得のいくレシピがなんとか出来上がったんだ」


 アシュリンはリオンに促されるまま部屋に入る。そこは彼の調理場であり仕事場でもある部屋。調理台と冷蔵庫とオーブンといった調理器具が所狭しと並べられ、その隅に申し訳程度の小さなテーブルと椅子が二脚置かれている。


 リオンが言うには、この部屋以外はベッドが一つ置ける程度の寝室しかないらしい。外観と同様に狭いこの家は、そのほとんどがこの部屋にスペースを取られているようだ。


 アシュリンはリオンに薦められるままに椅子に座る。


「あっ、肝心なことを聞き忘れていた。その、今回はチーズケーキなんだけど大丈夫かな?」

「はい。大丈夫です。私、チーズケーキも大好きです」


 アシュリンがそう答えると、「それは良かった」とリオンは微笑み、ミルクティーとチーズケーキをアシュリンの前に丁寧に並べる。


「さぁ、どうぞ」

「はい。いただきます」


 アシュリンはフォークで一口大にケーキをカットし、それを口に運ぶ。すると次の瞬間、彼女の獣のような可愛らしい耳が嬉しそうにぴこっぴこっと上下に動いた。


「おっ、美味しい……。すっ、すごく美味しいです! チーズケーキなのにあっさりとしていて、でも普通のチーズケーキよりも甘くて……」

 うまく言葉に出来ない事がもどかしいとアシュリンは思う。そう思ってしまうほどに美味しい、真新しい味のチーズケーキだった。


「ふう、よかった。自分ではよくできたと思っても、やっぱり誰かにそう言ってもらえるまではどうしても不安でね。ありがとう。喜んでくれて嬉しいよ」


 安堵の溜息をつき、リオンは笑顔で礼を言う。それを見て、アシュリンも嬉しそうに微笑み、もう一口ケーキを口に運ぶ。再び彼女の耳が歓喜で、ぴこっぴこっと動く。


「あっ、このチーズケーキ、四つの層に別れているんですね」

 二口目を口にし、最初に舌に触れる感触がチーズケーキのそれとは異なる事に気づく。それを不思議に思ってケーキ皿を持ち上げて断面を確認し、アシュリンはこのチーズケーキの口当たりと後味の良さの秘密にたどり着いた。


「うん。チーズケーキは美味しいけれど、どうしても味が重くなってしまうからね。カステラ生地を応用したものを下地にしているんだ。でも、それだけだと上手く二つの生地の調和が取れないから、カステラ生地の間に甘いカスタードクリームと酸味の少ないチーズを混ぜたものを挟んで……って、ごめん。分かりにくかったよね。

 簡単に言うと、普通のチーズケーキにもう少し手間をかけているってことだよ」

 リオンはそう言って苦笑する。


 ケーキの説明は難しくてよく分からなかったが、あまり口数の多い訳ではないリオンが熱の篭った物言いをするのを目の当たりにし、リオンがケーキ作りにどれほど情熱を注いでいるのかはアシュリンにも理解できた。


「リオンさんは本当にケーキ造りが好きなんですね。リオンさんのケーキが美味しいのは、一生懸命手間暇を掛けて作っていることも理由の一つなんだって分かりました」

 満面の笑顔でそう感想を口にするアシュリン。リオンは照れくさそうに、困ったような笑みを浮かべる。


「ははっ、ありがとう。あっ、お茶が冷めてしまうから、とりあえずはゆっくり食べていて。僕はおみやげ用にケーキを箱詰めしておくから」

 恥ずかしさからだろうか、リオンはアシュリンにそう言うと慌てて箱を用意し始める。


 アシュリンはその姿に微笑みを浮かべ、今度はミルクティーを口にする。甘さ控えめなそれは、ケーキの鮮烈なものとは異なる穏やかな美味しさを口にひろげ、少しだけ残っていたケーキの後味の重さを洗い流してくれる。そうすると、もう一度ケーキの美味しさを味わい直せる。


「美味しいなぁ。本当に」

 口にするたびにこのチーズケーキは、いや、リオンさんの作るケーキは全て、食べる人を幸せにする事ができるとアシュリンは思う。だからこそ、アシュリンは尋ねずにはいられなかった。


「……リオンさん。このチーズケーキでも駄目なんですか?」

 アシュリンのその言葉に、ケーキを小箱に詰めるリオンの手が止まった。


「…………」

 リオンはしばらく無言でそのまま石像のように固まる。だが、しばらくして、


「……うん。まだだめだよ。この程度のケーキじゃあ、あの子達に……」

 そう否定の言葉を口にした。


「リオンさん……」

 理由は分からない。けれど、リオンが時折ひどく悲しい顔をすることをアシュリンは知っている。自分が喜んでケーキを食べている時さえも、何故かリオンはこんな顔をする事を知っている。


 アシュリンがもう二ヶ月以上この家に通っているのは、『君と同じくらいの年頃の子供に、特別なケーキを作って食べて貰いたいから、新しいケーキを作る度に味見をしてくれないかい』とリオンに頼まれたためだ。


 けれど、アシュリンは知らない。その子供がどこの誰なのかを。ただ、聞いてはいけないことのような気がして未だに聞けずにいる。余程の理由がなければ、こんなに悲しい顔をするはずがないのだから……。


 重い空気が部屋を包む。しかしそれは、不意に聞こえてきたドアをノックする音によって霧散した。


「誰だろう? ごめん、ちょっと出てくるよ」

 リオンは怪訝な顔をして玄関に向かう。アシュリンも気になってその後を追う。


「はい、どちら様ですか?」

 ドアをあける前にそうリオンが尋ねると、ノックの主は名前を名乗った。


 そしてその名は、アシュリンはもちろん、リオンも知ったものだった。






「まさか、ここがリオンさんのお宅だとは思いもしませんでしたわ」

 ヘンリエッタは何とも気まずい気持ちになる。


 昨日、マリエールに宣言したように、彼女はリリアナにも内緒でアシュリンを尾行していた。


 もしもアシュリンがどこかの店でケーキを購入しているだけならすぐに帰るつもりだったのだが、彼女が人気のない路地裏に入っていくのを見て、どんどん不安が募っていった。そして、小さな一軒家に、大きな男に促されるままに入っていくアシュリンを目の当たりにし、ヘンリエッタは行動を開始した。


 万一のことを考え、念話でマリエールにこの場所のことと、十分後に必ず連絡を入れることを、そして、もしもその連絡がない場合には、何かあったと思って欲しいと告げた。更には、家のドアをノックして名乗り、相手がドアを開けた場合と開けない場合の対応を考え、そして<帰還呪文>でアシュリンと共に逃げ出すシミュレーションまで何度もしていたのだ。


 だが、それらは全て杞憂に終わった。思い返してみると、なんという徒労だったのだろうとヘンリエッタは内心で頭を抱える。


「ははっ。僕もヘンリエッタさんが訪ねて来られるとは思いもしませんでしたよ」

 まさかこの家が、つい数ヶ月前に新たに<三日月同盟>に加わった人物の家とは思わなかった。


 <三日月同盟>に属するものは、ギルドマスターのマリエールに倣い、ほとんどの者がギルドホールを寝食の、生活の拠点としている。だが、このリオンという人は、一ヶ月もしない内にギルドホールを出て行ってしまったのだ。そんな彼がまさかこんな路地裏に住んでいるとは思わなかった。


「どうぞ。ヘンリエッタさんの好みに合えばよろしいですが」

 そう言って、リオンはアシュリンが食べているものと同じケーキを出してくればかりか、ヘンリエッタのためにお茶を入れてくれた。


「あらっ、これは……。アップルティーですね」

 林檎のさわやかな香りに、ヘンリエッタは頬を緩める。お茶にうるさいヘンリエッタには、それだけでこのアップルティーの美味しさが予想できた。


「ええ。アップルパイも作ったので残った皮で作りました。あっ、アシュリンもどうかな?」

 リオンはアシュリンにもアップルティーを淹れると、ティーポットを置き、手近の壁に背中を預ける。


 突然家を訪ね、家主を立たせておくのは気が引ける。そうヘンリエッタは思ったが、リオンは表情でそれを察したのか、


「すみません。男のひとり暮らしで、椅子もテーブルもそれしかないんです。どうか気にしないで下さい。さぁ、紅茶が冷める前にどうぞ」


 そう苦笑しながら、遠慮せずに食べるよう気遣ってくれる。


「はい。それでは頂きますわ」

 ヘンリエッタはまずアップルティーを口にする。それは、彼女が予想していたとおりの素晴らしいものだった。


 甘さはかすかに感じる程度のとても上品な甘さで、林檎の香りも丁度いい具合だ。鮮烈ではないが、ホッと心の休まる味。そして、その味を、香りを、温度を楽しみ、やがて静かにそれ飲み込むと、意識せずにヘンリエッタの顔に笑みが浮かぶ。


「私、こんなに美味しいアップルティーを飲んだことはありませんわ」

 ヘンリエッタの絶賛の言葉に、リオンは「ありがとうございます」と気恥ずかしげに微笑む。


「ヘンリエッタさん。ケーキも食べてみて下さい」

 しばらくアップルティーの味の余韻を楽しんでいたヘンリエッタだったが、リオンではなく何故かアシュリンにケーキを食べるように促された。


「分かりましたわ」

 そう応えてフォークを手にしたヘンリエッタは、自分の一挙一動を心配そうに見つめるアシュリンの視線に気づき、心のうちで苦笑する。


「そんなにリオンさんのケーキがどんな評価をされるのか気になるんですの? まったく、妬けてしまいますわね」


 よほどアシュリンがリオンさんに良くしてもらったであろうことは、その姿で明らかだった。少しだけ悔しい思いもあったが、ヘンリエッタは促されるままにケーキを口にし、


「……ふっ、ふふふっ。これは反則ですわ。この素晴らしさを私は言葉にできませんわ」

 思わず笑ってしまった。


 ヘンリエッタのその感想に、アシュリンが「よかった」と安堵の溜息をつく。ヘンリエッタはやはり少しだけ悔しかったが、嬉しそうに微笑むアシュリンが愛らしくて、ついつられてまた頬が緩んでしまう。


 そうして三人で軽く談笑しながら、絶品のチーズケーキとアップルティーを堪能し終えて一息ついたところで、ヘンリエッタは食べながら考えていた提案をリオンに持ちかける事にした。


「リオンさん。不躾な提案で申し訳ありませんが、お店を開くつもりはありませんか?

 もしもリオンさんさえよろしければ、ギルドマスターに相談をして、お店を開業するお手伝いをさせて頂きますわ。これほどのケーキが世の中に広く出まわらないことは、この<アキバ>の街にとって大きな損失だと思いますわ」

 世辞でもなんでもなく、ヘンリエッタは思ったとおりのことを口にする。それに、言葉にはしなかったが、これほどの腕を持つ菓子職人が、テーブル一台と椅子二脚しかない狭い家で生活をしなければならない状況に置かれているのはおかしいとヘンリエッタは思う。リオンさんは、もっと正当な評価をされるべきだ。


 ヘンリエッタのそんな提案に、アシュリンも目を輝かせて喜んでいたが、リオンは静かに目を伏せた。


「……僕のケーキをそこまで評価して頂けるのはとても有難いことですし、嬉しく思います。ですが、申し訳有りません。そのお話をお受けするわけにはいきません」

 リオンはそう言い、ヘンリエッタの提案を受け入れようとはしなかった。


 その返答に、がっかりとしたアシュリンが目に入り、ヘンリエッタは気合を入れて交渉を続けることを決意する。


「なにか理由があるのですわね。ですが、先程も申し上げましたとおり、リオンさんの作るケーキはもっと世に広まることが望ましいと私は思いますわ。

 もしもそうなれば、ケーキを食する機会が増えて多くの人が喜ぶ事はもちろんですが、<アキバ>の街の食文化の発展にも大きく寄与する事になると思いますわ」


「……そんな大それたことはできませんよ。僕には……」

 そう力なく答えるリオンに、ヘンリエッタは心底「もったいない」と思った。あまりにもこの人は自分の力を過小評価し過ぎている。


「……僕は、今はこのままでいいんです」

 リオンのそんな絞りだすような言葉に、しかしヘンリエッタはそれを不安な気持ちによるものだと推測した。


「リオンさん。リオンさんがアシュリンに持たせて下さっているケーキは、いつも<三日月同盟>のなかで取り合いになるほどの人気なのですわ。できることならもっと食べられるようになりたいと皆が思っていますわ。ぜひ、ご一考下さいな」

 優しい声で、ヘンリエッタはリオンのケーキのみんなの評価を包み隠さずに話す。


 リオンもまったく店を開くつもりがないわけではないとヘンリエッタは推察する。アシュリンにおみやげとして、ケーキを持たせてくれていたのが何よりもの証だ。多くの人に自分の作ったケーキを食べてほしいと心の何処かで思っているのだろう。


 理由はわからないが、この人は自信がないだけなのだ。ならば自信を持ってもらえばいい。どれほどまでにリオンさんの作るケーキが熱望されているのかを分かってもらえばいい。


「……本当にすみません。今は店を持つような気持ちにはなれないんです」

 だが、リオンの意思は固い。しかし、それでも粘り強くヘンリエッタは交渉を続ける。


「それに、お店を持つとなると、本格的な設備を整える必要があります。もしもその費用を貸して頂けるのだとしても、実際に店を営むには人出が必要になります。僕一人では店を切り盛りすることは難しいですから。

 そうすると働いてくれる人にお給料も渡さないと行けません。僕にはそんな蓄えはありませんし、多額の借金を負った上で店を切り盛りしていく自信もありません」


 やがてリオンがそう言った具体的な理由を述べたことに、ヘンリエッタは交渉が優位に進んだと確信する。――それが錯覚だとは思わずに。


「真面目な方ですわね、リオンさんは。私の一存で決められることではありませんが、お店を開業される資金は<三日月同盟>で全額負担できるように検討してみますわ」

「いや、僕は……」


 リオンは一貫して今は店を開くつもりはなかった。そんな具体例を上げたのは、交渉事に不慣れな人間が、何とか話を断るために上げた理由に過ぎなかったことにヘンリエッタは気づけなかった。


「それに、人件費もおそらく問題はないと思いますわ。これほどのケーキであれば、少々高値でも購入したいと思う方はいくらでもいるはずですもの。

 新しいことを始めることが容易でないことも、不安に思う気持ちも分かりますわ。ですが、私達みんなで協力します。ですから、どうか少しだけ勇気を出して下さい」


 そう、気づけなかった。ヘンリエッタはリオンが触れてほしくなかった事柄に触れてしまったことに気づけなかった。


「…………」

 ヘンリエッタの提案に、リオンは顔を俯け、身体を小刻みに震えさせる。


「……リオンさん?」

 怪訝に思い、ヘンリエッタが声をかけると、


「……どうして、どうしてそんなことを言うんだ!」


 突然リオンは激昂し、叫んだ。


 あまりに突然のことに、ヘンリエッタは驚くことしかできなかった。


「僕は現実世界でもケーキを作って生計を立てていた。でも、僕は金持ちになりたくてケーキを作っていたんじゃない! ケーキを食べてくれる人に喜んでもらいたいから作り続けてきたんだ! どうしてあなたはケーキをお金儲けの道具のように言うんだ!

 それに、勇気だって? 僕には、僕にはそんなもの……そんなもの……」

 リオンの激高した声が小さく弱々しいものに変わる。ヘンリエッタは彼の視線の先を見て、その理由を理解した。


「……ごめん、アシュリン。怖がらせてしまったよね……。ごめん……」

 リオンの視線は、怯えて震えるアシュリンに向けられていた。彼はひどく悲しい顔でアシュリンに謝罪する。


「……あの、リオンさん……」

「……すみません。大人気なく声を荒げたりして。ですが、どうかこのままアシュリンを連れて帰って下さい」

 取り付く島もなく、リオンはヘンリエッタに背を向ける。


「ごめんなさい。私は……」

「いいから、帰ってください!」

 ヘンリエッタの謝罪の言葉を聞こうともせずに、リオンはもう一度叫ぶ。


 明らかな拒絶に、ヘンリエッタはそれ以上言葉を発することもできず、震えるアシュリンを連れてリオンの家から立ち去ることしかできなかった。





「……以上が事の次第です。すみません。今回のことは完全に私の落ち度ですわ」

 自分たちのギルドホールに戻ると、ヘンリエッタは事を包み隠さずマリエールに説明し、頭を下げる。


「いや、これはうちの責任やよ。梅子に妙な話をしてアシュリンを尾行するようにけしかけてもうたのはうちやしな。それに、なにより……」

 マリエールはそうやんわりとヘンリエッタの言葉を否定すると、彼女の隣に立つアシュリンに頭を下げる。


「ごめんな、アシュリン。このとおりや。うちが余計なことしたせいで、アシュリンにも嫌な思いをさせてもうた。リオンさんには明日にでもうちからお詫びをしとくから、どうか許してや」

 マリエールは何の躊躇もなくアシュリンに頭を下げる。


「そっ、そんな、やめて下さい、マリエさん。その、私がリオンさんの事を秘密にしていたから、皆さんに心配をさせてしまって……。ごめんなさい……」


 そう言って頭を下げるアシュリン。しかし、マリエールは首を横に振り、


「それは、そういう約束だったからやろ? それはアシュリンが悪いんやない」

 そう言って優しくアシュリンの頭を撫でる。


「せやけど気になるんは、どうしてリオンさんはこっそりケーキを作っているんやろな? どうもそれが腑に落ちん」

「ええ。そうですわね」

 そんなマリエールの疑問は、ヘンリエッタも思っていたことだった。


「……あっ、あの、リオンさんは……」

 アシュリンは少し躊躇しながら、ヘンリエッタ達に話してくれた。リオンが秘密裏にケーキを作っていた理由の断片を。


「なるほど。リオンさんにはやらなければいけない事があって、それはアシュリンくらいの年頃の子にケーキを作ってあげることなんですの……」

 ヘンリエッタは話を聞き、顔を曇らせる。


「マリエ、私に調べさせて下さい。言い訳をするつもりはないんですが、あの時のリオンさんの怒り方は尋常ではありませんでした。余程の事情があると思いますわ……」


 知らなかったとはいえ、リオンを怒らせたのは自分なのだ。きちんと彼に謝罪するためにも、ヘンリエッタはその理由を知りたかった。


「せやな。おせっかいやとは思うけど、リオンさんも<三日月同盟>の、おうちの子なんやから、放っておくわけにはいかんな。そんなら、ヘンリエッタはその辺のことを調べてや」

 ギルドマスターの許可を得て、ヘンリエッタはすぐにでも取り掛かろうと決意する。


「あっ、あの、私にも何かできることはありませんか?」

 アシュリンの申し出に、マリエールはにっこり微笑む。


「ありがとな。ほんならすまんけど、アシュリンには明日、うちをリオンさんの家まで案内してもらうで。居づらいようなら家の前まででええから、頼むで」

「いいえ。私ももう一度リオンさんと話がしたいです……」

 そう泣き出しそうな顔で言うアシュリンの姿に、ヘンリエッタはひどい罪悪感にとらわれる。アシュリンを悲しませる原因を作ったのは自分なのだと思い知らされる。


「さっそく調べて見ますわ」


 居た堪れなくなり、そう言って部屋を後にしようとしたヘンリエッタだったが、


「いや、気持ちは分からんでもないけど、もう少しで夕食の時間や。「急いては事を仕損じる」とか「急がば回れ」と言うで。いろいろあって疲れたやろ? 美味しい夕食を食べて今日はゆっくり休んどきや、梅子」


 マリエールにそう言われ、結局その提案を受け入れることにした。





 一日の仕事を終え、皆と夕食をともにし、ヘンリエッタはようやく自室に帰ってきた。

 そしてベッドの端に腰を下ろすと、今まで胸に貯めていたものを開放するように嘆息する。


「……大失敗でしたわ」

 収支のやりくりなどの金銭面での失敗であれば、過ぎたことは過ぎたこととして考え、割り切る事はできるが、今回ヘンリエッタが起こした失敗はその類のものではない。


「どうしても、私は物事をまず金銭面で考えてしまう。本当に可愛げのない性格ですわね」


 リオンに言われた「どうして、ケーキをお金儲けの道具のように言うんだ」いう言葉を思い出し、ヘンリエッタは自己嫌悪する。


「リオンさんの作るケーキに感動したのは本当ですわ。今まで口にしたケーキも、今日頂いたアップルティーとチーズケーキにも……」


 ふと思い出し、ヘンリエッタは疲労でベッドに根を張ってしまいそうな重い腰を上げて、自身の机に足を運ぶ。そして、整理整頓された机の引き出しから、何かを取り出した。


 ヘンリエッタが手にしたのは、昨日食べた苺のミルフィーユが入っていた箱を畳んだものだった。可愛らしいイラスト付きで汚れていなかったため、何かの際に使えるかもしれないと取っておいたのだ。


「何故、『アシュリンのケーキ』が毎回個別の箱に入っているのか、ようやく分かりましたわ」


 たった二、三個のケーキなのに、個別の箱に入れる理由。それは、ケーキを食べる人への配慮にほかならない。ケーキを食べる前には愛らしいイラストの箱を愛でて、そしてそれを開いた際には洗練されたケーキの美しさを楽しみ、そしてケーキを食しやすいようにとのリオンの配慮なのだ。


 店を構えず、一人で作る少量のケーキ。そこから得られる収入も僅かなものだろう。なのにコストのかかるこの配慮は、一人の職人の気概が、思いが込められていたのだ。


「まったく、どうして、私は人の思いにこんなに鈍感なんですの。何故すぐに効率や利益ばかりに考えが行ってしまうんですの……」


 数字は嘘をつかない。正しい計算によって算出されたそれは、確固たる指標だ。仕事でも、このギルドでも会計を任されているヘンリエッタには、それは欠くことのできない確かな情報。それに異論を挟む余地はない。


 何かの事を成そうとした所で、資金がないことには話にならない。実際の生活を考えてみるといい。自身で生活を営む多くの人は労働の対価として賃金を得て、それによって衣食住や貯蓄、遊興費等をやり繰りしている。それが人々の集まる組織となると、よりシビアな収支の管理が必要になってくる。それを疎かにしては組織の運営などままならない。


 ヘンリエッタはその仕事に責任を持ち、誇りを持っている。けれど、それが可愛げのない事だと思っていた。


「でも、思っていただけで、私はそれを改めようとはしなかった……」


 件の金貨五百万枚を集める大仕事。シロエ様から依頼された無謀と思えた事柄を達成できた事で、いつの間にか私はどこかで驕っていたのかもしれない。


 数字は嘘をつかない。けれど、私はその数字がどのようにして作られているのかを忘れてしまっていたのではないだろうか? ただただ数字の増減だけを評価するようになっていたのではないだろうか?


「……人の心を理解しようとはせずに、数字だけで物事を判断するのであれば、私は機械と何も変わらないじゃないですの。心を持たない冷徹な機械と……」

 自身の劣等感に心が重くなったが、ヘンリエッタは頭を振り、大きく息を吐いて自分を落ち着かせる。


 今は疲れているのだ。こんな状態で物事を考えてもいい打開策が出てくるとは思えない。


「今日は早めに休むことにしましょう。後は明日になってから考えればいいことですわ」


 ヘンリエッタはそう自身に言い聞かせ、就寝の準備をして休むことにした。もっとも、なかなか寝付けずに、彼女が眠りについたのはそれからだいぶ経ってからの事だった。






 空は雲ひとつない晴天。風も穏やかで気温も程よく温かい。仕事などさて置いて、ピクニックにでも出かけたくなる、そんないい天気。


 普段であればなんだかそれだけでも嬉しくて、マリエールはいつも以上に幸せそうな笑顔を浮かべて散歩を楽しめていたはずだ。しかし、今彼女の顔に浮かんでいるのは、どうしたものかといった困り顔だった。


「だっ、大丈夫やよ、アシュリン。うちがきちんとリオンさんに話をして許してもらうから」

「……はい」

 マリエールに応えるアシュリンの声には元気がない。思えば、朝食を食べている時も元気がなかった。昨日は余り眠れなかったのかもしれない。


 アシュリンから聞いたところによると、リオンさんはアシュリンにとてもよくしてくれたらしい。だからこそ彼が激高する姿を目の当たりにした衝撃が大きかったのだろう。


 アシュリンの案内で、マリエールはリオンの家に向かうために路地裏に入る。そしてそれから三回も分かれ道を進んでようやく目的の家にたどり着いた。情けない話だが、もしもアシュリンに置いていかれたら、<帰還呪文>のお世話になるしかないだろうなとマリエールは思っていた。


「あの家です!」

 アシュリンはそうマリエールに言うが早いか、そこに向かって走りだしてしまった。


「あっ、待ってや、アシュリン!」

 普段控えめなアシュリンとは思えない行動に驚き、マリエールも慌ててその後を追う。しかし、後を追いかけるマリエールを尻目に、アシュリンはドアをノックしてしまった。


「あっ、ちょっ、うち、まだ心の準備ができてへんよ」

 マリエールのそんな訴えに応えるものはなく、ドアが開かれてしまった。


 中から、大きな男性――リオンが出てくる。


「……もう来てくれないかと思っていたよ。いらっしゃい、アシュリン」

 リオンはそういって微笑んだが、すぐにバツが悪そうに口を閉じる。


「あの、その……」

 それはアシュリンも同じ様で、何を言えばいいのか言葉が見つからないようだ。


「あっ、あの、一応、うちもおるんやけど……」

 何とも声をかけにくい雰囲気だったが、黙っているわけにも行かず、マリエールはリオンに自分の存在を主張する。


「……あっ! すっ、すみません、マリエさん。お久しぶりです」

 本当に今の今までリオンの目に自分は写っていなかった事をマリエールは悟った。だが、申し訳なさそうに、大きな身体を縮めて何度も謝られては、許さざるをえない。


「ふふっ、変わらんな、この人は」

 声に出さずにマリエールはそう思った。


 <三日月同盟>の仲間になった当初から、大きな身体に似合わない控えめな態度の人だった。だが、だからこそマリエールは不思議に思う。どうしてそんな人がヘンリエッタに対して激怒したのだろうかと。


 もちろん誰にでも我慢の限界はあるし、虫の居所が悪い時だってあることはマリエールにも分かっている。だが、この人がヘンリエッタの提案を不快に思っただけで、アシュリン達が驚くほど激高するとはどうしても思えなかった。


 部屋の中に通されて席に着くと、マリエールは、ヘンリエッタがアシュリンを尾行していたことは全て自分の指示であることをまず侘び、重ねてヘンリエッタがリオンの気分を害してしまったことを彼女に代わって詫びた。


「いいえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。あまりにも大人気ないことをしてしまいました」

 そう神妙な声で応え、リオンはマリエールに頭を下げた。


「いやいや、謝りに来たのはうちの方なんやから、頭なんて下げんといてや」

 ヘンリエッタとアシュリンの言葉を疑うつもりはないが、やはりこの人の怒る姿がマリエールには想像ができない。だからこそ、昨日ヘンリエッタが言っていたように、彼が激昂したのには余程の理由があるのだろう。


 結局それから今回の謝罪の件以外の他愛のない世間話をしたが、マリエールはアシュリンから聞いた、「リオンのやらなければいけない事」には触れなかった。


 それがリオンを怒らせた原因と関係しているであろうとは思ったが、そこに再び触れてリオンを怒らせる訳にはいかないと考えたからだ。そのため、彼がヘンリエッタの言葉の何に怒ったのかは分からなかった。


 ただ、一つだけ気づいたことがある。


「なんでこの人は、こんなに悲しげに笑うんやろ……」

 マリエールの話に合わせて笑みを浮かべることはあっても、リオンのそれには憂いが含まれている。


「いつもこんな感じなんか、リオンさんは? あれ、そういえば……」

 はたと、マリエールはアシュリンがこの家に入ってからほとんど口を開いていないことに気づき、アシュリンを横目で見る。


「……アシュリン……」

 思わず声が出てしまった。アシュリンは泣くのを何とか堪える様に、悲痛な顔でリオンを見つめていたのだ。


「……リオンさん、どうしてそんな風に……」

「…………」

 リオンはその言葉に何も返答しない。だがそれは、意思疎通ができなかったからではなく、意思疎通がとれたからこその行動だとマリエールは確信した。


 アシュリンの言葉は断片的なものだったため、彼女がリオンに何を伝えたかったのかは正確には分からない。けれど、今のリオンの様子は、今までアシュリンが接してきた彼とは違うのだろう。


「リオンさん。長居してゴメンな。うちらはこれで失礼させてもらうで」

 努めて笑顔でマリエールはそう言い、席を立つ。涙目になりながら心配そうにリオンを見つめるアシュリンにも言葉をかけて、一緒に帰るよう促す。


 アシュリンに言葉をかけられてから、リオンはずっと無言だった。マリエールの言葉がまるで耳に入っていないかのように。

 だが、マリエールは彼のそんな態度を責はせずに、満面の笑みを浮かべる。


「リオンさん。うちはギルドの仲間は、みんな家族やと思うとるんよ。住んどる場所が違うても、それは変わらへん。家族の悩みはみんなの悩みや。

 だからな、話せるようになった時で構わんから、うちにもリオンさんの悩みを聞かせてや」

 マリエールのその言葉に、リオンは微笑む。悲しくて痛々しい笑みを浮かべる。


「ありがとうございます……」

 そう感謝の言葉こそ口にしたものの、リオンはそれ以上は何も話してはくれなかった。けれど、去り際にアシュリンが「リオンさん」と声をかけた時に、


「……大したことじゃないんだよ。ただ、僕に勇気がなかっただけなんだ……」


 彼がポツリとつぶやいたその言葉が、マリエールの耳に残って離れなかった。





「ギルマス。リオンさんについて調べが付きましたので、報告させて頂きますわ」

 リオンの家から帰り、人心地ついた所で、ヘンリエッタが報告にきた。


 先ほどのリオンとの会話を思い出し、内心では気が重くなりそうだったが、マリエールは笑顔でそれに応じる。


「おおっ、さすが梅子やな。そないに早く調べ終わったんか」

「それほど時間がかかる内容ではありませんでしたから」

 しかし、報告に来たヘンリエッタは、にこりともせずにそう応える。


「ほう、そうなんか」

 マリエールは笑顔を絶やさずに相槌を打つが、内心では少なからず動揺していた。長い付き合いだ。ヘンリエッタがこんな口調で話を切り出すのは良くない話の時だけだ。努めて平常心を保とうとして口調が事務的なものになってしまうのだ。


「……これから私が話す内容は、絶対にアシュリンには教えないようにして下さいな。それと、聞いていて気分のいい話ではない事を最初に申し上げておきますわ」

 そう前置きをして、ヘンリエッタはマリエールに淡々と事実を報告する。


「…………」

 マリエールは顔を曇らせ、そしてそのまま顔を俯ける。


「……多少憶測混じりですが、まず間違いはないと思いますわ」

 最後まで事務的に、ヘンリエッタはそう報告を締めくくる。


「……話はわかったわ。せやけど、思った以上に根深い話やな……」

「ええ。そのとおりですわね。このまま放っておくわけには行きません。何か打開策を考えてみますわ。それでは、私はこれで……」


 無表情にヘンリエッタは一礼をし、踵を返して部屋を出ようとしたが、


「梅子!」

 とマリエールは彼女を呼び止めた。


「なんですの? 私は忙しいんですのよ?」

 振り向きもしないヘンリエッタに、マリエールは彼女の気持ちを察し、何とか掛ける言葉を探してそれを声に出す。


「なぁ、梅子。うちのギルドで発生した問題は、全部ギルマスであるうちに責任があるんよ。特に今回はうちのつまらん入れ知恵のせいで、梅子にもリオンさんとアシュリンにも嫌な思いをさせてしもうたんや。ほんまにすまんかったと反省しとる。

 せやからな、梅子が責任を感じる必要はないんよ。……それだけは忘れんといてや」


 ヘンリエッタは「大丈夫ですわ」と答えたが、結局一度も振り返ることなく部屋を出て行ってしまった。


「……あかんな。かなり思いつめとる。ううっ、うちはこんな時になんて言うたればええんや……」

 マリエールは自身の不甲斐なさに頭を抱える事しかできない。客観的に言えば間が悪かっただけなのだ。だが、当事者であるヘンリエッタはそうは思えないだろう。


 マリエールは懸命にどうにかする方法を考えたが、妙案は浮かんではこなかった。




 夜が更けて普段ならすでに眠りに付いている時間のはずだが、アシュリンは昨日に引き続き、目が冴えて眠れず、ただベッドに横になっていた。


 何故こんな事になってしまったのだろう、とアシュリンは思う。


 どうして昨日は、リオンさんはあんな怖い顔をしてヘンリエッタさんに怒ったのだろう。どうして今日は普段以上に悲しい顔をしたのだろうと……。


 昨日のヘンリエッタの提案は、アシュリンも望んでいたことだった。お店を開いて、リオンの作るケーキを、あの魔法のケーキをたくさんの人が食べられるようになれば、大評判になると思っていた。そして、みんなが喜んでくれたら、リオンもあんな悲しい顔をしないでも良くなると思っていた。


「リオンさんもケーキ屋さんをやりたいと言っていた。でも、まだそれはできない。まだやらなくちゃいけないことがあるから……」


 アシュリンはギュッと掛け布団を掴む。なんて自分は愚かなのだろうと思った。リオンさんと何度も話をして、あの悲しい顔を何度も見てきたのに、自分はそれを軽く考えていた。


「どうして、こんなに私は何もわからないのかな……。何もできないのかな……」

 アシュリンの瞳から涙がこぼれ落ちた。悲しさと悔しさと、無力な自分に対する怒りの涙だった。

 この<エルダー・テイル>の世界に閉じ込められて、ただ震えていた自分を助けてくれたマリエさん達に何も恩返しすることかできず、いつも優しくしてくれたリオンさんがあんなに悲しい顔をしているのに、何もすることができない。


 いや、それどころか、ヘンリエッタさんとリオンさんが喧嘩をする原因を作ってしまったのは自分なのだ。約束があったからとはいえ、リオンさんにはやらなければいけないことがあると、ヘンリエッタさんに伝えていれば、今回のようなことにはならなかったかもしれない。


「……リオンさん」

 リオンはよく悲しい顔をしていたけれど、それは今日ほどはっきりしたものではなかった。マリエールと話をしているリオンを見ていると、アシュリンはあまりにも痛々しすぎて言葉が出なかった。


「いつも優しくしてくれて……。悲しげだけど優しく微笑んでくれたのに……」

 やがて自身を責めることに疲れたアシュリンは、リオンとの楽しかった出来事を思い出す。

 




 出会いは、あの家の前だった。


「駄目じゃないか。こんな裏通りに女の子が一人で入り込んでくるなんて、不用心にも程があるよ」

 大きな声ではなかったけれど、アイゼルさんよりも背が高い、大きな男の人に叱られて、私は震えて「ごっ、ごめんなさい」と謝ることしかできなかった。


「……あれっ? 君は、たしか<三日月同盟>の……アシュリンだったかな?」

 大きな男の人は、そう私の名前を言い当てる。怖かったけれど、目を開いて、目の前の人の顔を確認する。すると、おぼろげながらもその顔に見覚えがあった。


「あっ……。リオンさん、ですか?」

 おどおどとしながら、小さな声で名前を呼ぶと、その大きな男の人は少し驚いた顔をしたかと思うと、それが笑顔に変わった。


「うん、正解。驚いたな。僕の名前を覚えていてくれるとは思わなかったよ」

 穏やかな優しい声でその大きな男の人――リオンさんは嬉しそうに笑う。


「あのっ、その、同じ<三日月同盟>の仲間ですから……」

「……ああっ、うん。そうだね。でも、僕は<三日月同盟>のギルドホールで寝泊まりしたのは一ヶ月くらいの事だったから……。覚えていてくれて嬉しいよ」


 リオンさんはそう言うと、


「ああっ、それで、どうして君が一人でこんな所を歩いているんだい? だれかと一緒じゃないのかい?」


 改めてそう尋ねてくる。


「……あっ、あの、その……」

 恥ずかしい理由だったけれど、答えないわけにはいかなくて、私は正直に理由を話す。


「はっ、ははっ。なるほど、そういうことか」

 案の定、笑われてしまった。きっとすごい食いしん坊だと思われたに違いない。あまりの恥ずかしさに私は顔を俯ける。


「ああっ、ごめんね、笑ってしまって。お詫びをするから、少しだけ待っていて」

「えっ?」


 リオンさんは家に入っていったかと思うと、小さなテーブルと椅子を持って来た。そしてそのテーブルに綺麗なテーブルクロスをかけて、


「さぁ、どうぞ。殺風景なところで申し訳ないけどね」


 そう私に席に付くように促す。


「……あっ、あの、その……はい……」


 断るわけにも行かず、私は言われるがままに椅子に腰掛ける。すると、リオンさんはまた家の中に戻り、今度は綺麗な装飾のされた小皿にイチゴのショートケーキを持って来たかと思うと、そのケーキとフォークを私の前に並べて、「さぁ、どうぞ」と微笑む。


「あっ、あの……」


 食べていいものなのかどうか迷ったけれど、悪い人には見えなかったし、そのケーキがとても美味しそうに見えて、私は「いただきます」とそれをフォークで一口大に切り分けて……。





「あの時のケーキはびっくりするくらいに美味しくて、とても綺麗で、すごくいい香りもして……」

 アシュリンはその時の事を思い出し微笑む。


 そしてそれから、リオンの家に通うようになってからの日々を思い出す。


「……リオンさん。どうしてこんなにリオンさんのケーキは美味しいんですか?」

 思い返せば突拍子もないとアシュリン自身も思うそんな問にも、リオンは優しく答えてくれた。


「ははっ、僕のケーキを気に入ってくれて嬉しいよ。でも、僕は何も特別なことはしていないんだよ。ただ、あえて言うのであれば、きちんとしたレシピを作って、それのとおりに作っていることかな」


 リオンの単純な答えに、アシュリンは怪訝に思った。レシピのとおりに作ることは他の人もきっと同じように行っているはずだと思う。でも、リオンのケーキはそれらとは比較にならないほど美味しい。その理由がそれだけとは思えない。


「ははっ。それだけのことでって思うよね。ああ、そんな顔しないで。怒っているわけじゃないから。僕もケーキ作りを本格的に学ぶまでは分からなかったことだからね」

 叱られるかと思って怯えるアシュリンの頭を、リオンは優しく撫でた。


「ケーキはすごく繊細でね、その日の気温や湿度の違いでも味が微妙に変わってしまうんだ。だから材料や粉の振るい方なんかが一つ違ったら、味に大きな影響が出てしまうんだ。

 そんなわけだから、従来とは違う材料を使って本当に美味しいケーキを作ろうと思ったら、一からレシピを作り直す必用があるんだよ。何度も何度も失敗を重ねてね。その上で、レシピが完成したら、今度はそのレシピ通りに手を抜かないで毎回作らないといけない。簡単なことのようだけど、これが大変なんだ」

 リオンはそういって苦笑する。


「リオンさんでも、何度も失敗を?」

「うん、もちろん。まぁ、さすがに経験があるから、普通の人よりは少ないと思うけどね。今でも毎日毎日、もっといいレシピを作れないかと試行錯誤しながら失敗を積み重ねているよ」

 リオンはそう言い、恥ずかしそうに頬を掻いていた。少し悲しいけれど、優しく笑っていた。


 またある日は、ケーキをデコレーションする所を見せてくれた。


 リオンはスポンジケーキに瞬く間に綺麗に生クリームを塗っていたが、きっと自分がやったらあんな簡単に行かないであろうことはアシュリンにも容易に想像できた。


「これが元の世界なら、アシュリンにも体験させてあげたいんだけど。ごめんね」

 この世界では、<料理人>のサブ職業を持たない者が調理をしようとすると、食べ物ではなくなってしまう。それは仕方がないことで、リオンのせいではないのだが、彼はそう言ってアシュリンに謝った。


 またある日は、クリームを作る所を見せてくれた。機械顔負けの速さでかき混ぜ、額に汗を浮かべながら頑張っていた。そして、「ふぅ、出来上がったよ」と子供のような笑顔を浮かべていたのが印象的だった。


「……どうしたら、リオンさんはいつもあんなふうに笑ってくれるようになるのかな? 私はリオンさんにいつも笑っていてもらいたい……」


 思い出から戻り、アシュリンの瞳からまた涙がこぼれ落ちた。やがて眠りにつくまで――いや、眠りについてからもそれは続き、アシュリンは涙で枕を濡らす。



 ……だが、彼女が心を痛める出来事は、まだこれで終わりではなかった。





 早朝の、まだ日が登りきらず、行き交う人々の姿も見えない街道を、にゃん太は一人歩いていた。


「いやはや、やはり早朝の散歩は格別ですにゃ」

 朝食の仕込みを終えて、皆が起きてくる前まで軽く散歩を楽しむことが、彼の日課になっていた。朝特有の空気を肌で感じ、日が昇ることで見え方が変わる街並みを眺めながら、ぼんやりと何も考えずにその変化を楽しむ。何ともそれは幸せなことだとにゃん太は思っていた。


「ふぅ~。まだまだ吾輩も青いのですかにゃ」

 だが、この数日というもの、にゃん太は脳裏からはなれない事柄があり、彼は散歩中もその事ばかりを考えていた。


 それは、先日、セララにおみやげでもらったケーキの事。とは言っても、どうしてももう一度食べたい、などと考えているのではない。あれほどのケーキを何処の誰が作っているのか知りたいと思っているのだ。


 あのケーキは素晴らしかった。この<アキバ>の街にあれほどの菓子を作る者がいるとは思わなかった。あの完成度は一朝一夕で作れるものではない。現実世界においても菓子作りに携わるものの仕事であろうことは間違いないだろう。


 あまりの素晴らしさに舌を巻き、ついつい敵愾心を煽られて、ここ数日は料理に気合を入れすぎるくらい入れてしまった。


「まったく、年甲斐もありませんにゃ。毎日忙しいというのに……」

 当初は、シロエ、直継、アカツキ、にゃん太の四人だけだった<記録の地平線>にも、最近、新たな仲間が加わった。


 それが育ち盛りの子供たちのため、調理を担当するにゃん太の仕事は増えることとなった。にも関わらず、自ら更に仕事を増やしてしまったのだ。


 もっとも、驚きながらも、みんながその料理を美味しそうに食べてくれるので、にゃん太としても嬉しい限りなのだが。


「おや? こんな早朝にも関わらず、頑張っている方もおるんですにゃ。いや、感心感心」

 <アキバ>の街の入口近くを歩いていると、<帰還呪文>で街に戻ってきた人影が見え、にゃん太はその頑張りを讃えて満足気に微笑む。だが、その笑みはすぐに消えた。


 それは、<帰還呪文>で街の入口まで戻った人物が、糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちたのが見えたためだ。


「これは、いけませんにゃ!」


 にゃん太は早足でその崩れ落ちた人物に駆け寄り、


「なっ、なんと……」


 そう呟いて絶句した。


 満身創痍でそこに倒れていたのは、にゃん太の知った人物だった。


 それは<記録の地平線>と懇意の<三日月同盟>に所属するヘンリエッタに他ならなかった。

 お読み頂きありがとうございました。

 後編は連載小説として別に投稿しています。

 http://ncode.syosetu.com/n0224bz/

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― 新着の感想 ―
[良い点] ログホラの雰囲気が凝縮したような作品ですね 特にアニメや原作中にそれほど深く関わらない『アシュリン(小さき者)』の視点がなお良いですね [一言] チラッと覗いたらなんだか大変そうですね …
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