君に、届かない
美紗ちゃんがこちらを振り返った途端、彼女の姿は幻のように掻き消えた。どういうことなのか、理解が追いつかない。
私は家庭科室の奥にある、唯一の人影に目を移した。
「鶫、くん……?」
家庭科室に美紗ちゃんがいるのを見て、私が感じたのは安堵と失望だった。
美紗ちゃんは無事だったのは嬉しい。でも、鶫君が彼女を……彼女だけでなく、おそらくその前に消えていた10人をも失踪させたことが、これで証明されてしまった。
……クリスマスに告げた私の言葉は、届かなかったんだ。
「久しぶりだね、秊ちゃん」
鶫君は私の顔に落ちる翳りにも気づかず、微笑んでいる。
「あのね、ボク、お菓子を準備しようとしたんだよ? クリスマスのは気に入らなかったみたいだから、今度はちゃんと秊ちゃんの好きなのを作ろうと思ったんだ。新鮮な材料を集めてね」
まったく見当違いな言葉を聞き、私の失望が濃度を増していく。
「だけど、あの子に邪魔されちゃったんだ。邪魔だからもう退場してもらったけどね」
退場……?
聞き捨てならない言葉に、私はやっと声が出せた。
「退場って、美紗ちゃんに何したの……?」
「…………? 出て行ってもらっただけだよ?」
まさかお菓子の"材料"にされてしまったのかと思ったが、そういうことではないようだ。最悪の予想が外れ、そっと胸を撫で下ろす。
鶫君は俯いて、声色だけは明るく続ける。
「あの子、キミはお菓子を喜ばないだろうって言ったんだ」
彼の手が、金属製の調理台の隅を握りしめる。
叩きつけるような激情が、彼の張りぼての明るさを拭い去った。
「……嘘。嘘嘘嘘嘘嘘! そんなの嘘だよ! だって」
底無しに暗い目が、真っ直ぐに私を射抜く。
「だって、お菓子がなければ、ボクはどうすればいいの!?」
「私は、お菓子なんていらないよ。そんなものなくても、鶫君を独りにしないから」
「……本当に? 祭りの日が来ても?」
低い問いに、私の息が詰まる。
「それ、は」
私がここに来たのは、稔を探すため。ここに閉じ込められてしまったのは、いわばイレギュラーだ。
祭りが来れば、私は帰る。外にはパパやママ、友達もいる。みんなのところに帰らないわけにはいかない。
私はそれを見ない振りをして、ずっと鶫君に『独りにしない』なんて言ってきたけれど。
それは、とても──残酷な言葉だと。
やっと、気付いた。
鶫君の怒りとも悲しみともつかない言葉が、断罪のように心を砕いていく。
「独りは嫌だ。だから、もうボクにはお菓子で縛るしかないんだ。たとえそれで、もう自分でも思い出せないボクが本当にほしかったものが手に入らなくても! もう、それしか……」
「そんなことないよ。お菓子なんかに頼らなくても、きっと他に方法があるから」
ありふれた慰めしかできない私に、鶫君はいつもの微笑をくれた。
「……やっぱり、秊ちゃんは違うんだね」
鶫君が、ゆらりと立ち上がる。
「今までの子はみんなボクを拒絶したのに、キミは違う。……だけどそれでも、キミはボクを選んでくれないんだ!」
底抜けの明るさを被った絶望が、家庭科室に拡散する。
私には何も言えない。鶫君の言葉を否定できない。
現実から目を背けていたのは、鶫君じゃない。私の言葉は、ちゃんと彼に届いていた。
目を塞いだのは、私の方。
────無責任な言葉で鶫君を傷つけたのは、私。
後悔してももう遅い。
こんな有様で、鶫君のことが好きだなんて、よくもそんなことを……。
鶫君は猫のようにしなやかな動きで私に近付くと、鼻が触れ合いそうな距離から私の目を覗き込んだ。
微笑はどこか、泣き顔にも似ている。
予感が、した。
次の彼の言葉を、聞きたくない。
やめて。
言わないで。
心臓の鼓動とともに胸を打つ、この予感。まるでこれまで築いてきたものが、崩れてしまうような……。
「……嫌いだよ。ボクはキミみたいにキレイな子が、大嫌いだ」
彼は、いつもの天使のような笑顔で私を拒絶した。
次の瞬間、体に衝撃が走る。視界が歪み、近かったはずの鶫君の顔もよく見えない。
君は今、笑ってるの?
それとも────泣いて、くれているのかな?
そんな馬鹿馬鹿しいことを考える私の頬を、涙が伝っていくのがわかる。
──鶫君。私は馬鹿だったけど、現実を視た今でも君のことが…………。
私は家庭科室の木の床に、仰向けに倒れこんだ。鶫君に突き飛ばされたのだと、遅れて気付く。
それを当たり前だと感じる一方で、傷ついている自分がいた。
「……好きだよ」
鶫君の姿はどこにもない。
ここは多分、表側だ。
生徒たちの賑わう声が聞こえてくる。昼休みだったのだろうか、ちょうど聞き慣れたチャイムがスピーカーから鳴り、休憩時間の終わりを告げた。
告げたい想いはたった一言。
それなのに、こんなにも遠い。
君に、届かない。
◇◆◇◆◇
鶫は家庭科室で佇んでいた。秊を突き飛ばした手を、そっと下ろす。
「ボクに嘘なんて似合わないよね」
自嘲するような声が、彼の喉から滑り落ちた。
「でも、仕方ないんだ。ボクはたくさんの人を不幸にしてきたから、もういまさら戻れない。秊ちゃんのことも、お菓子で縛り付けたくてたまらない。そうなる前に……」
鶫は裏側の家庭科室から、空を見上げた。目に映るのは、憎らしいほど澄んだ冬空だった。
白にほんの少しの青を混ぜたような、寂しい色合い。
「あれでよかったんだよ」
鶫の微笑から落ちた涙は、家庭科室の床を静かに濡らした。




