学園祭2
顔を上げたくない。
見たくない。
だけど、見ないわけにはいかない。
思い切って顔を上げ、薄暗い通路の奥に目を凝らす。
三歩ほど先から、濡れた黒髪から水を滴らせた女の子が私を見上げていた。彼女はあの日と同じように、ぐっしょりと濡れたスクール水着を着ていて、足元には小さな水たまりができている。
悲鳴をあげそうになる。しかし、それを止めたのは、素早く近付いた彼女の小さな手だった。口に温度のない手を当てられ、ひんやりとした冷たさが、肌に移る。
「〜〜〜〜!」
Q 不良に見つかるのとここで死ぬの、どちらがマシですか?
A 当然不良に見つかる方がまだ良い!
塞がれた口で悲鳴をあげようとするけれど、篭った音が出るだけだった。
スクール水着の彼女は、呆れたように息をついた。
「少し落ち着いてくれる? あたしは君を殺したいんじゃないんだけど」
女の子は意外に大人びた口調でそう言うと、手を外した。
私は即座に、彼女へと物申す。
「嘘つきっ! この前は殺る気満々だったでしょ。私が油断した隙に仕留めるつもりなんだ……!」
「あの時はああするのが一番手っ取り早かったんだよ。ああやって脅しつければ、バカだって逃げてくれるからね」
「えっ……逃げてほしいの?」
彼女はうんざりしたように、低い声で答えてくれる。
「うん。ここにはあたしの他にもう一人、死に損ないというか、まあ幽霊がいるから。あの人の犠牲者を減らすのには、あれが一番効果的なんだ。冷静に説得する暇もないし」
「わけがわからないよ」
「そうだろうね。あたしが君でもそう言うと思うもん」
スク水少女は、通路の脇にある排水用の溝に、ちらりと目を落とした。
「まだあの人は来てないみたい。玄関口なら水も来ていないから問題ないとは思うんだけど。とにかく、もうここには来ないで」
「やっぱりよく話がわからないけど……わかった」
曖昧ながら、しっかりと頷いておく。
というか、頼まれてもこんなところ来たくない。
今回だって、天宮とかいう不良がいなければここに来ることもなかったのに。
金髪の、制服を着崩しただらしない姿を思い出す。私は心の中でこっそり、天宮が曲がり角に差し掛かるたびに角で小指をぶつけてくれますように、とささやかなお祈りをした。
ここから無事に出られたあかつきには、五寸釘と藁を調達しよう。……用途はあくまでも、乙女の秘密だ。
スクール水着の少女はほっとした顔をすると角を折れて、外を窺った。
「うん。君が何に追われていたのが知らないけれど、もう大丈夫そうだね」
そして私に背中を向けると、あっさりと通路の奥へと帰っていく。
とりあえず、忠告をしてくれたということなのだろうか。私は彼女の背中に、お礼を言った。
「ありがとう」
彼女は一瞬だけ歩みを止めたが、そのまま歩み去っていった。
私は角から頭だけを出して外の様子を窺ってから、プールを後にする。
外に出るとたちまち、学園祭の賑わいと強い日差しが感じられた。思い出したように夏の暑さが立ち込めてくる。
プールの女の子にも事情はあるみたいだったけど、生憎私にはそれを聞くだけの余裕はない。
何よりまず、第一印象が悪すぎたんだよね。
後ろ手に扉を閉める。そして、鶫君と合流するため、私はその喧騒の中へと身を踊らせた。
りんご飴の屋台には、鶫君の姿は既になかった。焼きうどん屋台へ行きたいと前もって言っておいたから、先にそちらに向かったのかもしれない。
グラウンドにはそれらしき屋台はないから、多分、中庭なのだろう。
私は鶫君を探しながら、中庭へと向かった。
焼きうどん屋台が近くにあるということは、一歩中庭に入ればすぐに分かった。
青々とした芝生の敷き詰められた中庭の一角にある、行列ができている屋台。その中に颯太はいた。いつも通りの好青年ぶりを発揮して、売り子をしている。近くでは野球部の部員たちが、忙しそうに走り回っていた。
列はとても長く、声をかけるのは躊躇われる。颯太は特に忙しそうに働いているけれど、そんなことはおくびにも出さないにこやかな接客は、とても爽やかだ。
遠巻きに弟分を誇らしく思って見守っていると、颯太がこちらを見て目を見張ったように見えた。
気のせいかと思ったが、颯太はエプロンを外し、野球部の売り子の制止を無視して、こちらに歩み寄ってくる。
彼の顔には驚きと、満面の笑みが広がっていた。
「颯太。出店、放ってきちゃ駄目じゃない。
お店の子たち、すごい悲痛な目で引き止めてたよ」
「そんなことよりも。姉さん、大丈夫だったか!? あの後ずっとあってなかったから心配したんだぜ? 監視……じゃねえ、えっと、見守ることもできなかったし」
「落ち着いてよ、颯太。私は大丈夫。それに……」
そこまで言ったところで、闖入者が私の声に割り込んだ。
「秊ちゃん!」
声に振り向くと、私たちの方へ、鶫君が駆け寄って来ている。
「鶫君、良かった。はぐれちゃったから心配してたんだよ」
そう言うと、鶫君は少しだけ肩を落とした。
「ごめんね。屋台の子がりんご飴、タダでくれるって言うから……。はい、これ」
しゅんとした鶫君から、串に刺さったりんご飴を手渡される。
タダでくれたって……。
瞬間的に、鶫君のエンジェルスマイルが脳裏をかすめた。ああ……うん、あれにやられらんだろうな。
売り子の女の子には、御愁傷様としか言いようがない。
「ありがとう。でも、あんまり一人で勝手に行っちゃわないでね」
「おっ、怒ってるの……?」
鶫君はびくりと背を震わせ、おずおずと尋ねた。
「怒っては……いないかな」
鶫君はほっとしたように肩を落として、微笑んだ。
そこに、颯太が口を挟む。
「……姉さん。そいつ、誰だ?」
颯太にしては珍しい、敵意の篭った声。私は少し驚きながら答える。
「彼は、仁科鶫君だよ。今はちょっとワケありで、鶫君にいろいろ手伝ってもらってるんだ」
鶫君が、颯太に微笑みかける。
「初めまして。ボク、仁科 鶫って言うんだ。鶫って呼んでほしいな。キミは秊ちゃんの……弟君かな?」
颯太の顔が瞬間的に無表情になった。かと思うとそれも一瞬のことで、すぐに完璧な笑顔に塗り替えられる。
「八木颯太って言います。俺は秊の幼馴染なんですよ。昔から親しく付き合わせてもらってます」
親しくって……颯太はやっぱり大げさだ。私の方が年は上でも、むしろ颯太に助けられることの方が多かった。
はにかみながら付け加えておく。
「お世話になったのは、大抵いつも私の方だったけどね」
「そうなんだ。それで、どうしてここに?」
鶫君の問いに答えたのは、颯太だった。
「姉さんは、わざわざ俺に会いに来てくれたんだ」
鶫君は焼きうどん屋台に目を向けると、納得したように言う。
「ああ、キミ、野球部なんだね。だから秊ちゃん、焼きうどん屋台に行きたいなんて言ってたんだ。キミって、さっきまであそこで女の子に囲まれてた人だよね?」
颯太の笑顔が崩れ、苛立ちみたいな表情が覗いた。
「それがどうした。……姉さん、そいつは姉さんの何なんだ?」
颯太、何に苛立ってるんだろう。
いつになく攻撃的な様子に、戸惑うことしかできない。
「えっと、お世話になってる人、かな?」
「どうして疑問形なんだよ」
「ちょっと形容し難い状況でね……」
事情を細かく話すには、場所も時間も不適切すぎる。
颯太はけれど、それ以上追及することなく話題を変えてくれた。
「そうか。あまり邪魔しちゃ悪いな。学園祭はまだ続いてる。もう少し見て回ったらどうだ?」
そう言ってくれる颯太の優しさが嬉しくて、申し訳なくて。
私は困ったように微笑むことしかできない。
「そうだね。……なんだか気を遣わせちゃってごめん、颯太」
「いや、気にしないでほしい。学園祭、楽しんでくれよな」
颯太はそう言ってにこやかに微笑むと、屋台へと戻って行った。
まだ何かつぶやいているみたいだが、周囲の声に呑まれ、よく聞こえない。
「……また邪魔者が増えたか。まあ良いさ。処分すれば良いだけだからな」
颯太は屋台に戻り、野球部の人に冗談半分といった風にどつかれている。親しまれ、頼りにされているということがありありと察せられた。
颯太はうまくやっているみたいだし、これ以上ここにいても邪魔になってしまうだけだろう。
私は鶫君に声をかけると、再び学園祭の熱狂へと分け入っていった。




