幽霊1
Mさんが言うには、彼女は渕沢 幸緒のことを直接には知らないらしい。だが、当時彼の担任だった教師の息子がこの学校に勤めていると教えてくれた。
告げられた名前は、岡崎 櫺。
名前を聞いて思い出した。確か去年から勤めている数学教師だったはずだ。
生徒からの評判は悪くなかったけれど、黄色い声をあげて噂話に興じる女生徒たちの姿を思い出すに、あてになるかどうか。
私にとってはむしろ、偉そうな態度とちんぷんかんぷんな授業で、あまり良い印象はない。
それにしても面倒なことになった。表側の人には私のことが見えないから、誰かの手を借りないといけない。
選択肢は颯太か美紗ちゃんの二択だけれど、颯太とあんなことがあった以上、美紗ちゃんに頼る他はないだろう。
腕時計を確認する。剣道部の朝練に行く途中の美紗ちゃんをつかまえるには、まだ少し早い。
さて、どうしようか。
時間の潰し方を考えながら、適当に廊下を歩く。
ぼんやりしていると、ふと階段の踊り場にある窓を、何か白く光るものが過った気がした。一瞬のことだったし、錯覚かもしれない。
それでもなんだか気になり、私はそれが去ったと思う方……下の階に足を向けた。
階段を一階まで降りて来ても、誰ともすれ違わない。もちろん、白い何かも見当たらない。やはり気のせいだったのだろうか。
とりあえず真っ直ぐに廊下を進んでいると、並んだ部屋の一つが開くのが見えた。あそこは……給湯室だ。
まあ、どうせ表側の人間に私は見えないのだ。
気にせず、開いた扉の前を通り過ぎる。
「おい」
すぐ後ろから声が聞こえた。発言者は考えるまでもなく給湯室の利用者だろう。でも、誰に言ったの……?
前方に人影はない。恐る恐る後ろを振り向くと、黒いスーツを着た教師が片手にマグカップを持って、私を厳しい目つきで見ていた。
「おい待て、貴様そこで何をしている。授業中だぞ。それに私服とはずいぶん舐めた真似を」
「え……?」
戸惑う私に、教師は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「貴様だ貴様。他に誰がいる」
そりゃあ、誰もいない、けど。
え……?
なんで、わたしが……?
頭の中で、疑問符が踊る。
ここに来てから、私の服装はずっと白いワンピースだ。もちろん制服とは、色もデザインもかけ離れている。でも、表側にいる人間に注意されたことなんて一度もない。
私が見えないんだから、それが当たり前のはずなのに。
それに。
つかつかと歩み寄ってくる教師。その顔には見覚えがあった。この人は、さっき思い出したばかりの……。
「岡崎、先生……」
なんていうタイミングだろう。出来過ぎている。
私は思わず先生を凝視した。
先生が私の前で立ち止まる。面倒臭そうな表情を浮かべていた顔に一瞬疑問が混じり、次いで理解の色が広がった。
「……貴様、まさか九重か?」
「覚えてるんですか?」
まさか一生徒である私のことを覚えているとは思わなかった。
なぜか先生の表情が、苦々しげなものになる。
「忘れられるはずがないだろう、あの夏を」
先生は小さく、悪夢だった、と呟いた。
「あ、悪夢?」
「そうだ。記憶にないとは言わせないぞ」
私と岡崎先生が同時にこの学校にいたのは 、一年間だけ。去年の夏に何かあっただろうかと記憶を探る。
思い当たったのは、二学期の期末試験のときのこと。
私は体育こそ得意だが、どうも数学が苦手だ。去年の夏休み前の試験でついに赤点をとって、補習地獄になったんだった。
「補習、のことですか?」
「他に何がある。俺は連日に渡る補習のせいで、彼女に振られたんだぞ」
ふっ!? 振られた!?
先生彼女いたんだ……。
さすがに申し訳なくなってきた私は、謝罪する。
「すいません……」
「いや、過ぎたことだ」
岡崎先生が悟ったように遠い目をした、その時のことだった。職員室から、もじゃもじゃした頭の教師がひょっこり頭を覗かせた。
「岡崎先生、どうしたんです?」
「は?」
「いやあ。さっきから独り言にしちゃあ大きな声で、何か言ってたじゃあないですか」
「……それはどういう?」
岡崎先生は困惑の声を上げた。
「悪夢だとか補習だとか、あと夏とか聞こえましたけどねぇ。悪夢といえば、九重のことですかい?」
「そう、ですが」
悪夢って聞いてすぐ私を連想するのはどういうこと……? え? 私、他の先生方にも悪夢って呼ばれてるの?
なんだかもう、乾いた笑いが浮かんでしまう。
もじゃもじゃした教師──多分、科学教諭だ。彼はしみじみと言う。
「いやあ、九重が卒業してくれて、ぼかぁホッとしましたよ。あのヘリウムが詰まったような頭をもう見ないで済むかと思うと、もう」
「……伊吹先生? あの、九重はここにいます」
「はは、岡崎先生は冗談が上手なンですねえ」
ケタケタ笑う科学教諭。
岡崎先生の戸惑いに満ちた視線が、私に向けられる。
私は慌てて口を開いた。
「私、トラブルに巻き込まれちゃってて……。他の人からは、私の姿は見えなくなってるみたいなんです」
自分で言っておいてなんだが、ざっくりにもほどがある説明だ。これで理解しろというには無理がある。
岡崎先生は沈黙し、しばらく考え込んだ。やがて、科学教諭に言う。
「いえ、卒業した九重からメールが届いたんです。あの悪夢の夏をつい思い出して、独り言を言ってしまって。申し訳ないです」
「なんだ、そうなんですか」
科学教諭は興味をなくしたのか、打って変わって残念そうな口調でそう言い残し、職員室に引っ込んだ。
職員室の扉がきっちり閉まるのを見届けてから数秒後。先生が口を開く。
「……そろそろいいか。九重、とりあえずついてこい」
私は歩き出した先生の後を追った。
終着点は、理科室だった。入ってすぐ右側に並ぶ、グループ学習に使うような8つの白い長机。そのうち一番近いものの椅子を引いて、先生が座る。
「貴様も座れ」
席を勧められたのだか命令されたのだかよくわからない、横柄な言葉と視線が向けられる。居心地悪い気分で、私は先生の向かいに腰を落ち着けた。
「それで、どういうことなんだ?」
座るや否や、先生は尋ねた。
「……先生は私の言ったことを信じるんですか?」
常識からすると、人が他人、それも一部の人間から見えなくなるなんてありえない。
私は先生の顔色を窺った。
「実際に、伊吹先生には貴様が見えていないようだったからな」
先生はここまで持ってきたカップから、飲み物を一口飲んだ。コーヒーの香ばしい香りが、鼻を刺激する。
静かな場所で、二人きり。話を切り出すには絶好のシチュエーションだ。
「……私、先生に訊きたいことがあるんです。15年くらい前に失踪した、渕沢 幸緒っていう生徒、知りませんか?」
「教師にも個人情報を保護する義務がある」
間髪入れずに答えた先生は、私の問いに否定しなかった。情報保護の義務があるということは、知ってはいるが言えないということだ。
「お願いします、教えてください!」
深々と頭を下げた。
だが、先生の対応は素っ気ないものだった。面倒臭そうな態度を隠そうともしない。
「無駄だ。どこから聞いてきた、そんな名前」
「名前は古い生徒名簿で。でもそれだけじゃなくて、私見たことあるんです。その生徒を」
「あ……? そうか、うちの名簿は写真付きだったな。似た奴くらいいるか」
岡崎先生はしかし、つまらなそうに否定する。
「他人の空似だろう。当時10代半ばなら、今じゃ30近い中年だ」
「いえ。私が見たのは写真のまま、15歳の渕沢 幸緒なんです」
「ありえん」
それが、あり得るのだ。……そう、裏側でなら。
「……先生。私、こういう他の人から見えない状態になってから、お腹が減らないんです。何も食べないし、トイレだって行かない。まるで時間が止まったみたいに」
先生は私の言いたいことを理解してくれたのかどうかわからないけれど、難しい表情をしていた。
「仮に貴様の見たのが本人だとしても、貴様に教える必要がどこにある」
「それは」
私は言葉に詰まった。
明日も投稿予定です。




