1章 6話
「…〜い、………って」
ぼんやりとした意識の中、誰かの声が聞こえる。
「お〜い、起きて下さいって」
次第に意識がはっきりしてきた。
これは誰の声だろう?
私はゆっくりと目を開いた。
柔らかな朝の陽射しが、棚に収められた様々な器具に降り注いでいるのが見える。
頭の感触からすると、私は床に寝転んでいるようだ。後頭部に痛みを感じて触れてみると、たんこぶができている。
ここは……学校?
もう卒業したはずなのに、なんで……?
混乱のままに、辺りを見回す。私がいるのはやはり、朽名高校の理科準備室のようだった。いったい昨日、私に何が起きたのだろうか。
ぼんやりと記憶をたどる。
そうだ。確か昨日は……。高校に忍び込んで……プールで恐怖体験で、それから理科準備室がスプラッタで気絶して……。
私は慌てて飛び起きた。
部屋の中に昨日と変わったところはないようだ。強いて言うなら、窓の外が明るくなっているくらいか。
「やっと起きたんですね。いきなり気絶されたので、驚きました」
目の前の床に乗っかって、溜息をついているホルマリン生首を除けば。
夜が明けたため昨日ほど怖くはないが、朝の陽射しを浴びる怪談の姿はどこかシュールだ。
今気づいたが、喋るというより、話しているかのように頭の中に声を響かせているようだ。ホルマリンの中では空気もないので、呼吸ができないゆえの措置なのだろう。
再び意識が遠のいていきそうになるが、何とか堪える。
とりあえず向こうに話す気はあるようなので、情報収集してみよう。
私は恐る恐る、床の生首に向かって話しかけた。
「あの〜、ここはいったい何なんですか?」
まともな答えが帰ってくることはたいして期待していなかったが、生首は律儀にも答えてくれるようだ。
「ここはご存知の通り、朽名高等学校ですよ。ただし裏側ですけどね」
「裏側?」
どういう意味だろうか。
ここが普通の状態でないことは、分かるけれど。
私の疑問を汲んでか、彼は丁寧に説明してくれる。
「ここは一種の異界です。例えば古来より神隠しがあるように、この世界には、少ないながらも別の世界への扉があります。多くはそこの主に管理されつつ、時には隠され、時にはヒトを攫い。そこに飲み込まれた人々が、神隠しにあったと言われているのです。そしてここも、そんな異界の1つ。ここは朽名サマの管理する、裏側の学校です」
一瞬、私は彼が何を言ったのか理解できなかった。夢オチという方が、まだ現実的だ。
けれど……それなら昨日から体験している異常現象の原因に。説明が、ついてしまう。
「あはは……まさか。だ、だって、ありえないでしょ」
「まあ、信じるにせよ信じないにせよ、これからたっぷり思い知ることになりますけれどね」
乾いたように言った私に、彼は意味深な微笑を見せる。
嫌な予感がして、私は尋ねた。
「……どういう意味?」
「だって、あなたはここから出られませんから」
こともなげに、彼は言う。
「え?」
呆然とする私を尻目に、彼は嗤った。
今度こそ七不思議にふさわしく、ねっとりと。
「表と裏の学校は重なりあっていますが、門が通じるのは年に一回、祭りの日だけ。来年までは帰れないことになりますね」
一拍おいて、彼の言葉が頭に染み渡る。
何かが崩れ落ちる音が聞こえた気がした。それは、日常とか常識とか、そういう類のもの。
彼は、にこやかなまま続けていく。
「昼は表、夜は裏が実体を持ちます。裏から表は見えますし触れますけれど、逆は無理ですよ。よほど条件が合わなければ。まあでも安心して下さい。表の人たちの記憶は都合よく歪曲されますから、あなたは失踪したことにでもなっていると思います」
良かったですね、と。彼は言う。
嘘だ。嘘に違いない。
私は必死にそう思い込もうとした。事実、彼が真実を語っている保証などないのだから。
でも……。
白いキャンバスに垂らした墨のように、私の心に生じた疑念は浮き立つ。
目を背けようとすればするほど、無視できない。引きつけられ、逃げ場のない考えにどうしようもなく囚われていく。
それが本当なら、これからどうすれば良いのだろう……。
じわじわと、忍び寄る不安。
彼が語るたび、私の目の前が真っ暗になっていくようだった。
彼は器用に、ガラスのケースの中で首を傾げた。ゆらり、とホルマリンの海に揺らぎが生じる。
「そもそも君は、どうして夜の学校になんて来たんですか?」
はっと、その一言で思い出した。
そうだった、こんなところでヘタレているわけにはいかない。
『なくしもの』を見つけないと……。
私は自分を叱咤し、自分の目的を伝える。
「一年前のお祭りの夜、ここでなくしものをしたから探しにきたんです」
彼は頷く。
どこか嬉しそうに。
「なるほど。それなら、校長室に行きなさい。あの人は裏の顔役的な存在ですから、手がかりくらいなら、気分によっては教えてくれるでしょう」
私は礼を言って立ち上がった。
どうせ行く当てもないのだ。
彼の助言通り、校長室に向かうことにした。