そして世界は分かたれた
蝉の鳴き声が夜の帳に響き渡る、真夏の夜。祭りの日といっても、こんな遅い時間に出歩く人間は少ない。それが夜の学校ともなれば尚更だが、それでもこうしているのは克己が言い出したことだった。
表側との境界が繋がる午前0時に、門へ行こうと提案されたのだ。
もう向こうには帰らないと決めていたが、それでも最後に一目向こうを見ておいてはという彼の声に耳を傾けたのは、やはり未練があるからかもしれない。
門の向こうの白い月。門の内側の赤い月。奇しくも今日は満月だ。鏡合わせのように対称に輝く二つを、寂しいような心境で見上げる。
「──やっぱり帰りたいのか?」
克己の問いに、私は首を横に振った。
家族を置いていっても、彼がいれば幸せだった。壊れたあの場所に最早私の居場所はなく、予定調和のように私のいない世界は変わらず回っていく。
そう、信じていた。この瞬間までは。
「そうか」
その一言が前触れだった。
唐突に、背中を強い力で突き飛ばされた。現状を理解するより早く、私の体はアスファルトの上にうつ伏せに投げ出される。擦りむいた膝のひりつく痛みが、いやに遠く感じる。
克己がやったの…………?
そうとしか考えられない。
でも、信じられない。
膝に手を当てながら首だけで振り向くと、真っ赤な炎が視界を塞いだ。間近な熱気に僅かに髪が焦げ、瞼はひりつく。それでも瞬きはできず、私はただ目を見開くばかりだった。
呆然と。赤い壁の向こうの人影を見つめる。
「────かつ、み?」
どうして、とか。なんで、とか。
そんなことが浮かんでは消えて、それ以上は言葉にならなかった。ただ名前を呼ぶだけの私に、彼は場違いに明るい声で告げる。
「オレさ。一年秊と一緒にいられて、楽しかったよ。それは本当だ。けど」
炎の向こうで彼が笑う気配がした。
「やっぱり違うんだよ。だって────オレは。オレたちは、生きてない」
それは先月天宮さんに、消えていった彼の弟のことを語った時にも聞いた言葉。
そんなことは知っている。だけどそれが何だというのだろう。
ここにいて。
一緒に笑って。
想いを通わせることができるなら、その存在が嘘だって構わない。
「それでも良いの…………! ねえ、やめてよ……こんな」
今更そんなことを言われたところで、この気持ちが揺るぐはずもない。
彼と一緒にいたかった。ここに残って、いつかこの関係が終わるとわかっていても、その瞬間まで共にいることを願ったのに。
「……それでもさ。アンタには帰る場所がある。高校生で時間が止まって、時間の決まった延長戦を消化してるオレたちとは違うんだ。待っててくれる人が、いるんだろ? やりたいこと、やり残したこと。あるんだろ?」
「……そんなの」
ない、と言い切るつもりだった。だけど、パパとママや颯太の顔が思い浮かんで、否定しきれない。みんなへの私の想いが、断ち切れない。
代わりに口をついたのは、克己の問いの答えではないけれど、確かな私の本心だ。
「それでもいいよ……! 私、決めたの。そういう道を、自分で選んだんだから」
炎の壁を抜けることは不可能だ。膝立ちになって縋り付くように、限界まで火に近付いて手を伸ばす。炙られた皮膚がひりつき、見る間に赤い水ぶくれになっていく。
息を呑んだような気配は感じるけれど、克己は炎を消すことはおろか、弱めることもしてくれない。むしろ強く燃え盛る炎は勢いと密度を増し、私を拒絶した。
「手を、引け。秊は……アンタは、勘違いしてんだよ」
「勘違い……?」
「家族が壊れて、そこは自分の帰る場所じゃないんだって思い込んでるだけだ。帰りたくないんだって。だから都合のいい時期に告白したオレに依存して言い訳して、こっちに残ろうとした」
「…………違う!」
それは私も考えた。
そんな考えは一筋もなかったのだと言えば嘘になるが、決してそれだけじゃない。
打算があったのは本当。
私が克己に抱いていた好意も本当。
そして……克己に見透かされた家族への罪悪感と未練も、紛れもない本物だ。
「どれだけ否定しようがいいんだ。もうこれはオレが決めたことなんだからな。こんな……死にかけみてえなオレがアンタを想うことはさ、ダメなんだよ」
一度言葉を切って、克己は続ける。
「大丈夫だ。壊れたなら直せばいい。すぐにでは無理でも、ちゃんと話して伝える努力をするんだ。諦めさえしなければ、きっとアンタの気持ちは繋がる。それが……家族ってもんだろ」
泣きたいくらい優しい声が憎らしくて、涙が溢れてくる。しかしそれも炎に炙られて、流れてはすぐに蒸発していく。
「幸せになれよ! ここでの出来事は夢なんだ。起きればすぐに忘れてどうでもよくなっちまう、何でもないゴミ屑でしかねえ。たださ」
聞きたくない。そんなお別れみたいな言葉、いらない。
耳を塞ぎたい気持ちで一杯だけど、絶望で手が動かない。胸の中は灼熱するナイフを突き立てて掻き混ぜられたみたいにぐちゃぐちゃに、色んなものがこみ上げてはせり上がってくる。
伸ばしていた腕はいつしか落ち、私は正座を崩したみたいな体勢で座り込んでいた。
「もしアンタが少しでもオレのことを想ってくれてるなら────忘れないでほしい」
炎が揺れる。それはきっと、彼の心も揺れているから。深紅に鮮やかな橙と黄金が混じり、私の嫌いな夕焼けによく似た色合いが網膜に焼き付けられる。
ごめんな、と克己は言う。
「オレのことは忘れろっていうのが正しいんだ、多分な。あの不良に言ったみてえにさ。だけどやっぱり……忘れられるのは、寂しいから。時々思い出してほしい」
忘れられるわけがない。家族も颯太も、全部置き去りにしても良いと思えるくらい大切だったんだから。
嗚咽がこみ上げ、もう何も言えない。涙で曇った視界から、一瞬だけ。
赤も橙も黄も。
炎の色が消え失せる。
その向こうに見えた光景を、私は生涯忘れないだろう。
仄暗い夜空に君臨する、濡れたように赤い満月。跳ねる炎の残滓は、芥子粒のような黄金色の光となって視界の隅を彩る。
そして、悲しそうに微笑んだ克己の瞳が映すのは、私。
その最後の言葉。小さな呟きが私の耳に届いたのは、ある種の奇跡だった。
「────秊を幸せに、したいんだ」
瞬きをした覚えはないのに、夢だったように一瞬でその光景は消えてしまった。
0時0分が終わった。境界が閉じたのだ。
「そんなこと言われて…………忘れられるはず……ないよ」
きっと、最期まで覚えている。
胸で揺れる銀の指輪のように、消えることなく永遠に残り続ける。
夕陽を映す炎のように鮮やかで。
全てが私の涙で滲んだ。
心に焼き付く、彼へのこの恋心を。




