1章 9話
早朝の家庭科室は実に平和なものだった。
陰鬱な焼却炉は角度的に窓からは見えず、外には中庭と、木々の姿。
微かに聞こえてくるのは、小鳥の囀り。
室内には、コンロが2つ、簡易オーブンが1つずつ付属した大机が計10個用意されており、左右に椅子が6つずつ控えている。
そして、柔らかな日差しの中、窓際に佇むエプロン姿の生徒。
制服を汚してしまったのだろうか。保健室で貸し出されている名前の刺繍なしの、我が校の小豆色ださださジャージを臙脂色のエプロンの下で見事に着こなしている。
まごうことなき、おばちゃんスタイル。
調理実習の準備でもしていたのだろう。
こんなに早くから、熱心なことだ。
穏やかで優しげな顔に、色素の薄い緩いウェーブのかかった髪が揺れる。
温和そうな外見だが、体つきはしっかりとしており、上背もこの年代にしてはある方。
一見ぽわぽわしているものの、まず間違いなく男の子だろう。
顔つきも、顔面偏差値に目が眩みそうになりながらよくよく見ると、彫りが深くはっきりとしている。
こちらにようやく気付いたらしいその人物は、少し驚いたような顔を一瞬だけして、微笑んだ。
どこからともなく黒い水筒を取り出して、歩み寄ってくる。
生首のシュールかつ腹黒そうな笑顔と黒焦げの顔面18禁の後では、天使の微笑みのようにすら思える。
反射的に拝みそうになるのを、ぐっと堪えた。
第一印象は大事だ。
全力疾走後なので笑顔を浮かべたりはできないものの、極力表情を緩める。
彼は私の目の前に来ると止まって、のんびりと口を開いた。
「すごく疲れてるみたいだね。これをどうぞ」
そう言って水筒を開けてコップ型の蓋に紅茶らしきものを注ぎ、こちらへ差し出す。
か、彼は天使か!?
後光が見えてきそうだ。
どうやらとんでもない目にあってきたせいで、私の感覚もおかしくなりつつあるらしい。
疲れている人間にそっと飲み物を差し出す。ただそれだけの行為が、天使のような所業に思われた。
しかし、私は気付いてしまう。
彼の申し出はとても魅力的だったが、水筒ということは、おそらくそれは彼の私物。
ということは、すなわち彼と間接キス。
……無理。無理だ。
私の心臓がもたない。
恐れ多くてそんなことはできない。
彼はもはや、我が心のエンジェルなのだ。
恐怖の連続だった今まで。
そこに現れた、輝かんばかりの笑顔の彼。
純真さが心に染み渡る。ここまで来ると、むしろしみすぎて痛い。
私は混乱を笑顔で押し殺した。
彼は確信犯なのだろうか。
さりげなく観察してみるが、その穏やかな表情からは何も読み取れなかった。
考えすぎかな?
とりあえずここは無難に断っておこう。
「ありがとう。でも、わざわざ水筒のお茶をもらうのも悪いよ」
彼は目を伏せる。
「そう……」
とても残念だという心情が、全身で表されている。
それでも、心のエンジェルたる彼と間接キスは無理。無理と言ったら無理なのだ。
ああ、とにかくボロが出る前に、ここを出ないと。鼻血でちゃうかも。
私はしばらく手近な椅子に座って休ませてもらうと、彼に再度礼を言って立ち去ろうとした。
だが、彼に呼び止められる。
「待って。どこに行くの?」
「校長室だけど」
「それなら一回、3階まで上がって行った方がいいよ。さっき足音が聞こえて、校庭の方に消えていったから」
彼は窓の外に視線を向けた。
足音……。さっき黒焦げの前に追いかけられたアレか。
一体何の怪談なのか。私も全部の怪談を知っているわけではないのでなんとも言えないものの、彼の助言はありがたい。
「ありがとう」
私がお礼を言うと、彼は再びふわりとエンジェルスマイルを浮かべた。
そこでふと思い至る。
良くしてくれたのだから、せめて手伝えることがあれば協力したい。
調理実習の準備なんて、せいぜい材料の測り分けくらいだろう。それくらいなら邪魔になることもあるまい。
ドアに足を向けかけたところで、私は振り返った。
「そういえば、調理実習の準備か何かだよね。手伝おうか?」
それを聞くと彼は意外そうに目を丸くして、キミって面白いヒトだね、と言った。
私、そんな外したことを言っただろうか。
彼は苦笑しながら続ける。
「いや、そういうわけじゃないんだよ。校長室に用事があるんでしょう? もう行った方が良いよ。あと、これを。お土産にでも、もらってくれるとうれしいな」
差し出された手には、綺麗にラッピングされたクッキーの小袋が載せられていた。
ピンクとオレンジのチェック模様の袋。
彼はとてもセンスが良いらしい。少々、男の子にしては可愛らしすぎる感性がうかがえるけれど。
断る理由もないのでありがたく受け取り、ポケットに収める。
それにしても、調理実習の準備でなければ何の用事なのだろう。気にならなくもないが、まあ本人が良いと言うのならいいか。
私は再度お礼を言うと、今度こそ家庭科室を辞す。
このおかしくなった学校で、常識的なイイ人が一人でもいると分かってほっとした。
また今度遊びに来よう。
それなら、最後に言う言葉は決まっている。
「またね!」
私はそう言い残し、後ろ手にドアをピシャリと閉めた。
さて、本当に彼はマトモな一般人なのでしょうか…?