常盤の願い
こちら側に残ると決めて以来、日々を校長室で過ごすのが日課になっていた。まだ七不思議としては弱く力のない私は、皐月から色々と教わることも多い。
稔にはまだ会えていないし常盤も見つからないうちに2月になってしまったが、焦りはなかった。残ると決めてしまえば時間はあるのだ。急ぐことはない。
だが────本当に残って良いのか。決断はすでに下したはずなのに、その疑問が頭について離れないでいた。
今日は校長室に行く前の散歩がてらに廊下を歩いていたのだが、急に誰かから声がかけられる。
「おい」
声の主を探すと、すぐ先の教室の入り口に常盤の姿があった。片手で扉を押さえながら、こちらを見ている。
私は探していたうちの一人を見つけ、思わず声を上げる。
「常盤!」
「……入れ。話したいことがある」
私は教室の奥へ進む常盤の後を追った。
教室のカーテンは開け放たれていて、外の校庭の様子がよく見える。曇り空から入り込む薄い光が、無人の教室を灰色がかった色に照らしている。光の加減か、世界がモノクロになってしまったような錯覚に陥りそうになる。
常盤は教室の窓際後方、ベランダへ続くガラス戸へ、腕を組んで寄りかかった。私は彼と数歩を空けたところで立ち止まる。
常盤はまだ頭の中で話すことの整理がついていないのか、何かを言いたそうには見えるものの、重く口を閉ざしたままだ。
先に言葉を発したのは私だった。
「……ありがとう」
唐突な感謝の言葉に、常盤は訝しげに眉根を寄せる。
「あの日、助けてもらった時に言えなかったから」
「…………ああ」
息を吐くような声を漏らすと、彼は表情をわずかに緩めた。そして、ゆっくりと言葉を選びながら告げる。
「記憶はほとんど思い出したようだな」
「…………」
「私が知る、あの日のことを語ろう」
常盤は思いを馳せるように目を閉じてから、口を開いた。
「私は遥か昔、この地にあったムラで恐れられる大蛇だった。幾人も捧げられたヒトを喰らってきた。……ヒトなど、取るに足りない愚かな存在だと、思っていた」
それはこの地で土地神として崇められていた頃の、朽名様としての彼の記憶。
私の予想通り、常盤の正体はやはり朽名様だったのだ。
「思い上がっていた私は、一人のヒトの手で封印された。それが皐月様だ。封印されてからというもの、気の遠くなるほど長い時間、私は一人だった。やがてヒトは繁栄し、この地は様々な施設に利用された。封印の中から私は、ヒトの営みや封印のために人柱となったヒトたちを見ていた」
常盤は言葉を切り、大きく息を吐く。
「やがて私は……ヒトに憧れるようになった」
「憧れる?」
「そうだ。孤独ではないということをヒトを見て学び、私は孤独を恐れるようになった。……誰でもいい。私の名前を呼んでほしかった。私がいると、気付いてほしかった」
朽名様の本当の名前は、初代巫女に隠されてしまった。誰もその名前を呼ぶことはできない。
自分の手の届かない世界での何気ないヒトの日常も、彼にはどうしようもなく眩しく見えたのかもしれない。
「そんな時、私はある噂を聞いた。今年の祭りの日の夜、ヒトが裏側に迷い込んで来ると。前年の祭りが雷雨で中止されていたことや、10数年前に七不思議の幾つかが代替わりしていたことで、当時封印は弱まっていた。もう一度ヒトを喰らえば……ヒトビトは、私を思い出してくれるのではないか。そんな邪な思いを、私は持ってしまった」
それが原因で…………私たちは。
憎しみとも憐れみともつかない感情がごちゃまぜになって、胸を染め上げていく。
「──そして私はあの夜、後に姉弟だと知った弟の方を喰らった。二人まとめてと思ったが、姉の方は庇われて逃れた。それが貴様だ。もっともその時の傷が原因で、貴様の運命もまた狂うこととなってしまったが」
「食べられたなら、稔は死んじゃったはずじゃないの?」
「私のヒトへの憧れか。あるいは何らかの他の要素の働きか、私は力の大半を失って、朽名様という型から抜け落ちた常盤というヒトになった。入れ替わりに、貴様の弟は朽名様という型に嵌り、鏡の向こうへと閉じ込められた」
「そんな……」
理解も納得もできずに言葉が継げないでいる私に、彼は言う。
「──すべては私の身勝手が招いたことだ。謝罪して許されることではないが……すまない」
「謝らないでよ、だって……謝られたって、稔は」
自分の声が震えているのがわかる。常盤はただ、悲しげな目をして立っている。
「せめて、あやつの願いだった貴様の幸せだけは守りたかった。だから貴様を真実に近づかせようとする可能性のあった皐月様から遠ざけようとしたし、仮に貴様が皐月様以外の怪異と行動を共にしていたならば、校長室からも遠ざけただろう。それが私にできる唯一の償いだと、思っていた」
伏せられていた常盤の目が、私に向けられた。
「貴様はここに残るのだったな」
私は首肯した。
だってもう、それ以外の選択肢はないのだから。
皐月にそう、気づかされてしまったのだから。
「私は、自分が人間じゃなくなったって知っちゃったから。もう、帰れないよ。まして……稔を置いてなんて」
咎めるような常盤の目。それから逃げたくて、視線を逸らす。
「そうか……。あやつは望まないだろうがな。真実を知ることも、ここに残ることも。だが、私はそれが正しいのかはもうわからん。……明日、大鏡の前へ行け。待ち人に会えるだろう」
「わかった」
私が答えると、常盤は私の横を通り過ぎて教室から出ようとする。だが、私は彼を呼び止めた。
「待って」
常盤は足を止めて、律儀に応える。
「まだ何かあるのか?」
「馬酔木って、笹野神社の開祖なんだよね。皐月とその人は、どういう関係なの?」
自分が以前馬酔木のことを調べるよう助言したことを思い出したらしい。常盤は少し悩んだ様子を見せたが、教えてくれる。
「……馬酔木は皐月様の姉にあたる。生贄として育てられた娘らしい。私を封印したのも、私に喰われたのも、結局は馬酔木に化けた皐月様だったがな」
馬酔木に化けた……? 身代わりになったということだろうか。ということは、女装?
変な風に思考が逸れ、考えていた事が口に出てしまう。
「まさか、皐月の女バージョンの姿って」
「こちらにいれば、噂の類の影響を少なからず受ける。事実関係から、馬酔木の伝承と一部混じってしまったのだろう。御本人は楽しんでいらっしゃるようだが」
常盤の顔に、なんとも言えない表情が浮かぶ。散々からかわれた彼には、思うところがありすぎるのだろう。
「馬酔木のことを助言にしたのは、すべての始まりとなった私の封印に深く関わるからだ。他意はない」
目の前の常盤や皐月は、多少浮世離れしていても、そんなに昔の人という感じではない。唯一この場にいないかつての当事者は、馬酔木だけだ。
皐月に守りたかった女性と言わしめる、私に似ているらしい彼女。
「あの、最後にいい? 馬酔木ってどんな人だったの?」
「私もそう詳しくは知らん。一方的に姿を見たことがある程度だ。話したこともない」
常盤はそう言いつつも、続ける。
「……哀れな女だった。いつか捧げられるとわかっていて生きねばばらなかったのだからな。だが同時に、抗うことを知らぬ女だった。その点で言えば、お前とは全く似ていないように思う。……これでいいか?」
「うん。ありがとう」
今度こそ去るかと思えば、常盤は動かない。静かに佇んでいる。しばらくして、その口が重たげに開かれた。
「皐月様に気をつけろ」
「それは前にも言われたけど、皐月から私を遠ざけるためだったんだよね? どうしてまた」
「皐月様も、初めはお前に真実を告げられるつもりはなかったはずだ。心変わりを起こしたとしたら、それはお前自身が原因だろう」
常盤は目を細める。銀縁眼鏡の奥で、蛇のような瞳孔をした常盤色の瞳が迷っている。
「……最近、皐月様と話した。彼の方は、お前を馬酔木と重ねているのやもしれん」
常盤は踵を返し、皮靴の音を響かせて教室から出て行った。
────皐月は馬酔木という存在に、囚われている。
私は見ることもかなわない過去の人に、興味を感じた。




