再訪2
唐突に、がちゃりと扉が開くような音が耳に届いたような気がした。
「……校内での暴力行為は厳禁だよ。『生徒指導室』で反省しなさい」
その声が聞こえたと同時に、喉の圧迫感が消えた。気付けば私の体は、床に尻餅をついた状態で投げ出されている。
絞められた喉に手を当てる。唐突に吸えるようになった空気に咽せていると、優しい声が降ってきた。
「大丈夫……じゃなさそうだね」
誰かは私のすぐ側にかがんで、肩に手を置いたのだろう。涙で視界がはっきりしないが、顔を覗き込まれているようだ。
「ここは危険だから、移動するよ」
肩に誰かの手が回り、私の体は支えられながら誘導されていく。背もたれのある椅子に座らせられ、私はようやく状況を把握できるようになった。
どうやらここは職員室のようだ。私が座っている席の机には、たくさんのファイルと家族写真が入った写真立てが、綺麗に端に寄せられて置いてある。
深呼吸して顔を拭い、隣に立って心配そうに私を見ている人物を見上げる。
男性……いや、女性?
パンツタイプの黒いスーツを着たその人は、どうにも不思議な印象だ。個性がないというか……決して性別がわからないほど不細工な顔というわけでも、ましてどこぞの探索者のように顔面がウェルダンというわけでもない。むしろ造作は整っている方だ。
だが、どうにも性別も年齢もわからない。どこかで会ったことがあるような気はしていても、思い出せない。
少し考えた末、私は言う。
「ありがとうございます、先生」
そう、先生だ。無個性なのに、名乗らなくてもこの人は『先生』だという強い印象を受けた。
「気にしないでいいよ。君が『生徒』なら、私が守るべき存在だから」
ふっと微笑み、その人物は隣の椅子に座った。そして、椅子のキャスターを回転させると、堂に入った仕草で机に片肘をついて私と向かい合う。
「まずは初めまして。私は先生だ」
「……? あの、在学中にお世話になった、んですよね? すいません、覚えてるような覚えてないような……」
見れば見るほどわからない。
思い出そうと苦心して記憶を浚っていると、『先生』はまたしても小さく笑う。
「無理して思い出そうとする必要はない。だって、私と君は初対面なんだから。──改めて自己紹介しようか。私は裏側の学校に棲む、『先生』という名前の怪異なのさ」
「…………?」
「表側の学校で流れてる、先生の噂。色々あるだろう、ほら。何々先生が生徒に手を出したらしいとか、裏口入学を斡旋しているらしいとか。何々先生の授業はつまらない、おもしろい……そういうのが積もり積もった集合体が私、先生なんだよ」
つまりところ、学校に流れる先生というイメージや噂の集合体が、目の前の黒スーツの人物の正体らしい。それなら、見たことがあるようなないような奇妙な感覚や、不自然に曖昧な印象も理解できる。
「それじゃあこの、会ったことがあるようなないような変な感じは……」
「そうだね。九重、きっと君が会ったことがある『先生』の誰かの噂も、私の一部だからだろう」
「あの、私の名前?」
まだ名乗っていないはずなのに。
「言っただろう、私は先生。先生という生き物なら、生徒の姓くらい知っているものさ。もっとも、私には君の姓と今年卒業したはずだということ程度しかわからない」
だから、と先生は続ける。
「次は君のことを聞かせてくれるね?」
声は柔らかいながらも教師らしい強制を込めて促す先生に、私は頷いた。
先生だというし、このヒトなら力になってくれるだろう。もし駄目でも、先生自身も怪異なのだから、少なくとも『そんなことはありえない』と一笑に付されることはないはず。そう思い、私の現状を言葉にしていく。
1年前の朽名祭の夜に、ここで何かをなくしたこと。
にもかかわらず、こちら側に来た影響で何を探しに来たのかを忘れてしまったこと。
そして、皐月様に言われて七不思議のどれかに身を寄せることになり、庇護者として焼却炉の探索者を選んだこと。
もっとも、焼却炉の探索者には庇護どころか殺されそうになってしまったが。
「──それで、常盤に言われて。焼却炉の探索者の名前を探せって」
「焼却炉の探索者。ああ、黒崎か」
「知ってるんですか!?」
「だから、先生が生徒の名前を知らないはずがないだろう? もっとも名字だけだがね」
先生は額に手をやり、思い出すようにして続ける。
「彼なら14、5前の、ここの生徒だった。確か妹がいて、今でも毎年焼却炉に花束を置きに来てたはずだね。今年も来るだろうし、彼女に訊いたらどうだい?」
「…………! それって大体いつ頃ですか!?」
「学園祭の……朝一だったかな。まあ午前中のうちだったかと思うけれど」
情報を得た私はじっとしていられず、椅子を蹴るようにして立ち上がった。職員室から出ようと走る体勢に入ったところで、先生に制止される。
「待ちなさい」
怒鳴られたわけではない。それなのに、その声には足を止めさせるだけの威厳があった。
「どこに行くつもりだい?」
「それは……でも……」
しどろもどろに答えた。
行き先なんて決まっているはずがない。ただ、いてもたってもいられなかっただけだ。
走るのか立つのか中途半端な体勢の私に、諭すように先生は言う。
「黒崎妹が来るまでまだ日がある。焦っても仕方ないだろう。君は知らないかもしれないがね、裏側の、特に夜ともなれば、危険な怪異もうようよしているんだよ。無闇に動き回ってはいけない」
「でも、じっとしてるだけなんて……! 私は早くアレを見つけないといけないんです!」
「黒崎妹は、学園祭になれば十中八九、焼却炉に来る。それは君がそれまで何をしようと変わらない。君が今感情的に行動して、死にでもしてしまったらどうする」
まったくもって正論だ。何も言えなくなり、ただ俯いた。
そんなことにも気付けなかった自分が恥ずかしくて、そして待つ以外何もできない自分が悔しかった。
黙り込んでいると、私に追い討ちをかけるでもなく、先生は纏う空気を緩める。
「待つことが、今の君にできる最善だよ。……どうしても耐え難くなったら、何かする前にここに来ること。いつでも相談に来て構わない。わかったね?」
「……はい」
見なくても、先生がどんな表情をしているかわかる。
私は顔を上げて、先生の顔を見た。
先生は予想通り、どこまでも教師の顔をして、キャスター付きの椅子に座って真剣な表情で私を見ていた。
「色々ありがとうございました」
込み上げるやるせない思いは、胸に押し込める。私は軽く頭を下げて、職員室から出て行った。




