心の行方
とにかくどこかに逃げようと、廊下を走る。周囲に人の姿はない。まだ早朝だからだろう。
ふと曲がり角の向こうから嫌な気配を感じ、私は足を止めた。
最初に、床を掴む奇妙に白い手が見えた。そして、ざんばらの黒髪を引きずった頭部が現れ、血で汚れた制服に身を包んだ胴体が続く。
胸のあたりで体は途切れ、それより下は存在しない。
断面から血を流し這いずりながら、てけてけはこちらを見上げて嗤った。そして素早く跳躍すると、鋭い爪を振り上げる。
私は弾かれたように後ずさった。爪が空振り、廊下に5本の筋を刻む。
着地したてけてけの体からは絶え間無く赤い血が流れ、廊下を染めている。明らかに生きていられる量の出血ではないのに、痛みを感じるそぶりは皆無だった。
ざんばら髪の隙間から、赤く充血した目が合うや否や、私はてけてけに背を向けて駆ける。
まだ朝なのに、どうしてこんなところを怪異がうろついてるの!?
裏側に迷い込んだ日に、てけてけに追われた記憶は強烈だった。
私は逃げ場所を考えながら、足を高速で動かす。一階の保健室に逃げるのが一番だろうと思い、階段に向かう。
一段とばしに段を駆け下りながら背後を見ると、そこにはまだてけてけの影はない。
それでも安心はできない。
速度を緩めず駆け下りていると、最後の段でぐにゃりと妙な感触がして、私は足を踏み外した。
「うわっ」
そのまま前のめりになって、両膝と手を廊下について転んでしまう。勢い余ったのか、特に膝が痛い。
いったい何を踏んだのかと首を回すと、階段の下に、『私は最後の段ですが何か?』と言わんばかりの表情で、Mさんが寝転んでいた。
見なかったことにして逃走を続けたい。まだ完全に撒けたとも限らないのだから。
だが、私の巻き添えにならないように、忠告くらいはしておくべきだろう。いくらMさんでも、てけてけに踏まれて喜びはしないと思う。……いや、思いたい。
「Mさん、逃げて。今私、てけてけに追われてて」
そう言って立ち上がる間に、肌が粟立つような気配を感じた。気配の出処──階段の上を見ると、もうそこには……。
「てけてけ……」
Mさんがぼんやりと呟いた。
まずい。
私はあんなのに立ち向かえないし、それはMさんも同様のはずだ。見た目からして彼女は、ウェルダンでもなければ首もしっかりついている。怪しげな格好をしているわけでもない。若干ゴージャスなだけの、一般生徒に見える。
私のせいで巻き添えを食わせてしまったのだ。
私はMさんの腕を掴み、声を上げる。
「早く逃げないと!」
だが、Mさんは動いてくれない。ただ階段の上にいるてけてけを、無表情に見るだけだ。
どうしよう、どうすれば……!
焦る私とは対照的に、Mさんは眉一つ動かさない。
張り詰めた空気。朝にもかかわらず、まるで夜のような、赤い月の下にいるかのような。──不気味で、感情を掻き乱される。
それを割ったのは、異音だ。
てけてけが、軋むような声をあげていた。笑い声かと思ったが、そうではない。
悲しげで、どちらかといえばむしろ悲鳴に近かった。
てけてけが、動く。
床を手で這い私たちに素早く背を向けると、暗がりに溶けるように消えていった。
「……え?」
「逃げてくれましたわね」
Mさんは、いつものように傲慢に微笑んだ。
「あの子はわたくしが苦手ですの」
だが、その微笑は普段の輝かしいものではなく、陰っていた。わずかな変化だから、普通は気付けないだろう。
それでも私が察せたのは、そこに私と近しい想いを見咎めたからだった。
私が稔のことを思い出してから、ずっと燻っている──後悔と、罪悪感。
彼女は惨めな感情を、微笑で覆っていた。
「……そう」
私は気付かないふりをして、曖昧に笑った。
てけてけと彼女に何があるのか知らないし、訊かない。彼女も話したくはないだろう。
それでも、時間があるなら世間話くらいはしていってもいいかもしれない。
……颯太とあんなことになってしまって情報が得られなかったから、その埋め合わせに。
先に口を開いたのは、Mさんだった。
「日誌は役に立ちまして?」
「うん、まあ。でも、肝心なところが血みどろになってて読めなかったんだ」
「……え?」
Mさんは驚いたように目を瞠り、掠れた声を漏らした。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもなくってよ」
Mさんは一瞬でいつもの表情に戻った。そして、どこか取り繕うように、私に提案してくる。
「せっかく会えたのですもの。何かほしい情報はありまして? 日記が役に立たなかった代わりといってはなんですけれど、無償奉仕いたしますわ」
「え、いいの?」
日記も読めない。颯太にも訊けない。
そんな手詰まりの現状を打開できるかもしれない、貴重な機会だ。
一応、確認だけしておく。
「本当にいいの?」
「ええ。わたくしの知ることなら何でもよくってよ」
「じゃあ……渕沢 幸緒って知ってる?」
無意識に口をついたのは、さっき見たばかりの名前だった。
言ってから、自分でも不思議に思う。
私は稔を見つけてあげないといけないのに、どうしてあの写真の人物の名前を口に出してしまったのだろう。どう考えても、優先するべきなのは稔の方なのに。
撤回しようと開いた口は、すぐに閉じることとなった。
渕沢という生徒が鶫君と同じ顔だというのは、偶然とは思えない。写真と実物だから、当然ながら多少の差異はある。けれど、あの印象的な微笑みは、そういうものを飛び越えて同じだと感じられたのだ。
鶫君は七不思議。私の目的は、稔を見つけること。そして、稔を見つけるには七不思議を調べろ、という皐月様の助言。
ならば、私が鶫君と同じ顔の彼のことを調べるのは、七不思議を調べること、ひいては稔の発見につながるはず。
……これが言い訳だっていうことくらい、わかってる。本当は、稔に関わることを訊くべきだってことも。
──クリスマス。鶫君の狂気を、はっきりと見せつけられた。とても、恐ろしかった。
同時に、悲しいとも思った。
誰かに選ばれたいと、自分以外選べないようにして、たくさんの人を犠牲にして。それでも鶫君は満たされていない。
そしてまた、誰かを犠牲に加える。
……鶫君を、そんな悲しいだけの連鎖から掬い出してあげたい。
たとえいつか、彼が選び選ばれた人が、私でなくとも構わない。
あの空虚で綺麗で、どうしようもなく純粋な微笑みを、満たしてあげられたらどんなに嬉しいだろう。
私の鶫君への想いが、やっとはっきりした形を描いた。
これは…………稔への、裏切り、なのかもしれない。
私の想いも、やっていることも。
私は身を灼くような罪悪感を感じながら、それでも心の中で言い訳を繰り返す。何度でも、何度でも。
記憶を探るように目を眇めていたMさんが、口を開いた。
「特定しかねますわね。何期生でして?」
「はっきりとは覚えてないけど、15年くらい前だったと思うよ」
訂正せずに答えたところで、私の気持ちは固まった。
「他に特徴は?」
重ねて問われ、思い返す。生徒名簿には載っているのに、卒業アルバムにはいない。つまり、在学はしていたが卒業していない。可能性は幾つか考えられるが、この学校においてはほぼ一つに絞られる。
「……失踪者、だと思う」
「約15年前の失踪者……男性ですの、女性ですの?」
「男性だよ」
それを聞くと、彼女は自信たっぷりに頷いた。
なぜか、口元に浮かぶ艶やかな笑みが、御伽噺の魔女みたいだと思った。
良い魔女なのか、悪い魔女なのか。
私にはまだ、わからない。
間に合ってよかった……。
二時間前までは今回はギャグ回だったはずなのですが、改稿中、急にみのりちゃんが独白を始めたので方向転換。
17時ぎりぎりの仕上がりでした。




