1章 5話
◆◇◆◇◆
#2 理科準備室のホルマリン生首
なあ、次の授業何だっけ?
えっ? 理科室で実験!?
マジかよ……。タイミング悪いな……。
うん? タイミングがどうしたって?
実は昨日、部活で先輩に七不思議聞かされちまってよ…。
お前知ってるか?
『理科準備室のホルマリン生首』ってやつ。
あ? 名前長いだと?
いや、俺に言うなよ……。
んんっ。
まあそれはともかく、その話、怖すぎるんだって!
は? 聞きたいのか?
いいけどよ。
それじゃあいくぜ。
こうなったらお前も道連れだ。
昔、この学校に、若くて有能な女教師がいたんだ。
担当科目は理科。
生物・化学・物理なんでもござれだったんだと。
素行も良いし、生徒からの人望も厚い。
生まれは資産家の家。
おまけに美人な女教師だったが、一つ重大な欠点があった。
生徒の一人に惚れちまったらしい。
許されない思いだってことは分かってたから、ずっと胸に秘めていたんだと。
だがそいつが3年生になって、卒業する時。
どうしても諦めきれずに、人目につかない理科準備室にそいつを呼び出して、告白した。
結果? もちろん断られたって話だ。
だが、何不自由なく大切に育てられ、おまけに挫折も知らなかった女教師は激昂して、その男子生徒の首を締めて殺しちまった。
まあ、痴情のモツレってやつだな。
で、女教師は激情が通り過ぎると後悔した。
だが、それと同時に思ったらしい。
これでずっと一緒にいられる、ってな。
そもそも、大事なやつの首を締めた時点で、女教師は狂っちまってたんだよ。
そして、理科準備室に鍵をかけて、大鉈を買って来ると、死体から首を落としてホルマリン漬けにして隠した。
もちろんそんなずさんな凶行がバレないはずがない。
失踪と同時期に鉈なんて買ったから、すぐに逮捕された。
でもな。
見つからないんだと。
何がって?
ホルマリン漬けにされた頭部が、だ。
だから、理科準備室に行くとたまに、運が悪いやつの目に映るらしい。
ホルマリン漬けの、男子生徒の生首が。
◆◇◆◇◆
室内には、やはり理科室と同様に煌々と明かりがともっていた。
無機質な白い壁と飴色の床に、光が照り返している。
理科準備室は窓が一つに机が一つ、後はたくさんの、大きな木製の棚に納められた物がひしめきあうだけの小さな部屋だ。
壁沿いに、3つの木棚がある。
1つはドアを開けてすぐ左。理科室の黒板の、壁を挟んだ裏側ということになる。
残る2つは向かいの壁沿いに仲良く並んでいる。理科室と同じく明かりがついていたので、少し安心した。
ホルマリン標本があるのは確か……ドア横の棚だ。
さっきと同じパターンなら、そこに生首がある可能性が高い。
一度目を瞑ると覚悟を決め、一気にそちらに頭を向ける。
だが……なにもない?
棚には、特に異変は見受けられない。
そこには私の知っているように、鍵のかかった戸棚の向こうに、ガラスの容器に収まった、蛙やらフナやらといった馴染みのある生き物から得体の知れない何かの一部までが、生々しい肉の色を晒して整然と並んでいるだけだった。
もっとも、それだけで充分グロテスクなのはもちろんだが。
蛙の標本がてらてらとホルマリンの中で、気持ち悪いくらい鮮やかな緑を披露しているのに目が合ってしまい、慌てて視線を外す。
他に何かないかと確認したが、何も見つかることはなかった。
……良かった。
今度は心置きなく周囲をきょろきょろと見回すも、特に何もなさそうだ。
なくしものが無いのは残念だが、生首を見なかったのにはほっとした。やはり私の考えすぎだったのか。
プールであんなものを見たせいで、過敏になっていたようだ。
私は緊張を緩めほっと胸を撫で下ろして、部屋から出ようと背を向けた。
緊張していたのか手にかいていた汗を服で拭い、ドアノブに手をかける。
「ねえ」
何か聞こえた気がする。それも、後ろの方から。
冷水を浴びせられたように、私はビクッと体を跳ねさせた。
たらりと、首筋に汗が一筋落ちる。
気のせいであってほしい。
きっと気のせいだ。
……あーあー、きこえない。
ワタシ、ナンニモキイテナイヨー。
即座にドアノブをひねる。ぐずぐずしていたら、何をされるか分からない。
ガチャガチャガチャ。
しかし扉はそんな音をたてるだけで、開かなかった。
どうして、鍵なんてかかってなかったはずなのに……!
『何をされる』のかの具体的な想像が、私の脳内を一瞬にして駆け抜ける。
ここでは語らないが、ジャンルがついにホラーに変更されるような内容、と言えばわかるだろうか。……はっ、ジャンルとか、私は今何を考えていたのだろう。
「ねえ」
再び声がした。
焦りと恐怖が募ってくる。
意識せず、呼吸が早まる。
読みが浅かった。ここの怪談は何をする怪談なのかが伝わっておらず、危害を加える内容がなかったから油断していた。
しかしそれは裏を返せば、何をするかわからない、ということでもある。
もう打つ手がない。
こうなったら、相手はホルマリン漬けだ。
あわよくば隙を見てガラスを割れば何とかなる、かもしれない。割るガラスがホルマリン標本の容器か、それともこの部屋の窓かは想像にお任せする。
そんな希望的観測を抱いて、振り返る。
そして、私は見てしまった。
向かいの棚のうち、左手の方。
分厚い専門書が並ぶ一角の、その奥の一部が、壁をくり抜いた隠しになっていた。
本がまばらになった一部の影から覗いているのは
……少年の生首の、ホルマリン漬け。
長めの髪を、ゆらゆらとホルマリンの海に揺らめかせている。髪色は黒だろうか。
逸話が逸話なだけに、顔は切れ長のつり目で、和風美人。
ああ、思う存分見惚れられるのに。
首から下がついてさえいれば。
ソレは私と目が合うと、にこりと笑った。
こんな状況に似つかわしくなく、朗らかに。
事情を知らないものが顔だけ見たら、友人にでも会ったのかと思うかもしれない。
一見すると本棚の向こうに少年がいるかのように見えるが、残念ながら周囲は壁である。
プールの時は薄暗くて良く見えなかったのに対し、今回相手がいるのは影になっているとはいえ明るい室内。それも相手は生首。
ついに私は限界を迎えた。
悲鳴すら出ない。
段々と遠退く意識で最後に見たのは、彼の暗く澱んだ瞳だった。