1章 2話
何処からか漂ってくる、淀んだ水の匂い。生温い不気味な風には、塩素の刺激臭が混じる。
そして、閉塞感と圧迫感を感じさせる、黄ばんだ、もとは白かったらしい内装。
所々に見える黒い物は、カビだろうか。
私は今、自分の靴を片手にぶら下げて、プールに通じる通路を歩いている。
我が母校には室内プールなどという優雅な代物はなく、微妙に汚げな屋外プールがあるだけだ。
しかも安普請で、更衣室も申し訳程度の規模の、まさに泳げればいいんだろ、と言わんばかりのもの。
いっそシャワー室がついているのが奇跡のようだ。
なぜ私がプールなんかに向かっているのかというと、実はこの学校には七不思議なんてものが存在するからだ。
それぞれ、プール、理科室、家庭科室、焼却炉、音楽室、校長室が舞台となる。
6つしかここで挙げなかったのは、7つ目は欠番で、誰も知らない、知ってはならない、とされているため。私自身、在学中も聞いたことがなかった。
まあそれはともかく、七不思議がある場所ということは、不気味がって人が寄り付かない、ということでもある。
なくしものを探す際に、用務員さんにでも見つかって強制退場、というのは遠慮願いたい私としては、基点としてうってつけだ。
それに、 元々このあたりには怪談や心霊現象が多い。仮に私が姿を見られたりしても、怪談に拍車がかかるだけ。七不思議は幸い、校舎中をかなりの範囲カバーしている。
一本道の通路を一定の足取りで進んでいく。場所が場所なだけに、なんだかじめじめしている。
前方に、更衣室が見えてきた。男女で左右に別れているのだが……。
……なんだろう。
女子更衣室の前に小柄な人影があるような……?
それにしても小さい。150センチもないのではなかろうか。
頭上の黄色っぽい光を放つ蛍光灯が、ジジジッと音をたてて点滅し始める。
──こんな夜に誰だろう?
よくわからないけれど、学校関係者なのだろうか?
それにしてもずいぶんと小さいが。もしかして……生徒?
そうだとしたらまずい。正直に言って、こんな時間に学校にいるのは危険だ。ましてここは曰く付きのスポット。何とかして帰らせるべきだ。
……というのは建前で、本当の所を言うと、その人物から校内への不法侵入がばれたらまずいというだけなのだが。
しかし、夜中にわざわざプールに来るなんて、ありえるのだろうか。
頭の隅で、警鐘が鳴る。
行ったら取り返しがつかないことになるのだ、と。
なら、ここで諦める?
冷静に問う私がいる。
──それは出来ないと、知っているくせに。
私はどうにかしてその人物の口を塞ぐため、そのまま近づいていった。
照明が点滅しているためか、一段と通路は不気味さを増している。
相変わらず頭の中に忌避感はある。
まるで、そのまま進んだら、帰って来られないような……。
──それでもいかなくちゃ。
探すの、なくした大切なモノを……。
私は意志の力を振り絞って、足を動かす。
ぼんやりと断続的に照らされる白壁は、黄ばみとカビらしき黒のせいで、死んだ老人の肌のように不吉な雰囲気を拡散していた。夏のさなかにもかかわらず、冷や汗が背中をつたっていく。
ぺたん。 ────ピシャン。
ぺたん。 ────パシャン。
靴を脱いだ自分の足音が、大きく響く。
一歩、また一歩と人影との距離が縮んでいく。
そこで私は違和感を感じた。
なぜそんな水気を含んだ音が足元からするのだろうか。
今は8月。最後にプールを使ったのは、例年通りなら7月の半ばがせいぜいだったはずだ。
こんな通路に水が残っているはずがない。
恐る恐る目線を床に向ける。すると、緩やかに傾斜のついた通路の、一段低い排水溝から、水が少しずつ流れ出ている。
黒い私のストッキングに染みたそれからは、真夏のプールにはってあったかのような、気持ち悪い生温かさを感じる。
ヒュッと、私の喉から喘息じみた息づかいがもれた。
まさか……。
足元にこうしている間にも溜まっていく水には、赤い色が混ざってきている。
最初は注視していなければわからないくらいだったのに、こうして見ているうちに、薄く紗を溶いたような色へと濃さを増していった。
出処は、前方からだ。
心臓が壊れてしまいそうな勢いで鼓動を打つ。
見たくない。でも確認しないと……。
私は緩慢に首を上げる。
先ほどまでは距離があって見えなかったが、ソレはスクール水着を着た小柄な少女だった。
最近は腿の半ばまで覆う競泳タイプにシェアを奪われつつある、オーソドックスな古式ゆかしいスクール水着。
ぐっしょりと紺色のはずの水着が、『何か』で水気を帯びて黒く変色している。
顔は光の影になって隠れていた。
唯一覗く口元が艶然と、赤い空に浮かんでいた月と同じ、三日月型の弧を描いた。