朽名1
5月になって、梅雨時前の束の間、過ごしやすい天気が続いていた。
私は踊り場で、あの鏡を前に臨んでいる。午後6時の切り替わりと同時にここに向かったのだ。
あれから考えていた。どうするべきなのか。
瑞樹は少し一人にしてほしいと言い、理科準備室のあの場所に帰っていった。胴体のコントロールは戻ったらしく、自分の生首を抱えさせていた。
花子さんのヒントの意味を尋ねることはできなかったが、その必要はなかった。瑞樹の話が、あの謎かけの最大の鍵となったのだ。
意図せずに、あの言葉の謎は解けた。
あとはあの蛇に会えれば、あの日何が起きたのか、稔はどこにいるのかも分かるはずだ。
忘れてしまった記憶が疼くようで、顔を顰めた。
だが、この後に及んで私はまだ決めかねている。
そう、悩んでいるのだ。
私は思い出すべきなのかどうかを。
瑞樹を見ていて思った。知ってしまうことが必ずしも良いこととは限らない。むしろ、知ることによって不幸になることもあるのだと。
何も知らずにいるのは、幸せなことなのかもしれない。
知らなくても済ませられるなら、そうしていたかった。何も知らずに、何も考えずに、ただ周りに合わせていたかった。
でも────それで良いの?
それじゃ駄目だと思ったから、私はここに来たんじゃないの?
思い出したくないんじゃなくて、怖いだけでしょ?
どうするべきとか、どうした方が幸せとかそういうんじゃなくてね。
私はどうしたいの?
「私は、稔に会って謝りたい」
無意識に、何かを呟いた。
頭が痛みだす。
きっと、これが答え。
ねえ、瑞樹。
私、今でもきっと思い出したくないって思ってる。知らないまま、ぬるま湯に浸かっていたい。
でもね。やっぱり、稔に会いたいんだ。
それに────あんなに偉そうなこと言っておいて、自分がやらないなんていうのはないよね?
「……格好つかないもん」
私は鏡に呼びかける。
「出てきてよ、朽名様。……蛇様」
この学校に封じられているのは朽名様。
それなのに、今まで一度もそれらしきヒトには会っていなければ、誰も口に出さない。
土地神と伝えられているのに、誰もその由来を知らない。
瑞樹でさえ、詳しいことは知らなかった。
いるのに、誰も、知らない、見えない、語らない。
私が見たのは大きな蛇だったが、蛇はクチナワとも呼ぶのだ。図書室で、管理人にそう聞いた。クチナの由来は、蛇らしいとも。
時が経つにつれ、"ワ"が欠落したのだろう。
鏡が揺らめいた。
水面のようにゆらゆらと鏡面が波打つ。蛍光灯の光が鏡面に反射して、蛇の鱗が光っているかのようだ。銀色の光沢が、艶かしくくねる。
次第に鏡面は私ではない何かを映し出し始める。
銀色の蠕動が収まった時には、鏡の向こうに稔がいた。
「……稔?」
「姉ちゃん」
稔が言った。
ふらり、ふらりと、引き寄せられるように、鏡に近付いていく。
手が鏡面に触れた。
冷たかった。
鏡越しに触ってみても、温度はなかった。
稔は、鏡の向こう側、平面の世界にいる。
泣きそうな私に対し、穏やかに微笑む稔は、鏡合わせに手を触れ合わせた。
「稔、なんでそんな……」
稔は困ったように、笑った。
「姉ちゃん、覚えてないんだよな?」
「うん、だから私、クチナサマなら知ってる気がして、それで……」
「姉ちゃんが覚えてないなら、それは知る必要がないってことだ。どうってことない、本当にどうでも良いようなことさ」
「そんなはずないでしょ!? だってそんな、鏡の中なんかに入っちゃってるし……!」
「いいや、どうでも良いことなんだ。それよりも、なあ。姉ちゃん今、幸せか?」
「……っえ?」
脈絡のない問いに戸惑う。
稔は真剣に、私に尋ねている。妙に大人びた顔で、私の答えを待っていた。
重ねて問われる。
「幸せなのか?大事にできるもの、見つかったか?……ちょっと言いにくいけどさ。いつも、なんかてきとうに周りにあわせてばっかで、いいかげんに笑ってたろ?」
私も気付いていなかったことに、稔は気付いていたのだ。
何にも拘らないから、いつも相手が望むようにしていた私に。
「うん」
「……そうか」
稔は鏡合わせにしていた手を、離した。稔は笑っていた。とても清々しい表情だった。
「稔、私ね。何かを忘れてるはずなの。それは多分稔に関係することで、それを叶えるためにここに来たんだ。……稔は何か知ってるんでしょう!?」
字数&展開の都合で、すごく微妙なところで切っちゃいました。
すいません。




