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朽名奇譚  作者: いちい
#4 黄泉の家庭科室
101/205

家族の糸2

 




 一呼吸置いて、(みのる)は尋ねた。


「姉ちゃんはオレのこと、どう思ってた?」

「どうって?」

「難しく考えなくていいんだ。思ったことをそのまま言ってほしい」


 私は少し悩んだ。正直に告げて良いのか、と。だが、稔はその場しのぎの言葉などほしがらないだろう。稔は……そういう言葉をかけると、寂しそうに微笑う子だったから。


 私は弟によく思われないことを理解しつつも、偽らざる本音を告げる。冷酷な、口に出すのも躊躇うようなヒトデナシな一言を。


「……どうでも良かったよ」


 言ってから、稔はどうだったのかが気になり、付け足す。質問の読めない意図を探る打算もあった。


「稔は?」

「…………俺?」


 稔は意外そうな顔をした。私にそんなことを訊かれるのが意外だったのかもしれない。

 私の弟は、軽く肩をすくめながら答えた。


「俺は姉ちゃんのこと、大嫌いだった」


 『大嫌い』と言ってはいるが、嫌悪や軽蔑はそこにない。むしろ親愛にも似た感情が、稔の言葉からは感じられた。


 ──なぜか唐突に、謝らないくてはいけないと思った。


「……ごめんね、稔」

「なんだよ急に。っつうかやめろって。このタイミングで謝られると、何か惨めだ」

「さっきのことじゃない、と思うんだけど………。でも……わからない、けど……」


 ──もっと別の何かに突き動かされたのだ。上手く言うことができない、何かに。


「……でも、謝らないといけない気がして。私は何か大事なことを忘れてるんだと思う。……それこそ謝らなくちゃいけないようなこと。それが何なのかは思い出せないんだけど」


 鏡の向こうの稔は、口元を歪めた。


「姉ちゃんが覚えてないなら、所詮その程度のことだったってことだ。気にすんな」

「…………うん。でも、ごめん。……ありがとう」

「どうしたんだよ姉ちゃん、さっきから何か変だな。……だけどアレだ、うん。前よりずっといい顔してるよ」


 ゆっくりと、私の頭の奥にあった感情が溶けていくのを感じる。それは、重く粘つく罪悪感。そして、後悔、懺悔。そういう性質のものだ。


 沈黙がその場に横たわる。何かを言おうと私が口を開いたその時のことだ。


 稔に筋が入った。

 筋。そうとしか言いようがない赤黒い線が、鏡面に真っ直ぐ走ったのだ。数は、全部で六条だった。


「み、稔!? なにこれ、血……?」


 筋はてんでばらばらに、鏡面を縦に横に覆っている。乾いた血の色をした筋は、稔から線状に血が流れているようにも見える。


「違う違う、これはなんつうか……あー、イメチェン?」

「ふざけないでよ! ……ねえ、これなんなの!?」


 鏡面を拳で叩くが、何も起こらない。


「うわっ、ちょ……割れたらどうすんだよ!? あと、あんまり触んな。良いもんじゃないからな」

「良いものじゃないなら、なおさら安心できないよ!」

「良いもんじゃないけど、悪いもんってことでもないさ。まああれだ。気にしたら負け?」

「……なにそれ」


 拳を下ろし、脱力したように私は呟いた。

 あまりにお気楽な発言をする稔に、腹が立つような、よけいに心配が募るような、形容しがたい感情がわきあがる。


 鏡が次第に、揺らめき始めた。鏡に映る景色も稔も、ひしゃげて判別できなくなっていく。

 稔の声が聞こえる。声はまっすぐに、私に伝わった。

 鏡はこんなにも揺らいでいるのに。


「もう時間か……。さよならだ」


 急すぎる別れに、私は何を言えば良いんだろう。


 まだ鏡面が波打っているうちに。


 言わないと。


 ──だが、私の唇は震えるばかりで、何も言うことはできなかった。


 鏡はまた滑らかに、踊り場の階段を映している。……時間切れだ。


 稔を探さなければならないというあの思いは、霧消していた。

 私が何を忘れていたのか、知ることはなかったけれど、そのことにもう罪悪感は感じない。


 あんなに必死に果たそうとしていた願いの正体が自己満足だったなんて、お笑いぐさだ。

 私は笑みを作ろうとしたが、それは(しぼ)んでしまい上手くいかなかった。もう……終わった。終わってしまったんだ。

 喪失感が涙になって、じわりと滲む。


 稔にはもう会うことはないだろう。なんとなく、そんな気がする。

 でも、自分でもわすれてしまった願いを、私はようやく果たせたんだと思う。


 私は稔を探してそれで。



 謝りたかっただけだったんだ。



 鏡に映る自分の泣き顔をこれ以上見たくなくて、私はそれに背を向ける。後ろから、今にも消えそうなほど(かす)れた、押し殺すような声が聞こえた。


「そうだ、それでいい。オレたちは離れていても、ずっと家族(・・)なんだから。……幸せになれよ」


 誰の声かは、すぐにわかった。考えるまでもない。

 私は声に背中を押されるように、振り向くことなくゆっくりと、歩き出す。


 私は自分で思っている以上に、未練がましい性格をしていたらしい。

 歩きながら、嗚咽が漏れる口を手で押さえる。


 稔なんか、どうでも良いと思ってた。

 家族も友人も、他人事みたいだった。

 ……そんなこと、なかったのに。


 もっとヒトと関われば良かった。

 もっと物事に拘れば良かった。

 そうすれば、わかれの意味も、置いていくものの大きさも、もっと大事にできたんだ。


 涙で目が曇っている。笑顔を『見せて』、さよならできない。


 私はここに残ることを、自分で選んだ。だから、泣いちゃダメなのに。笑ってないといけないのに。

 離れていても、ずっと家族。

 ……もう会えないのに、どうしてそんなこと言えるの? 信じられるの?


 得る機会を自分で捨てていったものたち。過ぎてしまった、大切にできたかもしれないものとの時間が、今になって惜しかった。

 これは、多分。……未練、だ。


 涙は止まらず、私は子供みたいに大声あげて泣いた。

 だけど、足は止めない。

 置いていくものは大きいけれど、私はそれを知っても彼を選びたいと思えるから。


 彼という選択肢を免罪符にして縋るのではなく、彼と先へ歩きたい。そう祈るから。


 前へ()きながら、今だけの涙を家族を想って流す。

 階段を下りきってから、空いた方の手の甲で乱暴に顔を拭った。


 ──これは別に、振り返ってるんじゃないんだからね!


 私は折れた階段の下から上を『見上げ』、叫ぶ。


「……私、忘れないから! 離れてても、稔のこと、思い出すから!!」


 息を整えると視線を戻し、先へと進む。一歩往くたびに、涙が引き、嗚咽がおさまっていく。


 さよなら、稔。

 …………私の家族。




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