End3
無人になった理科準備室に黒い粒子が出現する。それは影のように凝ると、闇色の髪をした白衣の女性をかたどった。
女性はふうと息を吐き、椅子に行儀良く足を揃えて座る。
彼はここから出て行ってしまった。
もう会えないと思うと同時に、これで良かったのかもしれないと、彼女は思う。
彼はずっと、ここから出たいと願っていたから。
願いを叶えてくれた彼女には、嫉妬はするものの、感謝しているのだ。
おそらく皐月は、七不思議が一つ減るのを許しはしない。
彼女はその穴を、自分自身で埋めようとしていた。
「あの子のためだもの、ね……」
彼女は頬杖をつくと、小さな窓の向こうの空を見上げた。
黒い空に赤い月が浮かぶ、不気味な空。
彼女は、自分では見られない黄色い月を思い、赤い月に彼らの幸せを祈る。
音もなく扉が開いた。
皐月だ。
皐月は事情を全て把握していた。
瑞樹たちの怪談を作った生みの親は、皐月だからだ。
秊が校長室に来た時から、それとなく様子を探っていたのだった。
彼女を一瞥し、皐月は窓際に移動して、静かに語りかける。
「……アナタも辛い役を負うわね」
「ええ。でも良いの……。彼が、それで幸せになれるなら」
「わたくしは間違っているのかもしれないわ」
皐月が、手を窓の桟にかけて黒い月を見つめる。
白衣の女性は、皐月に穏やかに微笑みかけた。
「ええ、貴方は間違っているもの」
責めるような口調ではない。穏やかに、優しく。唄うように、彼女は言った。
皐月は、目を閉じた。
「それでもわたくしは、役目を果たさなくてはならない。……今回は、酷なことをしてしまったわ。永遠を生きるには、孤独ではいられない。だからこそ、アナタたちは2人で1つの怪談だったのに」
「私にとって、彼は弟のようなものだったの……」
そう言うと、白衣の女性は穏やかに笑う。
「さあ、皐月。私が彼の代わりを務める。問題はない……?」
皐月は頷き、理科準備室から出て行く。
白衣の女性は俯いた。誰にも聞こえなどしないというのに、静かに言う。
「さようなら……。幸せになるのよ、瑞樹」
彼女の表情は、黒い髪に隠れて見えない。
弟と同じ響きである彼女の名前と同じ、美しい月がそれを見下ろしていた。
◆◇◆◇◆
皐月は理科準備室を後にすると、3階の女子トイレに向かった。
過剰なラベンダーの香りが匂うなか、皐月が個室の前に立つと、ノックもなしに扉が開かれる。
一番奥の扉だ。
皐月はその個室の前に歩み寄る。
中には、誰も入っていない。洋式便座の横に、誰かが散らかした、トイレットペーパーの芯が一つ転がっている。
きぃ、と思い出したように扉が軋み、それに誘われたように個室の奥、便座の影から何かが溶け出す。
影から闇が広がり膨張し、それが消えたときには、おかっぱ頭の少女が個室の中に出現していた。
彼女、花子さんは数歩踏み出し、皐月を見上げる。
「……文句でも言いにきたんでしょ? 煮るなり焼くなり好きにしなさいよ」
「わたくしにはアナタを咎めるつもりはないわ」
けれど、と言い、優雅な所作で皐月は赤く長い爪を花子さんの首筋に這わせる。
指先が、花子さんの首筋を撫でた。
「わからないのよ。どうしてあんなことをしたのか。……ねえ、どうして?アナタはわたくしに最も忠実だったのに。ずっとそうして来たわよね? 不要な噂を消しては新しい噂を流して、そうしてずっとやってきた」
皐月は爪を首の肉に食い込ませる。
花子さんはそれでも、答えない。
重ねて皐月は問う。
「教えて、どうして瑞樹を逃がしたりなんかしたの? あの子……秊に情でも移ったのかしら? 教えてくれないなら、そうね。このまま喉を貫通させてあげるのもいいわね。少々の面倒に目を瞑れば、アナタの代わりなんて、いくらでも作れるのよ?」
花子さんは皐月を睨み、口を開く。だがよく見れば、涙目になっているし、唇も震えている。
告げたのは一言だけだった。
「あんたには、絶対にわかりっこないわよ」
そして花子さんは口を噤む。
気丈に振舞ってはいても、足も微かに震えていた。
皐月はそんな花子さんをつまらなそうに一瞥する。
「二度はないわ」
皐月は興醒めしたように爪を引いて、立ち去った。
皐月とて、かつては知っていた。
秊の無謀な試みの原動力を。花子の強さを。
他人のためだからこそ持ち得る強さを。
月日はヒトから多くのものを奪い去る。
皐月にはそれらはもう、眩しすぎた。
人影のない廊下に出て、皐月は呟く。
「馬酔木……。俺は、間違っていても、それでも……」
それを聞くものは、いなかった。




