1章 7話
生首少年に勧められて、私は現在、校長室へと続く道を歩いている。
場所は、理科室近くの東階段。
廊下は昼間なので暗くはないものの、人の姿は見られない。
朝日に照らされる無人の廊下はどこか空虚で、恐怖というよりも空々しさが際立つ。
腕時計によると、現在の時間は午前5時。普通は、誰もこんな早くには登校しないか。
校長室は、西棟1階の一番奥に位置する部屋だ。
ただしここで問題が起きた。
階段を降りていると、2階のあたりで妙な足音が聞こえてきたのだ。
そしてそれは、気のせいでなければ私の方に向かって来ている。
……私が何をした。
あまりの不運に、泣きたくなってくる。
コツン……コツン………。
……ずずっ。
徐々に近付いてくる足音のターゲットは、私だと考えて良いだろう。
的確に私のいる方に進路をとっているらしく、背後から断続的に音が聞こえてくる。しかも、なにやら重そうなものを引きずっているような異音まで。
嫌な予感しかしない。どうせまた碌でもないスプラッタグッズに違いない。
×××とか○○○とか、もしかするとあまつさえ△△△△とか……。(自主規制)
この学校が悪い意味で期待を裏切らないということは、今までのことからよく分かっている。
私は一か八か、自分に出せる最高速度で階段を一段とばしに駆け下り、廊下を疾走した。
もし教師が見咎めたら、即お説教コース間違いなしの速さだ。
幸い私は運動が苦手というわけではない。ここに通っていた頃は陸上部だったから、ブランクはあるが、走るのには自信がある。
足音は一定速度で迫ってくるが、それは普通に歩く程度の早さ。なぜ走ってこないのか疑問ではあるものの、今はそんなことを気にしている場合ではない。
これなら振り切れる……!
念のため振り返って確認してみると、相手の姿はなかった。
ごんっ、ごんっ、という音がするところから察するに、まだ階段の途中なのだろう。
それでもうかうかしていてはいられない。
私はそのままの勢いで廊下を走り続けようと試みる。
だが、それはかなわなかった。
おそらくは、私は油断していたのだろう。
東棟から西棟へと渡り廊下を通過してすぐの、給湯室。
普段は教師が備え置きのインスタントコーヒーやお茶を淹れる、そこの引き戸が開いていた。そして、中から黒いものが伸びてきて私の首を乱暴に掴むと、無理矢理中に引きずりこんだ。
驚きのあまり、無意識に目を瞑ってしまう。抵抗することもできない、あっという間のことだった。
後ろからドアが閉まる音が聞こえる。
私はなす術もなく、首を掴まれたまま背後のドアに叩きつけられた。
クリーム色の引き戸が弾みで音をたてる。
頭と首に感じる衝撃と痛みに、息が止まる。
──わけがわからないが、とにかくどうにかしないと。
ドアに磔にされながら、逃げる方法がないかと辺りに目を走らせる。
あいにく出口は私の背中だ。かなり強く押さえつけられているため、暴れても腕からは逃れられないだろう。
かといって、何かを投げつけるにしても、窓から逃走するにしても、相手が間に入るので手が届かない。
力なく落ちている私の指先が、もどかしけに宙を掻いた。
こうなったら、力ずくで……!
私は、こうしている間にもぎりぎりと私の首を締め上げている彼に目を向けた。
彼……そう、彼は上半身が黒焦げだった。
焼けた肉のジューシーな臭いが鼻をつく。
それがヒトの体から漂っているというだけでここまで嫌悪感を催すなんて、今まで生きてきて思いもよらなかった。
所々黄色く染み出した皮脂や浸出液が黒く焼け焦げた表皮ににじみ、吐き気を催す光景を構成している。
あっ、そういえば私、昨日の夜から何も食べてない。
あまりのことに感覚が麻痺しているのか、どうでもいいことを危機的状況で思い出してしまう。
下半身は、この学校の制服のズボンだと思われる。焼け焦げや退色での劣化が激しくて、ぱっと見ただけでは分かりにくいが。
生理的に、酸欠と臭い、そして痛みから涙が出てきた。首にかかる力は衰えず、これでは窒息するのが先か、頸椎が折れるのが先か……。
せめてもの抵抗として、彼の表面が炭化した腕に爪を立てようと、腕を伸ばす。
でも……。
何だかぼんやりして、苦しくて、もう何も考えられない。
頭がふわふわして、耳鳴りがしてきた。
鈍くなった思考で、私は思う。
もし私がこの黒い腕に爪を立てでもしたら、どうなるんだろう。
炭化した表面が剥けて、肉まで露出してしまうかも知れない。
今ですら彼の腕は、自分の込めた力で、炭化した皮膚がぽろぽろ剥離して落ちてしまっているというのに。
彼が傷つけているのは私に他ならないのに、その姿はまるで彼自身を痛めつけているみたいに感じられる。
──なら、仕方ないね。
一呼吸分にも満たない逡巡。
そして私は目を閉じた。
涙が一筋、目から溢れる。
ごめんね。私、見つけてあげられないみたい。
私は探し求めたモノに謝りながら、自分の体からゆっくりと力が抜けていくのを感じた。